第十六章 ムラーラの神獣
ムラーラの神獣。
それは大きな海蛇の姿をしていた。
白くて長い胴体は、直径が八十センチ以上ある。光る目の横には、ウーパールーパーのようなえら鰭がひらひらとゆらめいている。額から伸びる長い二本の触角は、そこから恐ろしい電撃が発せられるとは考えられないほど繊細に、たおやかに、水の流れるままに動いている。とても凶器には見えない。
今、神獣は祠の中で眠っている。
一平は声を掛けた。
一応ミラに祠に詣でる時のやり方を習ってきた。
もちろん、海人の言葉である。
「偉大なるラ・ムー神の御使い、ムラーラの神獣よ。目覚めたまえ。小さな我が身の前にその御姿を表したまえ。我は一平。御身の僕なり。我が願いを聞き入れたまえ」
型通りの文句を並べたが、ヒヤヒヤものである。神獣の精神状態はいつもとは違うのだ。前振れもなく現れて、がぶりとやられないとは限らない。
恐ろしい、とは思わなかった。元々一平はあまり恐怖を感じる質ではない。地上にいる時も、高い崖の上や夜の海を怖いと感じた事はなかったし、海へ出てからも、深い海溝や自分の何十倍も大きい生き物に対しても、畏敬の念を感じこそすれ、恐ろしさに震えた記憶はなかった。もちろん、パールという庇護者を抱えていたので、自分が怖がっていては悪影響を及ぼすために、気勢を張っていたというか面もある。が、基本的に恐怖となる対象が少ない少年である事は確かだった。
口上を述べ終え、しばらくしても、中からは何の応えもなかった。
声が届かなかったのだろうか。
一平は普段あまり声を荒げることはないが、気後れした遠慮の塊のような話し方をすることもない。声質は低くてよく通る声だ。しかも今は一大決心をして神獣に向かっている。腹に力を入れて息を吸えなければできることではない。
一平は今一度口上を繰り返した。
「ムラーラの全ての人を代表して申し上げたいことがある。あなたが知性と心を持ち合わせておられるのなら、ボクと話をしてほしい。我々はあなたの真意がわからなくて、非常に困っている」
付け加えた。
ゴゴゴ…。
かすかな地響きがした。
祠の中から聞こえてくる。
神獣が祠の中を移動しているのに違いない。一平は思わず一歩下がったが、それ以上は退くまいと自分の足に言い聞かせた。
地鳴りは次第に大きくなる。
やがて、世にも美しい神獣の頭部が祠の入り口に現れた。祠の入り口からは出てこない。入り口を塞ぐように陣取って、目の前の少年を直視した。
神獣は言葉も鳴き声も発しない。
一平は膝まづいて頭を垂れた。
「…一平と申します。突然の呼び出しに応じていただき、ありがとうございます。お初にお目もじしますので勝手がわかりません。ボクの言葉がおわかりでしたら頷いていただきたいのですが」
神獣は少し間を置いてからゆっくりと頷いた。
一平はちょっとほっとする。
「…お話の方は…喋っていただくのは、可能ですか?」
神獣は首を振る。横にだ。
では、とりあえず喋ってしまおう。
「今日はお願いがあって参上しました。あなたが何に怒っておられるのか、教えていただきたい。ムラーラの民は皆、難儀しています。どうしたらお怒りを解くことができるのでしょう?」
神獣は答えない。
「若い娘たちは、なぜ攫われたのでしょう?なぜ、神獣ともあろうあなたが人を食したりしたのです?」
神獣が反応しないので続けた。
「巡行に来た人たちのこともです。なぜ、彼らは攻撃を受けたのですか?貢物をしに来ただけなのに」
「……」
「彼らに一体、どのような非があったのでしょうか。罪もない人々を死に至らしめるのが神獣の役目なのなら、我々は考え方を変えざるを得なくなります」
神獣の目が光る。
物騒な光が宿っている。
加えて、ぐるる…という唸り声もする。犬が警戒する時の声に似ていた。
「あなたの望みは何なのです?」
シャッ‼︎
神獣が威嚇の息を吐いた。口の中から凄い勢いで海水が飛んでくる。大砲のように。
「う…」
水泡は一平を直撃したが、ダメージの大きいものではない。咄嗟に腕を翳して胸や顔を庇ったので大丈夫だ。
「お鎮まりを。話をしたいだけです。害悪はありません。
必死に宥めたが、神獣の怒りは収まらない。再び水砲を送り出した。狙いは一平の所持する剣のようだった。二発のうち一発がオリハルコンの剣に、もう一発は肩の上に見え隠れする背中の大剣にだ。
まさかのことで一平はバランスを崩し、尻餅をついた。圧力で後ろに引っ張られたが、二つの剣帯は丈夫で切れる事はなかった。
(剣を狙った⁈)
それが何を意味するのか、一平は考えた。
考えられるのは一つしかない。
害意がない人間が剣を所持していることに矛盾を感じているのだ。そして、一平の言葉を信じられないでいる。
(まずった…)
後悔したが、もう遅い。
一度失敗した信頼を取り戻すのは、失った時の何倍もの時間と努力を要する。
神獣は情け容赦もなく一平に挑んできた。
まずは手初めにその巨体を眼前に晒した。全長三十メートルあると言われる長い胴を祠から突き出し、前方の一平の身体に突撃をかます。
危ういところでこれを避け、左へ飛び退った。
神獣は勢いを減衰させながら上方に伸び上がる。真っ白な、長くて太い胴が一平の視界いっぱいに広がった。遥か上方から彼を見下ろす目は赤く爛々と光っている。
武器を外しておくんだったと反省したが、今更手放すことはできない。何をされるかわからないのに、この卑小な身を素にするのは自殺行為だ。一平の右手は我知らず背中の大剣に伸びていた。
それを認めたのか、神獣は首を急降下させる。
急降下ではあっても、巨大すぎるため、動きは鈍く感じる。
彼は難なくこれを躱した。
その結果、抜身の剣を手にして神獣と対峙することになった。
神獣の胴体は既に真っ白ではなくなっていた。怒ったり興奮したりすると、赤や青に変化する。まるで曇りガラスの中に目まぐるしく色の変わるネオンサインが入っているようだ。こんな折ではあっても美しい、と一平は思った。
刻々と色を変えるのは胴体ばかりではない。目元や鰭の先は特に色濃く点滅していた。
(戦うしかないのか?)
自分の注意力不足を嘆いた。もう少しうまくやれるつもりだった。やはり自分はまだまだ未熟者。歳や身体が成人しただけではだめなのだと、つくづく思った。
パールがいればあるいは神獣と話ができたのかもしれない、とも思った。
彼女に
そういう力があるようなのを、一平は知らなかったわけではない。しかし、ここにパールを連れてくることだけは、一平にはできなかった。もし…もし万が一、何かの弾みででも、パールが神獣に捕まってしまったら…。考えただけでも悍ましかった。彼の頭の中には、その策はない。
抹消されていたはずなのに、いざとなると思い浮かんでくる。
パールの存在は偉大だった。少なくとも、一平にとってだけは。
二度の攻撃で、神獣の動きがそれほど素早くないのだということを一平は肌で理解した。但し、これがまだ本気を出していないのだとすれば話は別だ。何しろ『神速』という言葉だって、地上にはあるのだから。
この程度ならば、賜った剣でも何とかなるかもしれないと一平は思った。ただ、あまり傷つけたくはない。これほどまでに美しい生き物を恨みもないのに殺すなんて、できることならしたくはないのだ。メーヴェではないが。
一平の中にはまだ迷いがある。長老たちの前で大見得を切って出てきたものの、実際に対すると情すら湧いてくる。
一平が許せないのは神獣そのものではなく、パールを人身御供にしようとするムラーラのお偉方の考え方だった。
現時点では、パールを生贄から救う手立ては神獣退治しか考えられなかったから、こうなった。それを思うと、神獣が気の毒にすら思えるのだ。
神獣がパールに対し、少しでも危害を加えていたのなら、そんな同情心は存在しなかったかもしれない。だったら、むしろ心情的にもやりやすかっただろう。
だが、事実は違う。
一平は、怒りを増大させつつある神獣の攻撃から身を躱しながら、神獣の動きを観察していた。
メーヴェがはらはらしてそれを見ている。
もちろん、物陰に隠れてだ。
卑怯なようだがそうするしかない。医師のメーヴェが一平の戦いを援護したとしても、おそらく何の助けにもならず、無駄死にするだろう。
それだけではなく、下手をすれば一平の足手纏いになって、彼に余計な危険を招くかもしれないのだ。
メーヴェはそれをよくわかっていた。
ミラに散々指摘されたせいもあるが、それ以前に理知的で冷静な彼の性格が、心にそう告げていた。
メーヴェの一番有効な使い方。それは診察と治療に使役することだ。
一平の分が悪いようにはメーヴェには見えなかった。
まだまだ余裕を持って神獣の攻撃を躱している。
剣を振るうのはだめでも、見る目はあった。地上でもそういう人は少なくない。自分にその技術がなくても、見る目だけは正確で早く、苦もなく論評できる、いわゆる評論家と言う部類の人々だ。それはそれなりに習得した技術というものだろう。
ミラが危険なことばかりするのでメーヴェは目を肥やされていた。ナムルに適切な助言をすることも可能だった。
そのメーヴェにして不思議だったのは、余力があるように見える一平が全て受け身に回っているということだ。
相手は巨大、偉大だ。能力的にも相当上回っているはずだ。余裕のあるうちに一太刀でも二太刀でも浴びせて、ダメージを与えてしまえば有利なのに。
害悪はない、と言ってしまった手前、神獣に攻撃を仕掛ける事は躊躇われた。既に攻撃を受けているのだから、もう正当防衛で前言は正当に撤回されてもよい。
しかし、一平は誠実でありたかった。剣は身を守るためにのみ使おうと思っていた。
甘い考えだと思わないこともなかった。だが、それでも、一平は攻撃に踏み切れなかった。
(なんだ?どうしてだ?なぜボクはこんなに神獣を傷つけることを躊躇している?)
躊躇していると言うより、恐れていると言ったほうが近いかもしれない。いや、危ぶんでいる、と言うべきか…。
(神獣を退治しに来たんじゃなかったのか?こいつをこのままにしておいたら、パールが危ないのに…。どうしてボクは…)
一平が自分に不信感を持ったその時、彼と神獣の間を何かが過った。
銛だ。
「!」
一平の脳裏に蘇る。二ヶ月前の出来事が。このムラーラに来るきっかけになったそもそもの原因が。
彼は振り返った。
同時に、銛の飛んできた方角から声が降る。
「助太刀するぜ。一平さんよ」
ナムルだった。
ナムルとその一派が、手に手に武器を持って集結していた。
―弟は、神獣退治に賛成派なのだ―
ミラの言葉を思い出した。
「ずいぶん大見得切ってくれたそうじゃないか。一人で退治なんて、そんなにいいかっこしなくてもいいんじゃないか?」
「………」
「見れば苦戦しているようじゃないか。仲良くやろうぜ」
誰がと言って、一番仲良くしたくない相手だった。
だが、腕は立つ。ナムルの配下の仲間たちも、彼には及ばないがなかなかの力の持ち主だ。貴重な援軍だった。
少し前ならば、気に食わないながらも歓迎していたかもしれない。それほど一平は無謀でも自信家でもなかった。しかし、今は…。
何故かはわからないながらも、神獣を殺すことに躊躇いが出てきた今となっては非常に複雑だった。
このまま防御ばかりを続けていても埒が明かないのはわかりきっていた。決着をつける、と言う点では、彼らの参戦は有難い。しかし彼らは容赦しないだろう。神獣がおとなしく退治されてくれればそれもいいが、逆にますます手がつけられなくなっては元も子もない。一平自身にも説明がつかない不安感を、一本気な彼らに言葉で説明できるとは思えない。
端から一平が喜んで彼らを受け入れるとは思っていなかったらしく、ナムルは一平の返事を待たずに攻撃を始めた。
「待…」
待てと言われて待つ彼らでもない。
新手の出現に、神獣は一平から目を逸らした。一発目の銛は掠りもしなかったが、二発目からもそうとは限らない。巨体はナムルたちの方へと、攻撃の手を向けた。
「くそ…」
一平は唇を噛んで飛び出した。メーヴェの元に戻り、ナムルを止めてくれと懇願する。
意外な言葉にメーヴェは目を丸くした。聞き返している間に若者たちの鬨の声は大きくなる。
若者たちは、待ってましたとばかりに、銛だの槍だのを繰り出している。腰の中剣を抜いて神獣の近寄るのを待ち構えている者もいる。武器の降る雨の中に、神獣は飛び込んで行く。
多勢に無勢とはよく言ったもので、小さな人間たちの小さな攻撃も、数が多ければそれなりに効果があった。神獣は白くて赤くて青い胴体に、黒っぽい槍模様を描かれることになった。
「キェーーーン」
鳴かない動物も、痛い時や威嚇する時には鳴き声を上げるものだ。一平はもちろん、ナムルたちも神獣の声を聞いたのは初めてだった。
神獣は身体に突き刺さった刃物を岩に擦りつけて取ろうとする。長い体をくねらせ、もどかしがっている様は、幼児や赤ん坊と同じに見えた。
一平はメーヴェの説得を諦めて、神獣に泳ぎ寄る。
「おい、一平くん!」
どういうことだ?
見れば、一平は神獣の背にしがみついて、何かを目指すようによじ登っている。
(何をするつもりだ?)
何をするつもりなのかはすぐにわかった。一平は神獣の身体に突き刺さった銛や槍を引き抜こうとしているのだ。
何のために?
もちろん、手当てのためだった。若者たちのために武器の回収をしているのではない。
メーヴェがそう悟ると、笛の音がした。
「嘘だろ…」
彼は嘆いた。約束は約束だ。行かねばならない。それが例え、悪魔の掌の上であろうと。
「全く…。君は僕を殺す気か?」
笛を吹かれたものの、メーヴェは神獣の身体の上には行かなかった。
意を決した途端に、一平が戻ってきたからだ。
一度はメーヴェに手当てに来てもらおうと思ったが、銛を抜けば抜いたで、血が吹き出し、神獣は痛がって暴れ回る。とてもメーヴェを呼べるような状態ではなくなり、断念したのだ。
「すぐ来てくれるって、言ったじゃないですか…」
「それは君が怪我をした場合の話だ。神獣どころか、他の魚たちだって治療に当たったことなんかないぞ。問題外だ」
「…そうなんですか…」
メーヴェが真剣に抗議をするので一平は押された。ムラーラはもちろん、海人の常識を心得ていない一平には恐縮するしかない。
「大体、なんだって神獣を助けようなんて思ったんだ?君は神獣を退治しに来たはずだろう⁈」
この少年がわからなくなった。神獣を倒すために命を賭けていたようなのに、いくらもしないうちに助ける側に回っている。
「そのはずなんですけど…」
心許なげな返事が返ってきた。拍子抜けだ。
「できることなら、僕だって神獣を殺したくないよ。けど、ここまで来たら、もうそれしか方法がないだろう?君だって、パールを守るためにはそれしかないと思ったからこうして…」
「はい…」
悠長にこんな話をしている時ではなかったかもしれない。
神獣は未だに暴れ狂っている。痛みが収まり、興奮が少し落ち着けば、またすぐ若者たちに向かって行くに違いない。既に神獣は一平などには目もくれていなかった。
「どうしたんだよ、一体?」
メーヴェは不思議でたまらない。
「ボクにもわからないんです。確かにここに来るまでは、神獣を退治しなきゃって思ってたのに。だんだん、傷つけちゃいけない、っていう気持ちが膨らんできてしまって…」
「…どういうわけだ?」
「それがわかれば苦労しません。…誰かに…見えない何かに、そう忠告され、止められているような気がするんです」
―わからないけど、感じる―
それは、さっきもこの少年は言っていた。オリハルコンの剣の話だったが。
何か、そういう神秘的なものを感じとる力があるのだろうか、この少年に。
メーヴェは思った。
「…大事にした方が、いいかもしれないな。そういう、第六感と言うようなやつは、侮れないものだから」
「第六感?」
そんなものが顕著な人間だとは自分で思っていない。別に霊感が強かったわけでもないし、テストの山が当たった試しだってない。
「とにかく…手立てを考えよう。今のうちに、ナムルたちも集めて作戦会議をしたほうが良くないか?」
一平が頷く。
しかし、次の瞬間、叫び声が辺りを劈いた。
「うわあっ…‼︎」
神獣が反撃を開始したのだ。
そっと神獣に近づいた若者の一人が、 血祭りにあげられた。
正確にはそれほど血は出ていない。神獣は二本の触角で若者の腕を挟み、若者の身体に電流を流し込んだのだ。感電した状態になり、若者は気を失った。
「ルントーっ‼︎」
ナムルをはじめとするやんちゃ集団の皆が叫んで助けに飛び出していく。ルントーは攻撃された若者の名前だ。
ルントーがぐったりしたのを見極めると、神獣は速やかに触角を引っ込めた。何人かが彼を抱き抱えて下がってゆくのを呆然と見ながら、一平は呟いていた。
「あれが…話に聞く電撃か…」
「ああ…」
相槌を打つメーヴェにしても、その瞬間を目撃したのは初めてである。
「水の中なのに…周りにも神獣本人にも感電しないのはどういうわけだろう?」
「感電?なんだ、それは?」
水は電気を通す。そして人間の体は絶縁体ではない。即ち、水の中に電流を流されたら、その中にいる人間の身体に電流が流れ、感電する。一平には小学生の頃からその程度の知識はあった。しかし、電気の存在のない海の中では、一平より遥かに多くのことを知っているはずのメーヴェにも理解できないことだった。
電気ウナギやクラゲなど、電流を発生させることができる生き物がいることはいる。しかしムラーラに、気を失わせたり、死に至らしめるほどに強力な電気を発する魚はいなかったのだ。
一平はどう説明したらよいものかと頭を捻る。専門家ではないのだから、うまい説明ができるようはずもなかったし、今こんなところでプラスとマイナスの話などしても意味はないような気がした。
「えっと…。あの人みたいに、身体が焼け爛れた状態になることを、感電って言うんですけど…。ボクの生まれた所では…」
言ってから、焼けると言う状態もわからないか、と頭の片隅で思う。
でも、大体言いたい事はメーヴェには伝わったようだった。
重要なのは、あの触角に挟まれさえしなければ、電撃を浴びる事はないという事実だった。神獣に関して注意すべきことの一つがはっきりした。
そうこうしている間に、メーヴェの元へルントーが運ばれてきた。
診察したメーヴェは眉を曇らせる。腕の中を大木が無理矢理通ったようにルントーの身体の中は荒れ果てていたのだ。
「こいつは時間がかかりそうだな。…もしかしたら腕を切り落とさなくてはいけないかもしれない」
パールがいなければ…、と続きそうになるのを、メーヴェは辛うじて抑えた。もう、それは言ってはならないことだ。パールの力を当てにするのはもうやめなければならない。
メーヴェが言わなくても、一平にはわかった。でも、ここへパールを呼ぶことはできない。そして、彼女を疲労困憊させることも。
一平は決意した。
「あの触角を切り落とします」
大剣の柄に手をかけて引き抜いた。
一本だけでいい。対極がなければ電流は流れることができない。
「一平くん…」
―大丈夫か?できるのか?頼むぞ。君の腕にかかっている―
いくつもの思いがメーヴェの一言に込められていた。
一平は振り返らず、神獣に近寄っていく。
神獣に対峙しているナムルの近くまで来た。
「やべえぞ。なんか策があんのかよ⁈」
ナムルが横目で見て言った。
「策と言うほどのものじゃない。あの電撃を防ぐために、まず触角を使えなくする」
「どうやって?」
「切り落とすに決まっている」
二人とも神獣から目を離さず話している。
「一本でいいんだ。ボクが左から行く。君は右から切りつけてくれないか?同時攻撃ならどちらかに隙ができるはずだ。そこを突く」
「運命の分かれ道ってわけだ。英雄となるか、骸となるか」
神獣が左に気を取られればナムルが勝者となり、生き残る。右を警戒してくれれば大怪我をするか、死ぬことになる。運が良ければ避けられる。逆もまた、然り。賭けだとナムルは言っているのだ。
「安心しな。あんたがやられたらパールは俺が守ってやるからさ」
冗談ではない。これが容認できようか。
「パールのことはミラに頼んである。余計な心配をする暇があったら攻撃法を考えろ」
「ちぇっ…。やりにくいぜ、全く…」
ナムルは、苦々しげに舌打ちした。が、完全に腐っているわけではなかった。一平が、命を賭けてしようとしていることの片棒を自分に担がせようとしているのが、なんだか嬉しかったのだ。パールの伴侶としてはいい顔をしないが、少なくとも武剣の技量は対等だと認めてくれている。一平の申し出は、命を半分預けるということと同じだった。
「覚悟はいいな。…行くぞっ‼︎」
一平の掛け声で二人は飛び出した。手にはそれぞれ大剣を掴んでいる。一メートル以上もある、大振りの剣だ。
正面から突き進んだ。直前で左右に分かれる。神獣は右を向いた。彼らからは向かって左。一平の方が僅かにスピードが早かったから彼の方を狙った。
(来た!)
一平は神獣を引きつけようと、進路を更に左にとだた。ナムルが近づきやすくするために。
神獣は追いかけてくる。猪口才な、とその目が語っている。
一平のすぐ背後に神獣の口が迫る。がばっと開き、彼を捕まえようとする。口が閉じる寸前、一平はぐん、とスピードを上げた。彼の足元でパチっと、神獣の口が閉まる音がした。
(今だ。やれ、ナムル!)
一平の心が通じたのか、タイミングが合っただけなのか、測ったように、ナムルの大剣は振り下ろされた。
神獣が物凄い勢いで反り返る。一平の目の前を、切り落とされた太く長い触角が通り過ぎていった。
「キエエエエエーン」
再び、高く長く、哀しげに神獣の鳴き声が響き渡った。