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転生したら主人公が消えたので、連れ戻そうと思います

作者: 大貝雪乃

 ああ、イライラする。

 もう、生まれてから何度抱いたかわからない感情が、美優(みゆう)の心を支配していた。


 今は、ホームルーム中。ホームルームは嫌いだ。

 ざわつく教室。そのざわつきが大きくなることはないけれど、小さくなることもない。

 その事実が、美優のいら立ちを強くした。


 何度目かの、教師の注意の声。けれど生徒たちは黙ることなく、雑談ばかりしている。

 学級崩壊なんて言葉は大げさだけど、優等生クラスとは程遠い。

 そんなクラスが、美優は嫌いだった。


「美優、通知表どうだった?」

「普通かな。でも補習にならなくてよかった」

 ホームルームの後、友人の志穂(しほ)に話しかけられた美優は笑顔で答える。


「またまたぁ。美優が補習なんかになったら、世界の終わりだよ? 美優の『普通』は、めっちゃいいんだから」

 教室から並んで出る。今日は終業式で、明日からは夏休みだ。なんとなく浮ついた感じの廊下を歩きながら、美優は笑顔のまま謙遜の言葉をひねり出す。


「そんなことないよ。私、志望校にも受からなかったんだから」

「それは去年のことでしょ? 今の美優はクラス一の優等生……十分すごいって」


 それからも似たようなやり取りが何回かかわされた。志穂の賞賛に、美優が謙遜する。

 やがて曲がり角に差し掛かる。美優と志穂が別れる場所だ。


「じゃあねー」

 手を振る志穂に、美優も手を振り返した。


 吸って、吐いて。

 志穂の姿が見えなくなると、大きく深呼吸をして、美優は歩き出す。

 なんてことのない行動のようで、美優は内心穏やかではなかった。


 どうしてあの子は、自分は努力もせずに「すごい」「羨ましい」なんて私に言えるんだろう?

 今の私があるのは、受験に失敗して公立中に行くしかなくなったあの時の絶望があったからだ。それを知りもしないで、志穂は私の何を分かっているというんだろう?


 美優は、クラスの中では志穂と一番仲がいい。

 というのは、対外的な話。下手をしたら、美優にとっては一度も話したことのない男子の方が志穂よりも話しやすいと思っているくらいだった。


 だが志穂を突っぱねるような真似はしない。志穂は、被害者ぶった行動が得意だからだ。


 小学生の時、志穂はとある男子ともめた。

 給食をこぼしてしまって、それが誰の責任かとかいうしょうもない話だった。


 美優は偶然、志穂が給食をこぼす現場を見ていた。しかしほかに目撃者はいないようだったので、発言するのも面倒だと思って黙っていた。


 言い争いはヒートアップ。冤罪をかけられて熱くなってしまった男子が、志穂に暴言を吐き始めたころに、席を外していた担任が戻ってきた。


 具体的に二人が担任に何を言ったかは覚えていない。

 ただ、最終的に叱られたのはその男子だけだった。


 美優が余計なことを言って志穂の被害者魂に火をつけてしまえば、手の付けようがない。

 この世の中は、被害者に有利にできているから。――たとえそれが、自称であっても。


 だから美優は、諦めとともに志穂と話している。



 家に帰って美優は、さっそく夏休みの宿題に手を付け始めた。

 両親はいない。今日は平日で、働きに出ているからだ。


 シャーペンを持って、配られたプリントの一枚を終わらせる。十五分とかからずに終わる、そこまで手間のいらないプリント。

 完成したそれを見て、美優は再びいら立ち始めていた。


 ――美優、お願い! プリント見せて、宿題終わんないよ!


 思い出すのは、去年の夏の記憶。夏休みの最終日のことだった。

 志穂からメッセージが届いている。何かと思って見れば、先述の文面だった。ふざけたキャラクターが、「ぴえん」みたいな顔をしているスタンプも来ていた。


 要は写真を送れということだろうか。あえて既読をつけずに、通知画面に映った文面を見て美優はスマホを投げつけたい衝動に駆られた。

 志穂が見せてほしいといったプリントは、そこまで時間のかかるものではなかった。


 そのくらい自分でやれよ。それもできないくらいに追い詰められるのは、いざとなったら見せてもらえばいいとか思ってるからだろ。

 どす黒い気持ちがわき上がってきたのを覚えている。


 美優はクラスで一番成績が良くて、教師からの評価も高かった。ボランティアだって、積極的にやる。

 けれど美優は、そんなに綺麗な人間じゃない。それは自身が一番理解していた。「美しくて優れている」なんて、皮肉な名前だ。


 そして、一度始めてしまった「優等生」は、簡単にはやめられない。


 だから美優は、諦めとともに優等生を演じている。



 美優の両親は、夜遅くまで帰ってこない。朝しか会わないなんてこともざらだが、美優は反抗期真っ只中。そのことを寂しいとは思わなかった。

 一人で簡単に夕食を作って食べ、何の気なしにテレビのリモコンを手に取った。


「明日は、午前中は晴れますが、午後からは雷雨に注意してください」


 どうやら今は天気予報をやっているらしい。だがそれももうすぐ終わりそうなので、その次のニュースを見ることにした。

 明日は折り畳み傘を志穂の分も持っていこう、と考えているうち、天気予報が終わってニュースが始まった。


「……速報です。午後七時半ごろ、〇〇県の△△市の道路で、交通事故が発生しました。歩行者一人の死亡が確認、運転手は軽傷とのことです。また、この歩行者は、三日前から行方不明になっていた少女だとみられています」


 そして画面は中継映像に切り替わり、慌ただしい夜の道路が映し出される。見たことのない場所だった。

 しかし美優は、なぜかその道路の映像から目が離せなかった。


 何だろう。ただの道路のはずなのに、どうしてか羨ましさを感じる。別に、死人が出た場所が好きなんて趣味はないけれど。


 そうこうしているうちに、画面は切り替わって一人の少女の顔写真になった。


「死亡が確認されているのは、〇〇県内に住んでいた石谷(いしや)恵理(えり)さん、十四歳です。三日前から捜索願が出されていました」


 画面に映る石谷恵理は、どこにでもいそうな容姿だった。不良っぽいとか、そういう感じはしない。

 捜索願……現実ではあまり聞かない言葉だが、やはり確かに存在するものなのだ。行方不明になる、美優と同じ年頃の少女もいるように。


 美優はテレビの電源を切り、ベランダに出た。美優の家はマンションの十八階、眺めはそれなりにいい。

 ビルが、色とりどりに輝いている。


 ――石谷恵理も、こんな光景のどこかで死んだのだろうか。


 ふとそんな風な思いが芽生えたとき、美優は家を飛び出していた。



 深夜というほどではないけれど、確かに夜。そんな時間に一人で出歩いたのは、久しぶりだ。

 それも、小学生のときの塾帰り。自分の意志で、親に何の断りもなく夜に出歩くのは初めてだろう。

 その事実が、美優を興奮させていた。


 突然夜の町に繰り出した理由は、言葉ではうまく言い表せない。窮屈さを感じていた自分と、石谷恵理を比べてしまった、とでも言えばいいのだろうか。


 夜の町と言っても、美優が住むのは田舎とまではいかないが、大都市とも言えないような場所。治安の悪さは感じないが、明かりも少ない。


 突然飛び出してしまったから、お金も何も持っていない。これでは、町を歩くくらいのことしかできそうにない。

 それに気づいて、仕方がないので当てもなく歩き出す。一か所にとどまっていても面白くない。


 目の前で青になった信号を渡り、ちょうど真ん中くらいの位置に達した時。


 美優は、突然強い光を横から浴びた。


 後の出来事は、美優にとってはすべてがスローモーションのようだった。


 光の方を見れば、そこにはトラック。どうやらヘッドライトの光だったらしい。

 思わず見上げた車用信号機は、赤だった。運転手の顔もまた、赤い。……まさか、酔っているのだろうか?

 その頃には、美優は自身の置かれた状況を悟っていた。


 そっか、私、死ぬんだ。


 しかし嫌なタイミングである。久しぶりの「悪いこと」をしている最中に、飲酒運転のトラックに轢かれて死ぬなんて。両親は、どんな反応をするだろう?

 まず浮かんだのは、両親の顔。そして次に浮かんだのは、美優にとっても意外な顔だった。


 石谷恵理。

 確信なんてないけれど、彼女も同じように死んだんじゃないだろうか。行方不明だったのは、もしかしたらただの家出だったり。


 そう考えたら、自分が一人じゃない気がして、嬉しくなった。

 こんな気持ちは久しぶりだ。学校で志穂と話していても、家で親と過ごしていても、その真逆の気持ちしか抱けなかったのに。


 ――こういう気持ちだったな。一人じゃない、安心感って。


 美優は最期に、少しだけ自分が変われた気がした。



「――で、よろしいですな?」

「はい、ありがとうございます」


 私の目の前で、何かを話している人たちがいる。誰だろう? 私、死んだんじゃなかったっけ?


「ミュークリナ様も、よろしい……ミュークリナ様?」


 誰か知らない人が、知らない人を呼んでいる。

 ……いや、本当にそうだろうか? ミュークリナという名前は、どこかで聞いたことがあるような気もする。


「ミュークリナ様? 大丈夫ですか、ミュークリナ様?」

 隣にいる誰かが、美優の顔を覗き込んで心配そうにしている。

 やはり知らない顔。戸惑っていると、その少女もまた動揺しながらこう囁いた。


「まさか、転生を――?」

 まさかはこっちのセリフだ。なぜ、彼女は転生などという言葉を出すことが出来たのだろう?


「とにかく、その人の言うことに頷いていてください。後はボクが何とかします」


 こちらの反応を見て正解だと思ったらしく、少女はこう告げて元の体勢に戻った。


 ボクっ娘だったのか。謎の感慨を抱きながらも、それどころじゃないと思い直して目の前の男を見た。


「えー……ミュークリナ様も、よろしいですな?」

 気を取り直すようにそう聞いた男は、中世ヨーロッパ風の服装をしている。身分が高いのか、服には華美すぎない程度の刺繍が入っており、仕立ての良さを感じさせる。


 いや、男の分析は今でなくてもいい。とにかく、何か言わなければ。

「はい」

 しかし文脈がわからないせいで、これ以上の相槌が打てない。不自然だったらどうしよう。


「では、交渉は成立ですな。書類は残しますか?」

「いえ。ヴェルノディア侯爵のことは、信頼していますから」

「それは、期待にお応えしなくてはなりませんね。……では、さっそく取り掛かりますので」


 そして男は部屋から、従者らしき人物を伴って出ていく。やはり、それなりの身分があるらしい。

 部屋を見回してみても、清潔感はもちろんあるし、広い。応接室なのか、あまり生活感はないが上品な雰囲気がある。

 ほかに人はいないようで、部屋には二人だけになった。


「それで、あなたは誰ですか?」

 先に質問したのは、隣に座っている少女。美優ももちろん聞きたいことは多いのだが、さっきは助け舟を出してもらった恩がある。おとなしく答えることにした。


「美優。……信じられないかもしれないけど、私、死んだはずなんだ」

「やっぱり、あなたもですか」

「え?」


 変人扱いを覚悟で打ち明けると、少女は意外な発言をした。その言い方では、まるで――。


「美優さん。ボクたちはどうやら、この世界に転生したようです」


 美優の予感を肯定するように、少女は告げる。


「転、生……? って、ラノベとかでよく聞く?」

 前世の美優は、あまりその類のものを読んでこなかったが、それくらいの知識はあった。


「そうです。そして、この世界もラノベの世界みたいなんです」

「ラノベの世界?」

「『転生メイドですが、崖っぷちの王国を救います』って、聞いたことありますか?」


 少女が口にしたタイトルには、聞き覚えがあった。確か、アニメ化して前世で流行っていたラノベのはずだ。略称は、『転生メイド』。


「読んだことはないけど、聞いたことはあるかな」

「ここは、『転生メイド』の世界みたいで……ボクが主人公のエリーシャ、美優さんはミュークリナです」

「そうか! ミュークリナって確か、エリーシャが仕えてる王女だったよね?」


 思い出した。どこかで聞いたことのある名前だと思っていたけれど、まさかラノベの主要キャラクターの名前だったとは。


「はい。エリーシャがミュークリナを差し置いて外交などにおいて優秀すぎる結果を出して、王国を救うっていうのが大筋ですね。本当は、エリーシャの中にはもっと違う人がいたはずなんですけど……」

 その通りだ。それに、ミュークリナは転生者ではなかった。


「そういえば、あなたの名前を聞いてもいい? ……前世の、名前を」

 聞いても何もいいことなんてないのかもしれない。けれど、美優は知りたいと思った。彼女が、自分にとって現状は唯一味方と言える人物だから。


「ボクは、石谷恵理です」


 だが名前を聞いて、そんな考えはすべて吹き飛んでしまった。

「石谷恵理? って、交通事故の?」

 混乱のあまり、よくわからない確認の仕方になってしまう。


「え? ボクのことを知っているんですか?」

「死ぬ前に、ニュースで見たの。行方不明だったけど、交通事故に巻き込まれたって」


「そうでしたか……」

 微妙な表情で、恵理は相槌を打つ。

 その恵理の容姿はあまり日本人じみたものではなかった。明るい茶髪に、緑がかった瞳。とても、「石谷恵理」とは結び付かない。


「そのニュースを見たのは、死ぬどれくらい前でしたか?」

「三十分くらい、かな」

 記憶ははっきりしないが、一時間は経っていないはずだ。


「なるほど。ですがボクがここに転生してきたのは一か月ほど前……転生してくるタイミングと、死んだ時期は関係ないみたいですね」

「そうだね」


 美優が見たニュースでは、速報と言われていた。さすがに一か月前の事故を速報とは言わないだろうから、そういうことになるのだろう。


「ところで、さっきの……ヴェルノディア侯爵? って人は、誰なの?」

「彼は隣国の、貿易で利益をあげている有力な貴族ですね」


 なるほど。やはり、『転生メイド』の大筋である外交は無関係じゃなかったみたいだ。

 そこで美優は、一つ疑問を抱いた。一か月前からエリーシャとして生きているのなら、わかるかもしれない。


「この世界がラノベってことは、原作通りのイベントが起こっていくってこと?」

「ボクも初めは、そう思っていました」


 嫌なセリフだ。どうやらこの世界も一筋縄ではいかないらしい。


「だけど、おかしいんです。明らかに、どのキャラも原作の最新巻より年単位で成長しているんです」

「そうなの?」

「はい。ここは、原作がまだ追いついていない世界――まだ文章にされていない、作者の脳内にしかない世界なんです」


 作者の脳内にしかない世界? それでは、原作を知っていることによるメリットなんてないようなものだ。美優は、もちろん作者ではない。


「その作者も転生してきてたら、楽なのに」

 思わずこぼれた言葉。それに恵理は、苦笑交じりにこう答えた。


「現実世界にだって、原作はないじゃないですか。転生したって、原作がない方が普通ですよ。がんばりましょう」



 ミュークリナとしての人生が始まって、二週間が経った。


『転生メイド』の世界には、実は魔法が存在しない。

 そのため、階級やしきたりなどで困ることはあっても、あまりに現実離れ(と言ってもいいのかはわからないが……)したことは起こらなかった。


 転生における先輩で、『転生メイド』について美優以上の知識がある恵理とほとんどの時間を過ごせたのも、大きい。

 おかげで、ミュークリナに関する知識の足りない部分を補うこともできた。


 なんだかんだ言って、美優はこの世界に順応し始めていたのである。


 この朝も、もはや美優にとってはいつも通りの天井を見上げて目覚めた。

「おはよう、恵理……」


 いつもは、美優が起きるころには恵理が部屋にいて、様々な世話を焼いてくれる。

 それはさすがに申し訳ない、と美優は言ったのだが、世話をしなければ怪しまれてしまうと恵理に押し切られた結果だった。


 相手のことを前世の名前で呼び捨てにするのは、美優の提案だ。


 美優にとっては恵理はこの世界で唯一、転生を打ち明けた関係。そのことを実感することが、美優を安らがせてくれる。孤独を、抱かずに済む。

 美優が死ぬ直前に思い出した安心感を、忘れたくなかったのだ。


 恵理もそれには賛成してくれたので、ほかの人がいない場所ではお互いを「恵理」「美優」と呼び合うことになった。


 ……の、だが。


「恵理?」

 呼びかけても、反応がない。こんなことは初めてだ。


 寝坊したのかもしれない。まだぼんやりする頭でそう思い、最低限の身支度をして恵理の部屋に向かうことにした。


「恵理、起きてる?」

 呼びかけてドアをノックする。恵理の部屋は美優の隣で、個室。寝坊の可能性も十分考えられる。


 ところが、強めにノックしてみても反応がない。さて、どうしたものか。

 少し考えて、美優は部屋の中に呼びかけた。

「入るよ?」


 そして美優は、ドアを開いて部屋の中に入った。

 部屋は思っていたより明るい。窓とカーテンが開いて、朝日が差し込んでいるのだ。


「恵理……?」


 部屋のベッドには、人が寝ていた痕跡すらなかった。



「エリーシャ? そんなメイドいましたっけ……」

「知らないのなら、大丈夫」


 首をかしげる、メイドのリコーノに断って美優は歩き出す。


 この反応も、もう五回目だ。


 恵理の失踪に気づいた美優は、すぐに城の使用人たちに聞き込みを始めた。

 夜あるいは早朝に、エリーシャを見なかったかと。


 だが、誰一人としてエリーシャを見たものはいなかった。


 それどころか、エリーシャの存在を知るものでさえいなくなっていた。


「全員が、エリーシャの存在を忘れている……? どうして、そんなことに?」

 聞き込みを諦めて自室に戻ってきた美優は、呟いていた。


 繰り返すようだが、この世界には魔法の類は存在しない。人間一人の存在がなかったことになるなんて、そんなことを起こせる方法などないのだ。

 仮にそんなことが出来ても、美優が恵理を覚えていることの説明がつかない。


 恵理が、この世界から消されている。そんな風にしか思えなかった。


 なぜ、恵理は消されたのか? 誰が、どうやって――。


 そこまで考えて、美優は一つの可能性に至った。これ以外に考えられる可能性がないような気さえしてくる。


 しかし、この仮説が正しいとしても……。

 美優は途方に暮れた。仮説はたったが、なす術がない絶望は変わらない。むしろ、大きくなったまである。


 美優は、ただの登場人物の一人にすぎないのだ。

 その無力感に唇をかんで、俯く。


 さっき聞き込みをしたリコーノが、正直最後の希望だった。

 恵理によると、リコーノとエリーシャは同期で仲がいいのだという。

 その彼女でさえ忘れているとなると、もう誰に聞いても無駄な気さえしてくる。


「リコーノ、かぁ」

 それにしても珍しい名前だ。創作の中なのはわかるが、なぜ作者はわざわざこの名前をつけたのだろうか。


 エリーシャはまだともかく、ミュークリナというのもなかなか個性的である。思いついたのはすごいと思うが、人の名前というよりは道具の名前みたいだ。


「伸ばし棒が、多いからかな」

 伸ばし棒を使った名前ばかり出てくると、ちょっと気になる。何か伸ばし棒を使いたい理由でもあるのだろうか。


 恵理の捜索には関係ないと知りつつも、手詰まり感から逃れるために、美優は呟く。

「ミュークリナ、ミュークリナ……」


 手近にあった紙に、羽ペンで書く。

「ミュー、クリナ?」


 三度目のミュークリナ。疑問符はやがて確信に変わり、目を見開く。


「――嘘」


 名前に隠された法則。

 美優の考えるそれが正しいのなら、彼女は――。



「リコーノ」

「はい、どうされましたか? ミュークリナ様」


 美優は再び、リコーノに会いに来ていた。

 幸いそう時間はかからず、リコーノを捕まえることに成功する。

 周りに誰もいないのを確認して、美優は切り出す。


「リコーノ。あなた、()()()()()()()()()()()?」


「え――?」

「前世の名前は小野リコ。違う?」


 畳みかけるように尋ねる美優に、リコーノは動揺を隠しきれない。


「どうして、それを……」


 そしてリコーノは、自身の転生を認めた。


「確かにあたしは、小野りこでした。……まさか、ミュークリナ様も?」

「そうだよ。だから、二人の時くらいは敬語をやめない? 今も慣れないの」

「……わかった」


「私の前世の名前は、栗名(くりな)美優。何か、気づかない?」

「栗名? って、もしかして……」


 ずいぶん気づくのが早い。まあ「ミュークリナ」が一番わかりやすいので、無理もないのだけど。

 こうなると、美優が自身の第二の名前に無頓着だったのが悔やまれる。


「名前、苗字の順に並べる。そして、小さい字にしたり、伸ばし棒にしたりする。転生者の名前には、そういう決まりがあったんだよ」


 栗名美優であれば、みゆうくりな、ミュークリナ。

 小野りこであれば、りこおの、リコーノ。

 そして、石谷恵理は、えりいしや、エリーシャ。


 やたらと伸ばし棒が名前に多用されていたのには、こういう意味があったのだ。伸ばし棒を使わないと、名前が不自然になってしまう。


「じゃあ、ほかにも転生している人がいるの?」

 察しがいい。美優は頷く。


「石谷恵理、って聞いたことはある?」

「ええと……行方不明になって交通事故で亡くなられた?」

「よかった……!」


 これは賭けだった。りこが恵理の生前を知っているかどうかは、重要なカギになる。


「石谷恵理って、並べ替えたらエリーシャに――」

 りこはそう言いかけて、目を見開く。


「エリーシャは、どこに行ったの?」


 それは、思わずといった感じの呟きだった。


「そうだ、エリーシャは主人公。いないなんて、絶対におかしい」


 りこは、蘇ってきた記憶を確かめるように呟き続ける。

 やはり、美優の推測は正しかったのだ。


「石谷恵理のことを知っている人間は、エリーシャのことを思い出せる。たぶん、そうなっているんだと思う」


「ほかにエリーシャを覚えている人は、いるの?」

「……私と、りこだけ」


 そう。美優はこの世界に来てまだ二週間で、城の全員の名前を覚えているわけではない。

 その状況では、いるかどうかもわからない元日本人を探そうとは思えなかった。


「でも絶対、そんなの嫌。『主人公のいない世界は、ラノベとして終わってます』」


 何かこだわりでもあるのか、りこは懸命な瞳で美優を見る。


「東雲先生――『転生メイド』の作者さんが言ってたんだよ」

 不思議がっているのがわかったのか、りこは照れくさそうにこう付け加える。


 その手のことに疎い美優も、『転生メイド』の作者が東雲ユリということは知っている。東雲ユリといえば、そのプロフィールが何もかも謎に包まれていることで有名だ。


「作者さん、ね。何かの間違いで、その作者さんも転生してきてたらいいのに」

 言ってしまってから、二週間前も同じことを言ったことを思い出す。恵理はそんな都合のいい話はないと苦笑したけれど、りこはどんな反応をするだろう。


 呑気にそう構えていた美優は、りこの反応を聞いて目を見開く。

「え? 美優?」


 その声も聞こえないほど、美優は頭のすべてを思考と記憶を掘り返すことに費やしていた。


 あのとき、恵理は何と言った?

 それは、なぜ?

 そして、どうして恵理は消えてしまったのか?


 すべてが、繋がったような気がした。



「――と、思うんだけど」


 自身の思いつきを話した美優に、りこは難しい顔で頷く。


「それなら確かに、恵理さんの不自然な言葉も説明がつく。……だけど、もしそうなら、恵理さんを取り戻すのはより厳しくなるんじゃない?」

「だよね……」


 そうなのだ。もし美優の仮説が正しければ、美優たちが恵理に手を差し伸べても事態が好転するとは限らない。むしろ、その可能性の方が低いくらいだ。


「だけど、私はやる。このままこの物語が終わるのは、ダメだと思うから」

「ならあたしにも、手伝わせて。東雲先生の、名言だもんね」

 二人は笑顔を互いに向けあって、新たな話し合いを始めた。


「どうすれば、恵理さんに会えるかな」


「物語は作者が書くけど、その筋を決めるのは作者のようで実際はそうとも限らない。作者は、往々にして読者に好まれるような文章を書こうとする」


 美優は、ふと思い出した言葉を呟いてみる。


「……なかなか深いね」

「いつも私が思っていることだから。自分の理想だけじゃ、誰にも読んでもらえないんだろうなって」


 自分の人生を生きるのはもちろん自分。だけど、その道も自分ですべて決められるとは限らない。人間は、一人では生きていけないから。


 求められるがままに優等生を演じることだってあるだろうし、自分の身を守るために好きでもない友達と過ごすこともあるかもしれない。


 いつしか美優は、人生と物語を重ねて、そんな風に見るようになっていた。


「……これを、逆に利用できないかな」

「逆に、利用?」


 りこの提案は、まさしく美優の持論を逆に利用するものだった。


「上手くいくかはわからないけど、やってみたい。恵理を救える可能性が、少しでもあるのなら」


 美優は、死の間際に抱けた、「一人じゃない安心感」について、転生した後も考えていた。


 なぜ、恵理に対してこの感情を抱いたのだろう、と。


 恵理のことは一方的に知っていただけ。知っていたと言っても、その知識の量なんてたかが知れている。

 では、恵理のどこに自身との接点を感じたのか。

 その答えが、今ならなんとなくわかる気がする。


 恵理もきっと、抱えていたのだ。

 周りの目を気にしながら、自分の本当にしたいことを押し殺してきた窮屈さを。

 それは、形は違えど、美優が抱いてきたものと同じで。


 今、恵理はきっと自分のやりたいようにできていると思っているんだろう。


 だけど、きっとそれは違う。恵理は、自分が本当にやりたいことを見失っている。

 それを見つけた気になって、自分が望んでいるように見えることをやっているだけだ。


 美優だって、あの日あそこで死んでいなかったら、同じような道をたどっていたかもしれない。

 だからこそ、見放せない。助けたい。


 恵理を、助けたい。


 その思いが、ひたすらに美優を動かしていた。



 恵理は、上下も何もない空間を漂っていた。

 宇宙ってこんな感じなんだろうか。時計なんてものは持っていないから、時間の感覚もなくなってきた。

 エリーシャのメイド服と明るい茶髪を見下ろして、ぼんやりと考える。


 いずれ、ボクが誰からも忘れられたときに、ボクは本当の意味で消える。


 今はひたすら、その時を待っていた。


 この空間を漂っている現状は、実を言うと想定外だった。恵理がここにいるということは、まだ誰かが恵理のことを覚えていることになる。


【東雲ユリ先生へ】


 やはり、美優だろうか。

 けれど、それも時間の問題だ。世界はもう、エリーシャも恵理も必要としていない。いずれ美優も、必要のない存在のことなんて忘れる。


【『転生メイド』を書いてくれて、ありがとうございます】


 万が一、ほかの誰かが恵理のことを覚えていても、それには寿命がある。それが尽きるときは、必ず来る。


【あたしは、『転生メイド』の大ファンです】


「恵理」と「エリーシャ」の名前の関係に気づいて、あの世界の誰かが気づいて広めたとしても、それにも限界がある。

 少なくともリコーノは転生者だろうけど、ほかにめどが立たなければそれ以上は広められない。やはり、限界が来る。


【エリーシャとミュークリナの関係性が、最高なんですよね】


「……何ですか? さっきから」


 先ほどから恵理の脳内に流れてくるのは、東雲ユリ宛のファンレターのようだ。誰の声かははっきりしない。

 ほかの誰もいない空間で、そのファンレターはあまりに異質だった。


【先生は、『転生メイド』が好きですか?】


 突然の問いかけに、恵理はたじろぐ。


『転生メイド』が、好きかどうか?


 そんなの、好きに決まっている。


 だって恵理は、原作者――()()()()なのだから。


【やっぱり、好きですよね。そうじゃないと、あんなに愛のある文章は書けないですもん】


 続く言葉は、恵理の答えを予想していた。

 彼女は、誰なのだろう。消滅を待つ身でありながら、知りたいと思った。


 恵理のもとに、東雲ユリ宛のファンレターは何通も来た。

 根拠なんてなかったけれど、このファンレターはそれらとは全く違うような気がしたから。


【でも、先生はもしかしたら、ファンレターは嫌いかもしれませんね】


「え――?」

 思わず、声を漏らす。


 それは、確かに正しかった。


 恵理は、ファンレターを見なかった。

 送られてくるファンレターは、見ずに棚の奥に押し込んでいた。読むつもりはなかったけれど、捨てる気にもならなかったからだ。


 だが、なおさら疑問は大きくなる。なぜ彼女は、相手がファンレター嫌いと知りながらファンレターを書いたのだろう?


【だからここからは、ただの手紙として書くから。ただの手紙として読んでよ、()()


 心臓が跳ねる。


 なぜ、彼女は東雲ユリの本名を知っている?


 記憶を調べたが、そんな人間は数えるほどしかない。そしてその人たちは、恵理にこんな風に手紙を書いたりしない。


【恵理はどうして、『転生メイド』を書き始めたの? 誰かにそう望まれたから?】


「違います。――そんなんじゃ、なかったんです」


 思わず恵理は、肉声で返事をしていた。

 彼女に届いているとは思えない。それでも、人生最後の会話をできているような気がした。


【最初は、好きで書き始めたんでしょ?】


「そう、です。ただ、それを誰かに共有したいという欲が出てしまった」


【そして小説投稿サイトに投稿するうち、読者からの評価を気にするようになった】


「はい。やっぱり、周りからの評価って大事ですから」

 目を伏せて、自嘲するように言う。


 ああ、すべて彼女はわかっている。


 そう思いながらも、恵理は彼女とのやり取りをやめなかった。


【それが人気が出て、あとはあっという間。気づいたら、続編を望む声に押し潰されそうになっていた】


「バカみたいですよね。評価されたいなんて思っておきながら、思っていた以上の反響があっただけで引っ込んでしまう。――ボク、何がしたかったんでしょう」


 話は、恵理の意思を置き去りに進んでしまった。

 書籍化、漫画化、アニメ化。嬉しくなかったわけじゃない。だけど、ハードルは上がる。


【恵理は、自分に向けられている期待に応えるために、書くようになったんじゃない? それはきっと、とても苦しいことなのに】


「ボクは、それに気づかないで泥沼にはまっていたんです。期待に応え続けていれば、読者は満足してくれるって。だけど、そのループに終わりなんてないんです。――ボクが、失敗しない限り」


 そして恵理は、その失敗を恐れていた。いつしか、自分の価値はラノベにあると思うようになっていたから。


【ここからは、もう完全に憶測だけど】


 手紙の主は、そう断って続ける。


【恵理は、期待を裏切るのが怖くて行方をくらましたんじゃない?】


 図星だった。どうやら彼女は、石谷恵理の失踪を知っている人物らしい。


【交通事故というのが、巻き込まれただけなのか巻き込まれに行ったのかは、さすがにわからないけど】


「それは、本当に巻き込まれただけです。ボクが、ぼんやり歩くから」


 恵理は周りのことを気にする余裕もなく歩いていた。それが、事故という結果を招いてしまったのだろう。


【でも、恵理にはどうしても伝えたいことがあるから、こうして手紙にしてる】


「……伝えたいこと?」


 彼女と恵理には、どうやら浅からぬ関係があるらしい。そもそも、こんなよくわからない空間を漂う恵理に手紙を届けている時点で、そうに決まっているのだが。


【恵理。あなたは、あなたのやりたいようにやってほしい】


「やりたいように、やってますよ。ボクは『転生メイド』をやめたくなったから、やめる。そのために、エリーシャを消したんです」


 この世界は、作者の脳内にしかない世界。

 逆に言えば、作者が脳内で考えたことは、すべてこの世界に反映される。


 恵理は、()()()()()()()()()()()()()()()


「主人公のいない世界は、ラノベとして終わってます」。東雲ユリとして、いつかどこかで言った言葉だ。

 だから、恵理は主人公をいなくしてこのラノベを終わらせる。


 本当は、恵理がエリーシャを消した時点で完全にエリーシャは消えるはずだったのだ。

 だが、転生者である美優の存在が、それを狂わせた。


 美優には、「石谷恵理」の記憶があった。

 それは、恵理、そしてエリーシャのことを簡単には忘れさせなかった。


 恵理は、一部の登場人物の名前に法則を作りこそしたが、別にミュークリナの前世が栗名美優だなんて想定はしていなかった。クリナミユウなんているかわからない。そんなラインの名前を隠してきただけ。リコーノだってそうだ。ただの言葉遊びにすぎない。


 それに、本当に意味が宿ってしまった。

「石谷恵理」を知る人物が『転生メイド』の世界にいる限り、恵理とエリーシャは消えない。


【恵理は、エリーシャを消してこのラノベを終わらせようとしている。それが本当に、恵理の望むこと?】


「ええ、そうですとも。ボクはもう、疲れたんです」


 やはり、彼女はすべてわかっていた。

 納得しながらも、言葉の通りに疲れたような笑い方をする恵理。


【それは、絶対に違う。私が、断言する】


 力強い言葉が、恵理を否定した。

 恵理は無言で、続きを待つ。


【恵理が認めたんだよ。『転生メイド』が、好きだって】


 それを思い出すのに、時間はかからなかった。確か――まだ、東雲ユリへのファンレターだったあたりだ。


【なら、どうして終わらせようとするの? 本当に好きなら、終わらせたりなんかしない】


「好きなのは、事実ですよ。だけど、疲れたのも事実なんです」


 だが、彼女の言うことにも一理あるとも思っていた。恵理の行動は、一貫しているようでしていない。


【もし、読者(わたしたち)の期待に応えることに、疲れてしまったのなら……】


 初めて手紙の主は、ためらうような文面を見せた。

 そこで恵理は、相手も人間なのだ、と唐突に思う。


 脳内に直接響く手紙なんて、非現実的にもほどがある。心のどこかで、相手はただの人間のようには思えなかった。……まあ恵理も、それに匹敵するだけのことをしているのだが。


 だけど、彼女にもためらいがある。そしてそれと同じように、呆れや諦めがある。


【恵理が書きたいように、書いてほしい。読者なんて、二の次。考えなくたっていいくらいだよ】


「それが、できないんです。そうしたらきっと、あなたたちは……」


 その先は、言葉にできなかった。

 見放される、罵られる、諦められる。それだって恐ろしいが、それよりも恵理には受け入れられないことがあった。


 自分の価値を否定されること。


『転生メイド』の書籍化の話を聞いたとき、思ったのだ。

 あぁ、ボクにはこれしかないんだ、と。


 ラノベで失敗してしまったら、きっと恵理には何もなくなってしまう。それを想像することすら、できなかった。


 気づけば、読者の顔色をうかがいながら執筆するようになっていた。


【それじゃうまくいかない、と思ってるかもしれない。だけど、そんなわけないんだよ】


 先ほどと同じように、彼女は断言した。


【だって恵理は、自分の好きなように書き始めたんだよ? 好きなように書き続けて、失敗するわけないじゃん】


「――っ」


 続いた言葉は、恵理が予想していたような精神論ではなかった。

 いや、精神論ともいえるのかもしれないけれど、単なるそれよりもずっと恵理の心を揺さぶった。


 できない。そう言いつつも、恵理は願っていたのだ。

 自分の好きなように書けたら、と。


 だけど、それは願うまでもなく叶っていたことだった。

 初めから――いや、初めはできていたことだったのだ。


【だから、恵理は好きなように書いて。私たちは、その欠片を勝手に眺めて喜んでるだけ。一番大事なのは、恵理】


 何も誤魔化すことのない、まっすぐな彼女の言葉。

 それは、読者に物語を届けたいと願いながらも、読者を一番恐れていた作家の中に、確かに刻まれた。


【エリーシャって、型破りなキャラじゃない? そこに自分を投影したのも、意味があったりして】


 手紙はちょっと軽い感じになる。でもその本質は、さっきまでと変わらない。恵理を、励まそうとしてくれている。前を向かせようとしてくれる。


【最後まで読んでくれて、ありがとう。じゃあ、またいつか!】


「……はい、またいつか」


 それきり、恵理の脳内に声が響いてくることはなかった。手紙は、終わったらしい。


「好きなように、書く……」


 エリーシャのことは好きだ。手紙の主が言ったように、型破りなキャラにしている。

 でもそれは、自分がそうなれない諦めを込めて書いているのだと、思っていた。


 だけど本当はきっと、違ったのだ。


 そういうキャラがいたら、面白いから。


 そういうキャラが、好きだから。


「結局、今のボクがあるのも、昔の好き勝手やってたボクのおかげってわけですか」

 そう呟いて、しかしその表情は先ほどまでよりも明るい。


「エリーシャ、やっぱり好きです。――戻ってきて、くれませんか」


 胸に手を当てて、小さく言う。

 するとその部分から、光があふれだす。


 光が収まった時にはもう、エリーシャの体はそこにはなかった。



「えっ、やっぱり差出人も書いた方がそれっぽいかな」

「いや、それは……どうなんだろう。あたしも書いたことないからなぁ」


 エリーシャの部屋で、美優とりこは紙とペンを前にうなっていた。


 もともと、本文の文面は考えてあった。

 だから、本文は詰まらずに書けたのだが、独自のしきたり的なものがあったらどうしようと突然不安に駆られた結果がこれである。不慣れなことをする前には、どれだけ考えても足らない。


「どうでしょう。ファンレターは郵送することも多いので、もうそんなことを気にする場面もないんじゃないですか?」


 二人は、後ろから割り込んだ声に同時に振り向く。


「恵理!」

 目を見開いて、美優がその当人の名前を呼ぶ。


「もう……心配、したんだから」

 顔をそらし気味に言った美優に、恵理は納得したような素振りを見せる。


「やっぱり、あの手紙は美優が書いたんですか」

「私ひとりじゃないよ。りこ――リコーノにも、手伝ってもらった」

「前半ですか」

「え? わかるの?」


 美優はきょとんと聞き返す。そこで、手紙を見直していたりこが「あっ」と漏らした。

「どうしたの?」

「ファンレター部分と手紙部分で、一人称が違う……」

「ええっ」


 確かによく見たら、前半で「あたし」と言っているのに後半では「私」である。

 これは気づかれても何の不思議もなかった。なんか詰めが甘いんだよな。


「でも、どうしてボクが東雲ユリだって気づいたんですか? 裏設定なんかは、教えてないはずなんですが」

「初めて会った時。ここは、まだ文章化されていない、作者の脳内にしかない世界だって言ってたでしょ。それが断定的すぎる気がしたの」

「なるほど……」


 とはいえ、気づけたのはりこのおかげでもある。「作者も転生していればよかったのに」と言う美優に対して、「どうして?」と真顔で返されて初めて、気づいたのだ。

 恵理は、ただの登場人物にしては、この世界について多くを知りすぎているということに。


「もしそれが正しかったら、恵理がいなくなった説明もつくから」

「……では、そのいなくなったボクに、どうやって手紙を渡すという発想になったんですか?」


 これは気になっていた部分だった。どこに行ったかもわからない人間の脳内に直接手紙を届けるなんて、正気じゃない。


「この世界は、まだ作者の脳内にしかない。それは、この先いろんな影響を受けて変わっていく可能性を秘めてるってことだよね」

「いろんな、影響」

 オウム返しする恵理に、美優はもどかしそうに言う。


「うーん、あんまりうまく言えないんだけど。作者は、自分一人で作品を作ってるようで、実際は受け取り手に影響されながら作品を作ってる。それと同じことが、出来るんじゃないかって話になったの」


 そこに、りこが助け舟を出す。

「あたしたちが作者さんに主張を届ける一番の機会って、ファンレターだと思う。だからその形をとったけど……作者がこの世界――物語を変えられるのなら、それと同じくらいの可能性を秘めてるあたしたちでも、同じことが出来るんじゃないか、って」


「そうか……だけど、完全な形では世界に干渉できなかったから、あんな中途半端な届き方になったんですね」

 手紙なのに現物が届かず、音声だけが脳内で流れるというのは正常な状態ではないはずだ。手紙の利点である、読み返せるという部分が台無しだし。


「中途半端な? ちょっと待って、なんで手紙の現物はここにあるのに恵理さんは内容を知ってるの?」

「内緒」

「いいでしょ、それぐらい」


 りこと恵理が言い争い始めた。こうやって見ていると、リコーノとエリーシャの仲がいいというのは、とても自然なことに思えてくる。原作でもこんな感じなのだろうか。


 その光景を眺めながら、美優はうっすらと考えていた。

 きっと私は、ミュークリナの寿命が尽きるまでここで生きる。それってどうなんだろう、とは今も思うけれど、それ以上に嬉しいとも思うのだ。


 作者だけじゃなく、眺めている読者も、物語を動かしている。そう、感じられるから。

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