第十章 最後の儀式
一平は呼び出しを食らった。
成人の式委員会の委員長、ボナーラからの使いだ。
最後の儀式のため、会場にお戻りくださいと言う。
迷ったが、パールの容体が落ち着いているので、顔を出すだけでも行ってこようと立ち上がった。
使者に案内されたのは、今朝着替えなどをした控え室だ。仮眠をとれるように寝台まである。
「こちらでお待ちください」
使者は言い置いて下がっていく。
寛ぐにはもってこいの部屋だった。海の底なのに今夜はほの明るい。正円になりかけの十四夜の月明かりが微かに届いている。窓からの眺めも普段と違っていた。彼ら海辺の目にはムードのある間接照明の役目を今夜の月は果たしている。
五分ほどして帳が開いた。
しめやかに、女性が一人入ってきた。
何を告げに来たのか尋ねようとした一平は、女性の姿と顔を見て目をしばたたいた。
ミラが夜着を着て膝まづいていた。
「ミラ⁈」
半信半疑ながら名を呼ぶと、面を上げた。
この間着ていた夜着よりももっと薄手で簡素だった。体の線がはっきりと際立っている。ミラはそれを隠そうともせずに一平を見た。
「最終の儀式―伽に参りました」
「伽?」
聞き返す。
「そう。伽にまいった」
開口二番目からはいつもの口調に戻った。
どこかで聞いたことがある。どういう意味だっけ?
一平はミラの言ったことを理解しようと必死に思考を巡らした。
話が通じていないのはミラの方でも見ればわかる。
「女たちが、説明しなかったか?」
「いや…」
その記憶は、ない。
ミラはふうとため息を吐いた。
「全く…。面倒な事は皆こっちにやらせるか…」
何が面倒なのだろう?
「ちゃんと聞けよ。成人の式の最後の仕上げは子どもの作り方の伝授だ。今宵、私がその役目を承った」
一平は一瞬ミラの言うことが理解できなかった。
(子どもの作り方?なんだ。それは⁈)
「…本当に、知らなかったのか?」
ミラの声には参ったな、という響きがある。どうやらここムラーラではこれが常識らしい。いちいち説明されなくてもわかっているのが当然だと言っているように聞こえた。
思考の焦点が合ってくると一平は目を剥いた。いきなり後退り、窓枠にへばりついた。
「成人すれば即結婚も可能。すぐにでも子どもを設け、社会の構成員を増やす。立派な役割であり、ムラーラ国民の義務だ。トリトニアではどうかは知らないがな」
「……」
「ムラーラの女は身持ちが固い。それをどう綻ばせるのか、優秀な子どもを作るためにも、男の知識、テクニックがものを言う。きちんとわかった上で妻に臨まなければならない」
―そんなばかな!―
「要するに、練習台だ。一生連れ添う相手に、初めてでおたおたするところを見せたくはあるまい?」
それもムラーラの通想概念か?男の童貞は成人と同時に失われるのが当然なのか?
とんでもない所に来てしまった。
とんでもない所で成人式をする羽目になってしまった。
一平は青くなったがもう遅い。ミラは一平の貞操を奪うためにここに来たのだ。
―絶望的だ―
一平は思った。
他の女性ならともかく、腕っぷしではミラには敵わない。逃れるのは不可能だった。
ミラは大人の女性だ。いくら男性っぽいとは言っても、なよなした男や意地の悪い女なんかよりはよっぽど一平には好ましい。しかも出るべきところは出ているし、こういう経験は皆無ではないのだろう。
(どうすればいいんだ⁈)
まず、隙を見て逃げ出すべきだ。それでだめなら何とか説得を試みる。実力行使に出られる前に。
一つ気にかかるのは、ミラが役目でしようとしているということだ。決して一平を思い詰めてのことではない。黙って逃げ出して、ミラに迷惑がかかったり恥を掻かせることになったりしては申し訳ない。
こんな場合であっても、一平は相手の立場や気持ちを思いやってしまうのだった。だからこそ、余計困った羽目に陥るのに。
「私とて、好きでしているのではないぞ。本来なら、もっとおまえに似つかわしい、清廉で可愛らしいタイプの女を用意できるはずだった。おまえの妹のようなな」
(パール…)
パールの面影が浮かぶ。無条件に見せる笑顔が一番愛しい。
「しかし、どいつもこいつも尻込みしてくれた。おまえがムラーラの人間ではないということも一因だが、それよりもおまえの体躯と剣捌きに恐れをなしたらしい。とても自分には務まらないと、誰も彼も言う。それほど言うならミラ様が引き受けてくださいと、とこうだ」
要するに、弾かれたのだ。一平は。
そう言われては、さすがにいい気持ちはしない。
「おまえの上達が異常に早すぎるのだ。ただの海人ではない。神がかり的なもの、或いは魔性のものが憑いていると思われてしまうのは無理からぬことだ」
そんなふうに思われるとはこれっぽっちも思っていなかった。
大体なんでただの居候の自分のことをそんなに多くの人々が知っているのだ。こっちは全く知らないのに。
「気にするな。お国柄だと思って、勘弁してやってくれ」
勘弁するもしないも、危害を加えられたわけではない。そう思うのならそれで放っておいてくれればいいものを。子どもの作り方なんか教えてもらわなくたって、全然かまいやしない。
(いや、構うか⁈)
女性を抱いたことがないのは事実だった。もちろんそんな自信なんかない。
だけど、いやだった。
他の誰とも肌を合わせたくなんかなかった。パール一人を除いては。
頭の中はぐるぐる回り、考えがまとまらない。
ミラに悪気はない。ここの習慣に則って責務を果たそうと、むしろ己を犠牲にしようとしている。
そう。犠牲でなくてなんだろう。
ミラは未婚だ。好きでもない男に身体を許すのが辛くないはずはない。それでも進んで一平の前に身を差し出そうとしている。十四も年下の、しかも技術的にも格下の自分の弟子に。
初めてではないのだろうか。女性も、成人式の折りにこういう儀式があるのだろうか。だとしたら、少しは良心の呵責が少なくて済むと言うものだが…。
(いや、だめだ。ミラはメーヴェが好きなはずだ)
もし、そうでなくとも、メーヴェはミラを好きだ。それがわかっていて、この人を抱くことはできない。たとえムラーラの常識がどういうものであろうと、一平の常識からは著しく外れることに変わりはない。
それに一平は…一平が抱きたいのは…。
ミラはいつの間にか一平の近くにやってきていた。
「こい!」
いきなり腕を掴み、寝台へと引っ張り込んだ。ミラの身体がのし掛かり、大人の女性の匂いが一平を包んだ。
焦った一平は大声で叫んでいた。
「ボクの抱きたいのはあなたじゃない!」
ミラが、止まる。
明らかに思考が停止している顔が一平の目の前にある。
この隙に逃げ出してしまえばいいのに一平は身動きできなかった。
そのうちミラが言い始めた。
「それは…もっともだな…いや…ちょっと…ショックだったな、今のは…。うん。ショックだったぞ」
「……」
「まぁ、いいさ。おまえが心得ていると言うのなら、別に私が無理矢理教えることもない」
心得ている、とは明言し難かった。あくまでなんとなくだ。一平の知っているのは。友達とそういう話をするにはまだ歳がいかなかったし、本やテレビなどで漠然と仕入れた知識しかない。日本の学校は性教育に関しては発展途上国並みに遅れている。
でも本能というやつはあった。身体が大人になるに従って、否応もなく生じてくる変化や経験は、青い少年の心に妄想や憧れを抱かせるのには充分だ。
恋しい娘ができた時、その子に触れたい、抱きしめたいと思うのは至極当然であり、その先の未知なる扉を自ら開くか、開かせられるかはその者次第だ。
一平は自ら開く方法を選びたかった。
「ミラ…」
どう言い訳しようか戸惑っているのが口調に滲み出る。
ミラはもう一平の上から退いている。急激に関心を失ったようだ。役目を果たす必要がなくなってほっとしているように見えなくもない。
「私を拒絶したからには…泣き言を言うなよ」
本命とうまくいかなくて困っても、今更誰も教えてはくれないぞ、とミラの目が語っている。
「それから…最終儀式をしなかったなんて、誰にも言うんじゃないぞ。たまにそういうこともあるらしいが、ばれてひどい中傷を受けた者もいるんだからな」
おかしな所だ、ここは。一平はつくづく思った。
「私も喋るつもりはないが、もののついでだ。一体、誰を抱きたいんだ?」
一瞬にして一平は真っ赤になった。
これは一種の脅迫だ。白状しなければ事の次第をばらすと言っているのに等しい。
パールの姿を思い浮かべて気がついた。
「…まさか、ここにいたら、一年後にはパールも⁈」
十三歳になったらこの儀式を受けさせられてしまうのか?
ミラは愁眉を開いた。
「女子にはない。無垢な処女のまま嫁に行く」
妹の心配をしている一平が労しかった。
一平は思う。
では、ミラも未経験なのだ。
よかった。断れて。ミラのため。メーヴェのためにも。
再びパールの寝顔を眺められるところに来て一平はほっとした。
一平が留守をしている間に目が覚めた形跡はなかった。顔色もいい。
―一体、誰を抱きたいんだ?―
ミラの言葉が蘇った。
その質問の答えを一平は明確に持っていた。
が、口に出すわけにはいかなかった。
そのことには答えを出さず、パールの心配を口にした。
けれど、ミラは何がなし、ピンと来たような顔をしてはいなかったか?逸らされた話を元に戻すこともなく、敢えてそれ以上追求しなかったのは、一平の言動から何かを察したからではないのか?
本当に、何を考えているのかわからない女性だ。唐突なパールとはまた違った意味で考えの読めない人だった。
(それにしても…)
女子にはあの儀式がなくてよかったとつくづく思う。
真っ先にしたのはパールがこのままここに居続けた場合の心配だったが、ムラーラの少女たちのためにも救われる思いがした。成人の儀式とは言え、義務ならば強制であり、強いるのなら強姦だ。
男子の場合にも同じことが言えるが、リスクは少ない。女子は下手をすると種を仕込まれてしまい、もしそうなったら女性は不本意な出産を強いられることになる。お産は病気ではないと言われるが、出産は危険と背中合わせであることも事実だ。それは動物にしろ海人にしろ、大した違いはないと思われる。
それに何より、好きな人の子どもを生みたいと思うのが普通一般の女の子の心理なのじゃないかと思う。
それとも、ここムラーラでは違うのだろうか?
いや。違うのならば、女子にもあのシステムがあって然るべきだ。それなのに、女子にはないと言う事はやはり…。
ミラだって、ほっとしてはいなかったか?すました顔をしてはいたが、経験なんかなかったのだ、きっと。ムラーラの女は身持ちが固いと、ミラは言ったではないか。あの男顔負けの態度の裏に、真の女性らしい心が隠されているのではないかと、一平はうすうす思っていた。一平を押し倒した強引さは照れ隠しであり、動揺を一平に見せまいとする心の裏返しの行動だったように、今では思えるのだ。
あの後、ミラはせっかくだから少し話していかないかと一平を誘った。今出て行ってはまずいと言うのである。確かに、満足にそういうことのできるほどの時は経っていない。
一平も、もうミラに危険は感じなかった。それさえなければ師匠として尊敬しているし、さっぱりとした性格は女臭くなくて、むしろ付き合いやすい人なのだ。
発作を起こしたパールを残してきたこともあり、一平は早く部屋に戻りたかったが、しばしの間留まって話をしてから退去した。
帰る道中、通路の左右に連なる帳の先に、一平と同じように成人の式を終えた少年たちがいることを、どうしても意識してしまった。いずれの少年の元にも経験済みの大人の女性が訪れて手解きをしているのだと言う。
その中にはミラの弟であるナムルもいるのだ。
彼がパールに気がある事は一平にはわかっていた。
だからこそ、一番遠ざけたい男であった。
そのナムルは今宵一足先に大人になる。
多分、何の疑問も抱かずに、大人の味を知るのだろう。
羨ましい、とは思えなかった。
自分の考え方を人に押し付けようとは思わないが、やはり人を見るには自分の物差しで測ってしまう。そういうことを受け入れられる男にだけはパールを渡せない、と一平は強く思った。
もう、夜も更けている。
パールはこのまま朝まで目を覚ましそうにない。
一平も休むことにした。
いつもと同じようにパールの隣に横になる。
いや、いつもは少し違う。パールの方が一平の隣に潜り込んでくるのだ。ぴったり体を寄せ、母親にするように甘えてくる。
微かな水の動きに揺らめく珊瑚色をした髪を撫でつける。つやつやと柔らかいこの髪も、持ち主と同じで素直だった。一平が触れると吸い付くようにまとわりついてくる。パールだからこうなのか、誰でもこうなのか、他の海人の髪にこうして触れたことのない一平にはわからない。
今では腰まで伸びたパールと違って、一平は少し伸びると鬱陶しいので自分で切ってしまう。だから短い。それもムラーラでは異常に映るらしい。男も女も結い上げたりまとめたりする事はあっても、絶対に髪は切らない風習だ。髪の毛にこそ神秘的な力が降りるのだと信じられていて、切ったりすれば技術の向上にも能力の取得にも差し障りがあるのだと言われている。そんなことはご法度なのだ。
だからムラーラには、幼子を除けば短髪のものはいない。一平がナムルにいきなり射掛けられたのも、短髪のためムー一族ではあり得ないと一目で知れたからだった。
一平がミラにしかまともに扱ってもらえなかったのも頷ける。
ふと、パールはこのことを知っているのだろうかと疑問に思った。トリトニアでも大人と見做されるのはムラーラの人々と同じ年齢だと言う。成人の式のことも何の疑問も持たなかったようだ。実に嬉しそうに、羨ましそうにしていた姿からは、前から憧れていて、自分の番を待ち望んでいる様子がありありと見えた。
ということは、トリトニアにもああいう祝い事があるのに違いない。
あってもおかしくない。現に日本にだってあった。
でも、あの最後の儀式だけは困る。
同じ海人の仲間だ。トリトニアにもあるのだろうか。
もしあったらどうしよう。
自分はいい。一応、このムラーラで済ませてしまったし、他国人だということで辞退できる。
だが、パールは正真正銘トリトニアの人間だ。避けて通る事は許されない。
ムラーラでは男子だけだったが、男女の別なくあるかもしれない。あるいは女子だけだという可能性だってないとは言えない。
そんなのは耐えられない。
絶対に嫌だ!
パールが儀式のためだけに、身も知らぬ男に抱かれるなんて!
だったら帰らない。帰るものか。
一生、パールを連れて世界中を彷徨ってやる。
本当の故郷なんか見れなくたってかまやしない。
何とか事前に知る方法はないだろうか。トリトニアに一歩でも足を踏み入れる前に。
その制度にパールを絡め取られる前に何とかしなければ。
彼は再び頭を悩ませ始めた。
にへら。
パールの表情が崩れた。
笑っている。いや、にやけている⁈
「んふっ…」
鼻にかかった笑い声が漏れた。
(全く、おまえは…)
また楽しい夢でも見ているのだろう。こっちは真剣に悩んでいたと言うのに、この罪のなさはどうだ。どこから見たってまるでお子様じゃないか。落ち込んでいたこっちがばかみたいだ。
「…っぺいちゃん…」
パールの寝言で名を呼ばれることは珍しくない。
(またか…)
そう思うと同時にこそばゆくなる。自分でも頬の緩むのがわかる。
パールが他ならぬ自分の夢を見ている。
良い夢にしろ、悪い夢にしろ、一平がパールの世界の一部であることの証しであった。
次に何を呟くかと待っているうちに、一平はいつの間にか睡魔に引き摺り込まれていた。