第十一章 癒しの娘
気のせいかナムルは堂々として見えた。
少年独特の奔放なきかん気が心なしかなりを潜めている。
これが大人の落ち着きが出てきたと言うものなのだろうか。明らかに、昨夜の経験がナムルを大人へと成長させたのだ。
傍目にもそれがわかる。
一平は思う。
逆を言えば、自分は何も変わっていないのだと。
きっと、誰が見ても未熟者で、年相応の円熟味に欠けて映るのに違いないと。
実際には、そうでもなかった。
確かに技術も知識も未熟ではあったが、野放図にしたい放題に育ってきたナムルと違って、一平は幼い頃から秘密を背負って生きてきた。その事は、無邪気で屈託のない性質を一平の表面から排除してしまった。
下手なことを喋ってはいけないという配慮からか口数が少なく、あまり子どもらしくない子どもであった。大人に囲まれて育つ一人っ子特有の大人びた口
の利き方をすることも少なくない。礼儀正しい面には良いのだが、生意気とか可愛くないとか思われがちな部分でもあった。部活の先輩たちが一平一人を目の敵にしたのは、傑出した泳力と共に無愛想で年下らしくない落ち着いた物腰が気に食わないせいでもあったのだ。
加えて日本人離れした顔立ちは女の子たちの密かな憧れの的だったので、余計妬ましく思われたのだろう。
パールが夢に見たと言うモテモテの図は、条件が一つ変わっただけで現実のものになる可能性は十二分にあった。
パールに対しては、ナムルは何の変わりもなく―いや、むしろ前より親しげに―接していた。好意を寄せる相手に対して気が咎めたりする事は全くないようだ。むしろ、誇らしげである。
無論何も知らないパールはいつものようにニコニコしている。昨晩倒れたのが嘘のように元気だ。
拘っているのは一平一人のようだった。
「おまえのとこには、姉貴が行ったんだってな」
一緒に儀式を受けたせいか、ナムルは一平にも少し態度を崩して接してくる。
よりによって、それがなぜこの話題なんだ、と一平は腹立たしい思いで応対した。
しかし、さすがにパールやミラの前では振ることができなかったらしい。一平は庭園でナムルに捕まっていた。
「…ああ…」
ミラが一平の元に来た事は事実だ。何もなかったが、それを言うわけにはいかず、一平は生返事を返した。
「どうだった?」
―訊くな!そんなこと‼︎―
一平は必死で怒鳴りつけたいのを抑える。
この姉弟があけっぴろげなのか、ムー一族の特質なのかは知らないが、何とかしてほしい。
黙っていると余計しつこく聞いてくる。
「…そういう事は、人に話すものじゃないと思うが」
仕方なしにそう言ったが、それで引き下がるような男じゃない。
「なんだよ。勿体つけんなよ。よかったならよかった、最悪だったら最悪だって言えばいいんだ」
「弟のおまえに言えるわけないだろう」
些か不機嫌にそう言うと、ナムルは目を丸くした。
「そうか?俺はよかったぞ。ちょっとパールに似た人でさ。髪の色が似てたから、何か顔を見なければパールといるみたいな気がしたんだ」
本当にこいつの神経は理解できない。姉弟でも知らない方がうまくいくことがあるってことを全然わかってない。しかも、あの最中に、相手をパールだと自分に暗示をかけるようなことを考えていたなんて。
―絞め殺してやりたい!―
「おかげで自信がついたよ。一年経ったら絶対パールにプロポーズする。そのつもりでいてくれよな」
―このやろう‼︎―
「あんな姉貴でもさ。きっとまんざらじゃなかったんだと思うよ。あんなこと、俺の知ってる限りでは初めてだもんね。年上でもよかったら、よろしく頼むよ。儀式の人とは一度きりという決まりだけど、ミラはさ、ほら、あんな風だし、他に貰い手もいないからさ」
何を言ってるんだこいつは⁈
弟のくせに、姉の気持ちも察することができないのか?付き合いの浅いボクだって気がつくのに。
ナムルが鈍感なのは一平にとっては都合のいいことのはずだった。パールと兄妹でないとばれるのは困る。しかしそれにしても、端からナムルは一平を恋のライバルとは認識していない。それも勝手なようだがいい気分じゃない。
彼は一平のことをあくまでパールの肉親、兄としてしか見ていない。パールにアタックするにあたって、兄である一平とあまり反目しあっているのは得策ではないとの判断からこんなふうに砕けてきたのだと思われる。
「…脳天気だな。ミラにとっちゃ、ボクなんて弟子の域から一歩も出ちゃいない存在だよ。ミラにはもっと相応しい人がいるさ」
「いたらとっくにどうにかなってると思うけど?」
十四歳で親の決めた縁談に楯突いて出奔したミラは、ムラーラに戻ってからも再三に亘る縁談を無視してきた。女だからといって子を生むだけでは承服できないと、得意な武術を自分の力で生業としている。
ミラの体格に似合う男もそうそういるものではなく、お転婆ぶりは周知の事実だったので、敢えてじゃじゃ馬ならしをしようという男もいなかったのだ。
折りに触れ、ぽろぽろと話す中から、そのくらいの事は一平も認識するようになっていた。
「大人の事情は複雑だ。ボクにもよくわからん」
メーヴェのことを言うわけにはいかないので、そう言ってごまかした。
「知ったふうな口を利くなあ。ちょっと年上だと思って」
「そういうわけじゃない」
「じゃあ、俺たちは単純に行こう。俺はパールが好きだ。兄貴のあんたにも、認めてもらいたい」
「………」
「あんたが俺にいい感情を持っていない事はわかってる。だけど、あんたとパールは別個の人間だ。邪魔する権利なんかないからな」
どれほど言いたかったことだろう。
パールは妹じゃない。ずっと大切に守ってきたボクの宝物なんだと。彼女が大人になったら、ボクが幸せにするんだ。おまえの方こそ邪魔するなと。
「言っておきたかったのはそれだけだ。パールにはまだ言わないけど…あんなに幼くちゃね。でもきっと、振り向かせて見せるよ」
自信ありげにそう言って、ナムルは立ち去った。
―こんな所に来るんじゃなかった―
またしても、一平の胸に後悔の念が去来した。
あんな宣言をされてしまって落ち着いていられるわけがない。
ナムルは一年後と言ったが、そんな必要は全くないのだ。
一平は今の関係を崩すのが怖いのと、パールを無理矢理大人にしたくないために口を噤んでいる。そんな告白をしなくたって、パールは充分すぎるほど一平に懐いて心を許してくれている。それだけでもよかった。二人でトリトニアへ辿り着くために一緒に苦労し、共に喜ぶ。それだけでも一平だけに許された特権だと思えば満足だ。
でも、ナムルは違う。一平たちが旅の途上だということもわかっているはずだ。いつかはここを出て行くはずのパールに振り向いてもらうためには、相当努力をしなければならないし、時間に限りがあっては焦らざるを得ない。早まっておかしな行動を取らねばいいが、という不安を一平は拭うことができないのだ。
人の気持ちはわからないものだ。一平だって、パールにキスしてしまった時、自分で自分の気持ちがわからなくなった。あの時だってそんなつもりは全くなかったはずなのだ。
それに比べれば、ナムルはパールを好きな気持ちを明確に自覚している。儀式で教えてもらったことをパールに実践しないとは言い切れないのだ。
それを考えると眠れなくなる。苛々が募る。
武術の課程を終了し終えてしまったので、考える時間は腐るほどできてしまった。
既に一平の名は、武術場の所属からは外されている。ミラはもう自分には教える事はないと言うが、一平には全くそうは思えない。事実、いまだに三本に二本はミラの方が勝ってしまうのだ。ここから先は自分次第だということなのだろう。
課程を終了したからといって、日々の鍛錬を怠けていればたちまち筋肉は衰えるし、勘も鈍る。今までの教えを踏まえた上で新たに自分でトレーニングを課さなければ、それ以上の力は身に付かないということなのだ。
一平たちが住まわせてもらっている部屋は客用寝室、いわゆるゲストルームだ。テラスの外には小さな庭がついている。成人の式が過ぎてからは一平はここで身体の鍛錬をすることにしていた。時々は武術場に出向いてミラに相手をしてもらう。
パールの送り迎えはミラとメーヴェに代わって一平がやっていた。そんな必要のない距離なのだが、一平には必要と思えた。過保護と言われようとシスコンと陰口を叩かれようと、彼は譲らなかった。
その日は、診療所は休みのはずだった。
ゲストルームの小さな庭で筋トレをしていると、パールの高い声が一平を呼んだ。
一平は手を止めて振り返る。窓から体を乗り出すようにしてパールが呼んでいる。
「パール、診療所に行ってきます。お師匠様からお使いの人が来たの!」
「お使い?何かあったのか?」
「なんか急な患者さんがいっぱいいるんだって。パールにも手伝って欲しいっていうの」
急患?事故か?
「お師匠様一人で大変みたいだからお手伝いしてくるね」
今日はこの後二人でムラーラの街中でも見て回ろうと思っていたところだった。がっかりだ。
仕方がない、と諦めて、バタバタと支度をして使いの者と出掛けて行くパールを見送った。
急患と言ったって休診日なのだから直に帰ってくるだろうと思っていたが、パールは昼を過ぎても帰ってこない。
(どうせ暇なんだ。行ってみるか)
一平は腰を上げる。
一生懸命働くパールの姿を見るのも一興か、と思った。
が、それはとんでもない間違いだった。
メーヴェの診療所は野戦病院と化していた。診療室にも待合室にも、果ては裏庭にまで怪我人が溢れ返っていたのだ。
到底メーヴェとパールの二人の手に負えるはずもない数だった。見れば応援に駆けつけたらしい医師や助手の姿もニ、三見える。いずれもこの近辺で開業しているメーヴェの同業者だそうだ。
あまりのことに呆然と突っ立っていたが、そのような振る舞いが是認されるような状況ではなかった。修羅場である。今現在も、どこからか患者が海人の手で運び込まれてくる。
陸と違って救急車なんていうものはない。一平は自ら救急車の役割を買って出ることになる。医術の心得がなければでかい図体は邪魔なだけだ。
怪我人たちは、皆、神獣にやられたのだった。
祠に貢ぎ物を運ぶ巡行に携わった一行が被害に遭った。
月に一度はお供えと共にお参りすることがしきたりとなっていた。そこで貢ぎ物の量を増やせば娘たちが襲われることも少なくなるのではないか、という考えの下で行われた巡行だった。
企画したのはムラーラの長老たちである。
総裁の下には、実際に細々とした仕事をこなす十人の政務官とは別に、ご意見番のような立場の五人の長老たちがいる。長老と言うだけあって、年寄りで博識であるが、頑固者揃いだった。新しいことをしようとしても、なかなかこのお偉方が首を縦に振らないのだ。
その彼らの苦肉の策だったらしいのだが、見事に神獣の怒りを買ってしまったわけだ。
応急手当てをした怪我人を運ぶべく現場に急行した一平は、そこで初めてムラーラの神獣なる生き物を見た。
何十人もの海人を薙ぎ払って一応静かになったらしいが、それまでは実に凄まじかったと聞く。
今は祠の入り口に頭だけを出して眠っているが、暴れ回っていた時には、三十メートルにも及ぶ蛇のような胴体を一帯にくねらせ、電撃や毒素を撒き散らした。
深海魚にリュウグウノツカイという魚がいるが、あれを細長くして頭部に少し手を加えたような見てくれをしている。頭部から長く伸びた触角からは電気が発せられるし、ウーパールーパーのようなえら鰭からは強力な毒素を噴出する。電撃の当たったところは焼け爛れ、毒素を吸い込めば呼吸困難と身体麻痺を引き起こした。不思議な力で相手の持つ武器を取り上げ、自在に操ることもできると言う。
―最悪だ―
こんな途方もない奴を相手に、人間ごときがどう立ち向かえると言うんだ。正しく、使い方を誤った神の僕だ。ムラーラの人々が悲観的になるのがわかるような気がした。
神獣の逆鱗に触れぬようにそっとしておくと、そのような化け物には見えなかった。目の周りや鰭の先などが赤くなったり、青くなったり変化する。神獣と言うに相応しい白い胴体とのコントラストが、実に美しい生き物だ。
なんとかしてやりたかったが、今は何もできない。とにかく、傷ついた人々を手当てしてもらうのが先決だ。
彼は診療所と祠の前とを何往復もしてへとへとになった。
パールもへとへとだった。
一平よりも体力がない分、余計だ。
普段ですら丸一日診療所に詰めていないのに、朝早くから夕刻まで働きづめだった。
メーヴェの診療所が臨時の収容所になったのは、現場である神獣の祠から一番近かったためである。
メーヴェもパールを心配して適当なところでもう帰れと勧めてくれたが、師が大変な思いをしているのに弟子がさっさと休むわけにはいかない。まだ大丈夫だと我を張って頑張る姿は実に健気なものだった。
さすがにすることがなくなった一平が一息ついて、甲斐甲斐しく動き回るパールに声をかけると、彼女は嬉しそうに寄ってきた。
これから包帯を替えてあげに行くのだと言う。
「メーヴェさんが、もう帰っていいって言ってたぞ。一緒に帰らないか?」
パールは目を瞠いた。
ちょっと緊張の糸が緩んだようだった。
―一平ちゃんと一緒に帰る―
それはパールにとって大切なキーワードだった。そんなことを言われてしまっては心がぐらついてしまう。
「…ほんとに…いいのかな⁈」
「明日もいっぱい仕事があるからってさ。明日休まれちゃ困るんじゃないか?」
パールは少し考え、すぐに顔を上げた。
「一平ちゃんと帰る。ちょっと待っててね」
帰り支度をして戻ってくると、パールは一平の腕に絡み付いて疲れたとこぼした。おぶってやろうかと言うと目を輝かせて背中に乗ってくる。
(なんて軽いんだ)
大の男をおぶってばかりだった今日の一平には、パールの重みが信じられないくらい軽く思えた。
相当疲れていたに違いない。普通に泳いでわずか三分の距離を辿り着く前に、パールはすっかり寝入っていた。
巡行の人々の世話は、翌日までがピークだった。
その後、パールは熱を出した。
過労だ。
言わんこっちゃない、と一平は苦虫を噛み潰す。
それ以上に恐縮して小さくなっているのはメーヴェだった。大きな身体を小さく丸め、実に申し訳ないと、パールを手伝わせたことを平謝りに謝ってくる。
「そんなに…いいですよ、メーヴェさん。パールももう少し自分の身体のことを自覚するべきなんだ。きつい時に無理をするとこうなるってことを、もうわかっていい年です」
(これは手厳しい)
メーヴェは思った。過保護過干渉のきらいがあると思っていたが、そうでもないらしい。
「な。パール⁈」
「うん、そうなの。ごめんなさい」
少女も実に素直だ。
「大変な時にお手伝いできなくてごめんなさい」
病人に謝られては医師の立つ瀬がない。
「もうピークは過ぎている。自宅に帰れた人がほとんどだから心配するな」
メーヴェは子どもを安心させる先生のように、寝ているパールの頭をよしよし、と掴んだ。
それから一平の方に向き直る。
「我々は少しパールの力に頼りすぎだな」
具体的に何が特別役に立つのか一平は知らない。ちょっと不思議そうな表情になるのに答えるように、メーヴェは続けた。
「今の僕らの技術じゃ、毒を抜くのはとても時間がかかるんだ。それをこの子は、たったの三分でやってのける。痛みを和らげることもうまいし、天才だよ」
鎮痛の力の事は身を以て知っていたが、毒消しの力があるとは知らなかった。
「患部に触れて念じているだけのようなんだがねえ…。ちょっと真似できないな、あれは」
メーヴェの話によると、その他にも焼け爛れた皮膚の回復もある程度できるらしい。
(もう何も教わる必要なんかないんじゃないか?)
「それにしても大変なことだ。神獣はますます凶暴化しているな」
これほどの大人数が一挙にやられたのは初めてのことだった。
「君にも世話になった。祠にいる神獣を見たかい?」
一平が現場に行っていたことを思い出して尋ねてきた。
「ええ。頭部だけですが」
「どんな感想を持った?」
「ボクは…暴れているところを見たわけではないので何とも言えませんが…綺麗な生き物だと思いました。神獣と呼ばれるに相応しい姿ですよね」
メーヴェには意外な言葉だったと見えて、少し嬉しそうである。
「そう。実に美しい生き物だ。凶暴だからといって始末してしまうのは気が咎めるだろう⁈」
メーヴェは神獣退治には反対なのだ。それがわかる言い方だった。
しかし、あれだけの人々に危害を加えた事は消えない。
「メーヴェさんは反対なの?神獣を退治することに」
「これまで長の年月、ムラーラを守ってきた神の使いだ。今まではただの一度としてこのような事は起こらなかった。何か、原因があるのだと僕は思うんだ」
「原因ね…」
「その原因を突き止めないままに、徒に殺してしまっては…。神獣がいなくなったら、このあと何が我々を守ってくるというのだ」
本当に、ムラーラの隅々まで、神獣の威光は轟き亘っているのだ。
神獣とて生き物だ。生まれたからには、いつかは死ぬこともあるのではないか。一平はそう思って訊いてみた。
「あの神獣はいくつくらいなの?」
「年齢かい?さてねえ…。少なくとも、最近誕生日を祝ったと言う記憶はないな」
「じゃあ、いつかは死ぬんだね?」
「代替わりの時にしか神獣は死なないし生まれない。それも自然の摂理だ。殺された場合に次代の神獣が生まれるのかどうかはわからない。危険な賭けだ」
あの生き物は、神獣と言うだけでここの人々の心の拠り所なのだ。
「本当に…どうしたらいいんだろうな。このまま、君たちに、いつまでもここにいてもらうわけにもいかないし…」
尤もだ。他の人はともかく、ナムルの前からだけは早く立ち去りたかった。
「神獣とは話ができないの?言葉が通じないんですか?何が気に入らないのか、直接訊いてみればいいのに」
「それができれば苦労はしない。占者の占が唯一の手掛かりだ」
珊瑚色の髪の乙女を差し出せというあれか。とんでもない。
「試してみるには、あまりに辛い選択だ」
「当たり前です!」
声を荒らげる一平に、メーヴェはたじたじとなる。これはこの少年には禁句だった。
「神獣だと思うからいけないんだ。ただの獣だったら、あなたたちだっていつまでも放ってはおかなかったでしょう⁈」
「まあまあ…。そう興奮するなよ。君もナムルに劣らず血の気が多いんだな」
「あんな奴と一緒にしないでください!」
却って鼻息が荒くなる。
「これは…長老たちがどう出るかだな。珍しく新案を試した途端にこうだ。この失敗は嫌でも彼らをもっと慎重にさせるだろう。また一悶着ありそうだな」
「長老って…そんなに権限があるんですか?総裁より?」
「あのミラが手こずるくらいだからな。頑固爺いの集まりだ。やれ掟だ規則だ前例がないと、すぐ決まりばかりを持ち出してくる頭の固い連中さ」
メーヴェの口振りでは、彼も長老たちにあまりいい感情を持ってはいないようだ。
彼が憂えているのはこの件に関する政争についてなのか、神獣の行く末についてなのか、はたまたそれに関わって生じる自分の仕事についてなのか…。いずれにしろ、小さな悩みではない。
この時一平は気づかなかったが、メーヴェにはもう一つ心配事があった。
一番の悩みだと言ってもいい。ミラのことだ。
ミラは政務官ではなかったが、総裁の娘でもあり、数少ない大剣の使い手でもある。百五十年前の戦争以来ムラーラに軍隊はなかったので、ひとたび国に何かあれば志願者を募って対応に当たることになる。その指揮を執るのが、ミラたち武道を究めた者たちになる事は当然の成り行きだった。
ということは、神獣退治の策がもし採択された場合、ミラが先頭に立って率いていく事はまず間違いがないのだ。メーヴェはそうなって欲しくなかった。
今の神獣がどんなに危険なものか、人々を手当てしたメーヴェには痛いほどわかっている。ミラがそんな憂き目に遭うことは何としても避けたかった。怪我で済めばいいが、命を落とす可能性はあまりにも大きい。
それもあって、メーヴェは神獣退治に反対なのだ。
そのミラに、一平はまたしても肝を冷やされることになる。