水族館とカニ
彼女――東野葉月が気になったのはいつもケガをしているからだった。
それも絆創膏やアザ程度の軽傷ではなく、腕を吊っていたり足を骨折したのか松葉杖をついていたりというものだ。
見えるところに包帯がなくても明らかに脇腹などを庇っている歩き方をしていることもある。おそらく脇腹にひどい打ち身があったにちがいない。
大学で見ている限りそそっかしいわけではなさそうだから、そうなるとマンガみたいに何もないところで躓いて階段から転げ落ちたとかいうわけではないだろう。
となるとどうしてもDVを疑ってしまう。
葉月は大学で介護用ロボットの研究をしている。
介護の負担を少しでも減らしたいという思いからだそうだ。
そんな優しい彼女を殴るなんて許せない……。
DVをする人間というのは優しい人を選んでやるという話だから優しいが故に殴られてしまうのだろう。
とはいえ大学の知り合いというだけで彼女のプライベートに口出しするのも……。
「次はこっちだ」
智之は先輩に声を掛けられて我に返った。
「はい。今、行きます」
智之は水族館にバイトに来ていた。
パーティションを動かしたりポスターなどを貼り替えたりという雑用を手伝ってほしいと頼まれたのだ。
展示物を変更するという時になって職員の間でインフルエンザが流行ってしまって人手が足りなくなったらしい。
水族館の水槽の中でマンボウが泳いでいた。
こちらに向かって泳いできたかと思うとガラスの前で向きを変えて向こうに行ってしまう。
智之がポスターを貼り替えていると、
「そうなんだ」
近くから女性の声が聞こえてきた。
女性の連れの男性がウンチクを垂れている。
「マンボウっていうのは真っ直ぐにしか泳げないから岩とかにぶつかって死ぬんだ」
おい!
男の言葉に思わず智之は心の中と突っ込んでしまった。
たった今、目の前で向きを変えただろうが!
ウンチクに夢中で目の前のマンボウを見ていなかったのだろう。
直進しか出来ないならどうやって水槽で飼うんだよ……。
智之はウンチク男のデタラメな話を聞きたくなくて荷物を抱えると急いで次の場所に移動した。
立ち入り禁止のために置いてあるポールの位置を調整していると、またさっきのウンチク男の声が聞こえてきた。
「チョウザメっていうのは川に生息してるサメで――」
チョウザメはサメじゃねぇよ!
智之が心の中で突っ込む。
「つまりキャビアっていうのはサメの卵なんだ。フカヒレといい、人間はサメを食うのが好きなんだよね」
お前はサメに喰われろ!
智之は心の中で毒突くと、ウンチクから逃げるように事務所に戻った。
「智之、サンキューな。今日はもういいぞ」
「あ、じゃあ、失礼します」
智之はそう言うと事務所を後にした。
水族館を見て回るように勧めてくれたので智之は言葉に甘えることにした。
智之が大きい水槽を眺めていると、
「コバンザメは――」
いつの間にか近くに来ていたウンチク男が解説を始めた。
「小型のサメで……」
ウンチク男の言葉に思わず、
「コバンザメもチョウザメも硬骨魚類で、軟骨魚類のサメとは全く違う種だ! チョウザメは淡水魚じゃなくて沿岸部に生息する海水魚だし、コバンザメはスズキの仲間だ!」
と、早口で捲し立ててから女性が葉月だと気付いた。
「いい加減なことを言うな」
ウンチク男がそう言うと、
「コバンザメがスズキの仲間なのはホントだよ。そこに書いてあるし」
葉月が水槽の前のプレートを指した。
ウンチク男は顔を真っ赤にすると智之を睨んでから足音荒く立ち去った。
「あ……ごめん」
智之は葉月に謝った。
余計なことを言ってデートの邪魔をしてしまった。
「ううん、助かった」
葉月が笑顔で首を振る。
「知り合いに紹介されたんだけど何かというとあんな感じで延々と説明されて……」
「ああ、あの手のウンチクって引くよね」
「ホントに知ってるならいいんだけどね」
「え?」
「チョウザメが海水魚じゃなくて遡河魚だって訂正しなかったのは知らなかったからでしょ。口論になるようならそれも言おうと思ってたの」
遡河魚……。
遡河魚とは海を回遊しているが産卵の時などに川に遡上する魚のことで代表的なのはサケやアユなどである。
じゃあ、川にもいるんだ……。
冷や汗が背を伝う。
智之もウンチク男同様、間違った知識を語ってしまった。
「指摘すると機嫌が悪くなるから黙ってたんだけど、そういう間違い多いから聞いてるとストレス溜まるのよね」
葉月が言った。
そういえば葉月は大学の研究室で研究してるくらいだから相当頭が良いのだ。
まさか魚にも詳しいとは思わなかったが。
「あ、俺は機嫌悪くなったりしないから間違ってたら遠慮なく言ってくれていいよ」
「うん、でも智之君はウンチク語ったりしないでしょ」
「俺、知識ないから……」
「私だって知らないことの方が多いよ。だから智之君も私の知らないこと教えてね」
葉月の屈託のない笑顔に冷や汗が流れる。
東野さんが知らなくて俺が知ってる事なんて無いような……。
「いや、俺、無知だから」
智之は正直に言った。
ウンチク男と同じ轍は踏みたくない。
「知らないことを自覚するのを『無知の知』って言うんでしょ」
葉月が言った。
「さすがだね」
「あ、あははは」
無知の知ってソクラテスだったよな……。
智之は教養課程で少しやった程度だから全く覚えていない。
というか葉月も理系だから哲学は教養課程だけだと思うのだが――。
理系なのに哲学の知識もあるのか……。
「えっと……良かったら一緒に回らない?」
智之が誘うと、
「うん」
葉月は笑顔で頷いた。
「あの……」
智之は魚を見ながら言った。
「何?」
「あいつと付き合ってるわけじゃないんだよね?」
「うん、もちろん」
葉月が屈託のない顔で頷いた。
この表情からすると嘘ではないようだ。
「そっか、デートの邪魔したんじゃないならいいんだけど」
「まさか。ホントに助かったから気にしないで。あの様子なら二度と誘ってこないと思うし」
葉月が言った。
「そう。あの、この水族館、クリスマスに色々イベントあるみたいなんだけど、もし良かったら……」
「うん、いいよ」
智之が最後まで言う前に葉月は頷いた。
やった……!
もし嫌なら最後までいう前に承諾してくれたりしないはずだ。
智之は浮かれながら帰路に就いた。
数日後――
智之は目を剥いた。
大学で会った葉月は手首を吊っていたのだ。
「と、東野さん!? 大丈夫!?」
智之が慌てて訊ねると、
「あ、平気、平気。いつものことだし」
葉月がなんでもないような表情で答えた。
「あのさ、立ち入ったこと聞くようだけど……なんでいつもそんな大ケガしてるの? 身近に暴力ふるう人が……」
「あ、違う違う」
葉月が笑いながら手を振る。
「これは実験でやっちゃったの」
「実験って、東野さんが研究してるのAIでしょ。AIの研究でケガしたりするものなの?」
「AIって言っても、翻訳したりイラストを生成するやつじゃなくて、ロボットの動きを制御する方だから」
葉月が答えた。
「うちのお祖母ちゃん、早くから寝たきりでお母さんが介護してたの。時々手伝ったけどベッドから車椅子に移したりするの、すごく大変だった」
寝たきりだと筋肉が落ちて痩せるがそれでも三十キロくらいはある。
三十キロの人を抱えて移動させるのは大変だ。
荷物と違って落としたりぶつけたりしたらケガをする。
介護を受ける人だけではない。介護する方もケガをしたり身体を壊すことは珍しくない。
だから葉月は介護用AIロボットのニュースを見たとき期待した。
重労働をロボットが手伝ってくれれば介護はかなり楽になる、と。
ところがTVに写ったロボットは病人役の人に薬を出してこう言った。
「薬を飲んでください」
「……は?」
葉月が思わず眉を顰めた。
次に病人役の人が、
「うっ」
と言ってお腹を押さえた。
ロボットは、
「具合が悪いのですか? お医者さんを呼びましょうか?」
と訊ねた。
「ニュースはそれで終わり」
葉月がこめかみを押さえながら言った。
「薬を飲んでって言うのを代わってほしいと思ってる介護士はいないはずよ。介護で助けてほしいのはそこじゃないから」
葉月の言葉に智之は頷いた。
それは素人の智之でも分かる。
「どうせ今のAIじゃ患者さんがイヤだって言った時、なだめすかして飲ませるなんて芸当出来ないでしょ」
葉月の言う通りだ。
説得するにしても相手の性格によって言い方を変える必要があるだろう。
飲んでくれるまでひたすら『飲んでください』と繰り返すしか能がないなら高いロボットなど必要ない。
パソコンで音声データを再生すればいいだけだ。
AIすらいらない。
高いお金を掛けて人形のロボットを作る必要もない。
それに、お腹を押さえたのを見て医者を呼ぶかの判断を患者に委ねているようでは意味がない。
医師に見せる必要があるのに患者が呼ばなくていいと答えてしまって手遅れになったら目も当てられないし、だからといって介護士を呼んで判断してもらうくらいなら最初から介護士が行った方が早い。
「ロボットにやってほしいのはそこじゃないの」
患者さんを抱きかかえて移動させたりするような重労働を代わってほしいのだ。
介護現場のニーズが分かっていない人には任せられない。
それで葉月が自分でやることにしたのだ。
「なんで人形使わないの?」
「最初に人形使ってた時、ぐしゃってなっちゃって……」
葉月はいいながら両手で何かを潰す仕草をして見せた。
人形が潰れたって事か……。
人間だったらスプラッターホラーだ。
「ロボットだとどうしても力加減が上手くいかなくて……それで自分で試してるの」
「でも……自分で試すにしても、もう少し安全になってから……」
「もう大分安全になってきてるんだよ。人形も壊れなくなったし。今は痛みを感じないくらいの力で、かつ落としたりしないように調整してる段階」
「それで安全なの?」
智之は包帯が巻かれている葉月の腕を指した。
「これは落ちた時に受け身を取れなかったから……」
葉月とそんな話をしながら智之は教室に向かった。
バイトの休憩時間、智之は介護ロボットの話を先輩にした。
「それはパワードスーツの開発の方が早そうだなぁ」
先輩が言った。
「パワードスーツ?」
「力仕事をする人が着込んで力を出すのはスーツがやるんだよ」
先輩の説明によると、着てる方は普通に動くだけだが人間には重くて持てないような物を持ち上げられるものだという。
SFで見るような全身タイツのようなものではなく、腕だけとか腰から下だけなど身体の一部に取り付けるタイプはある程度開発が進んでいるらしい。
「へぇ、そうなんすか」
智之は感心して頷いた。
寝たきりの人をロボットに持ち上げてほしいのは重くて重労働だからそれを変わってほしいからだ。
パワードスーツで重さを感じずに持ち上げることが出来るならそれでも構わないのではないだろうか。
智之は葉月に話してみることにした。
東野さんとの話題が出来た……。
十二月二十四日――
「あ、ねぇ、あれ見て」
魚を見ながら歩いていた葉月が壁を指した。
〝クリスマスイルミネーション〟
〝デンキウナギの電気でイルミネーションが点くかも?〟
「かも?」
智之が首を傾げる。
「電気を出すかどうかはウナギ次第だからってことみたい」
葉月の言葉に智之は納得した。
二人が水槽の前でデンキウナギを見ていると、一瞬イルミネーションが点いた。
「わぁ、すごい!」
葉月が無邪気に喜ぶ。
「これって馬が倒れたりするんだよね? それでこんなもんなんだ」
智之が言った。
「馬を倒すって言うのは、馬に驚いた時の話で、基本的には餌の小魚を捕まえるためみたいだから一瞬で十分なんじゃない?」
「そっかぁ」
智之は感心しながら頷いた。
そう言われてみればイルミネーションが点く直前、水槽の中に餌の小魚が放された。
おそらく電気を出させるためだろう。
それでデンキウナギが電気を出してイルミネーションが点いたのである。
水族館から出た二人はカニ料理の店に入った。
智之が今日のために奮発して予約しておいたのだ。
「わぁ、すごい! 大っきいカニだね」
葉月が出てきたタラバガニを見ながら言った。
「タラバガニはカニじゃなくてヤドカリだよ。なんて言ったら引くよね」
「まさか」
葉月が笑う。
「タラバガニの蟹味噌が美味しくないのはヤドカリの仲間だからなんだって。だから知ってて損はないよ。蟹味噌が食べたいならタラバガニ以外の蟹を選んだ方がいいわけだし」
「へぇ……」
知識がタラバガニはヤドカリというところで止まっていたらただの雑学でしかないが、だから蟹味噌が美味しくないというところまで分かっていれば知識を活用出来ていると言える。
「けど、なんでカニみたいな形してるんだろうね」
智之が何気なく言うと、
「収斂進化でカーシニゼーション――カニ化したんだって」
葉月が答えた。
「そうなんだ」
智之は素直に感心した。
ウンチク男ならきっとしたり顔でヤドカリと言ったかもしれないが収斂進化でカニ化したなんて事までは知らないだろう。
葉月はいちいち知ってることを垂れ流したりしないだけなのだ。
「カニ化は五回起きたそうよ」
葉月が付け加えた。
「五回の段階を経てタラバガニはこの形になったってこと?」
「そうじゃなくて他にもカニ化でカニみたいな形になったのがいるんだって。甲殻類がカニみたいな姿になるのをカニ化って言うから」
収斂進化でカニのような姿になった種が複数いるため、カニのような姿に進化する現象にカニ化と言う名前が付いたのだ。
「なるほど」
「タラバガニはヤドカリだから普通のカニと違って前に進むことも出来るんだって」
「へぇ」
智之は頷きながら何気なく目の前のタラバガニの脚の数を数えた。
ハサミを含めても八本しかない……。
「もしかして、これはタラバガニじゃなくて違うカニ?」
カニの脚は十本だった気がするが……。
タラバガニではないカニをヤドカリと言ってしまったのだとしたらウンチク男より恥ずかしい。
「タラバガニの二本の脚は小さくて見えないんだって」
「なんだ」
「探してみていい?」
葉月が目を輝かせて訊ねてきた。
「あ、もちろん」
智之がそう言うと葉月が嬉々としてカニを分解し始める。
「カニは腹部が左右対称だけどタラバガニはヤドカリだから非対称なんだって」
葉月がそう言って取り外したカニの腹部を見せる。
「あ、これが退化した足だね」
外した腹の内側にあった退化した足を指した。
「退化してなければその分たくさん身が食べられたのにね」
葉月が笑顔で言った。
「だね」
智之も笑う。
「あの……魚に詳しいみたいだけど好きなの?」
智之が訊ねた。
カニは魚ではないが。
「魚もだけど……青い水の色を見てると癒される気がして……。ホントは魚の研究したかったんだ」
葉月が答えた。
だが少しでも介護する人の助けになりたいと、介護用ロボットを作る道を選んだのだという。
智之は先輩から訊いたパワードスーツの話をした。
「そうだね。そっちの方が先かもしれないね」
葉月が言った。
どうやらパワードスーツのことも知っているらしい。
「えっと……良かったら帰りにイルミネーション見ていかない?」
智之は話題を変えるように言った。
「あ、渋谷?」
葉月が嬉しそうな顔になる。
渋谷で青一色のイルミネーションをやっているのだ。
「うん。気に入るんじゃないかなと思って」
「行く!」
葉月の言葉に二人は渋谷に向かった。
「青の洞窟っていう名前なのは青い光の下を通るからなのかな」
「イタリアのカプリ島じゃないの?」
「イタリア?」
「島の下に洞窟があるんだって。光の加減か、洞窟の中からだと海の水がすごく青くて綺麗に見えるから青の洞窟って言うみたい」
「へぇ……」
知ったかぶりでマウントを取りたいウンチク男と、知識が豊富で間違いに気付いてしまう葉月では相性が悪いのも無理はない。
葉月が黙っていたからウンチク男の方は彼女が我慢して聞いているだけだとは気付いてなかったようだが。
「実は俺、クリスマスにデートするの初めてなんだ」
「私もだよ」
「またまた」
葉月は可愛いからモテるはずだ。
「お祖母ちゃん寝たきりで遊びに行ったり出来なかったから」
「あ、ごめん」
「気にしないで」
葉月が笑って答える。
「でも、それなら今日は?」
「お祖母ちゃん、三年前に亡くなったから」
「ご、ごめん……」
智之は更に慌てた。
「だから気にしなくていいってば。最初に言ったの私なんだし」
「ありがと」
「水族館、ずっと憧れてたんだ」
葉月が言った。
おそらく今までは介護に追われていて来られなかったのだろう。
「じゃあ、今度、他の水族館も行こうよ。動物園も」
「うん!」
葉月が嬉しそうに頷いた。
よし……!
次の約束も取り付けられた。
智之は心の中でガッツポーズをした。
きっと、いつかは……。
完
参考文献
澤井 悦郎「10年前、マンボウの都市伝説の流行を終息へと導いた名古屋港水族館に突撃取材!」 - LabBRAINS
https://lab-brains.as-1.co.jp/enjoy-learn/2024/08/68559/
「教えて!マンボウ博士!! マンボウの研究者に質問をぶつけまくる会」 - LabBRAINS
https://lab-brains.as-1.co.jp/enjoy-learn/2022/07/36477/