閑話:不平等な対価
愛されることと、その証明。
肌で感じる、彼の血液の、生暖かい感触。
どくどくと血が抜けていくことによって、だんだんと青ざめ、冷たくなっていく彼の身体。
力無く垂れ下がった肢体は、もうすでに彼が手遅れであるという事実を突きつけているかのように、彼女にもたれかかっている。
「はあっ・・・はぁっ・・・!」
息が荒く、辛い。
夢の中にいるはずなのに。
それを、自覚しているはずなのに。
それなのに、彼女は自分の意思でここから抜け出すことは許されず、自分の体さえも動かせない。
「・・・・・」
そして、ある瞬間、彼の身体がより一層重くなって───同時に、ある察しがついた、その時・・・・・
「っ─────」
彼女は目覚めた。
本能に触発され、焦燥のままに上体を起こして。
「がはっ・・・げほっ・・・・・・・・」
荒い息を吐き出し、辛い胸の内を咳として体外に吐き出しながら、彼女はここが現実であるということを認識する。
ぐるぐると思考が巡り、強く頭痛が響く。
せわしなく胸を打ち付ける心臓は、己の身体の内に鼓動を響かせる。
しかし、あの地獄のような夢とは違うのだと、彼女は安堵する。
「は・・・・・ぁっ・・・」
だが、依然として苦しさは変わらない。
まるで心が紐で締め付けられているかのように辛く、可能なら、時間が許すなら───彼女は、今すぐにでも泣き出してしまいたいとすら思っている。
「・・・っ」
でも、そうするわけにはいかない。
虚勢や痩せ我慢の、努力の結晶。
馬鹿みたいな、意識の保ち方。
「・・・・・落ち着いたか」
・・・だからこそ、彼女は心底驚いた。
自分の右耳を、疑いすらした。
だが、間違いはない。
「───グレイア?」
彼の名前を呼ぶ。
幻覚の類ではないだろうかと。
そんな、おおよそ椅子に座って読書をしている仲間の姿に対して抱くべき疑いではない考えを振り払いつつ、彼女は鳩が豆鉄砲をくらった時のような顔をしたまま固まった。
「どうして・・・起きて・・・・・」
口からこぼれ出る、純粋な疑問。
しかし、当のグレイアは彼女の質問が不思議だったのか、きょとんとした表情で固まった。
「お前が言ったんだろ。悪夢を見るって」
「・・・あ」
数秒後、彼があっけらかんと理由を答えたことによって、彼女も自身の言動を思い出して声を漏らす。
そんな、いつもとは様子が違う彼女の姿を、どこか怪訝な眼差しで観察していた彼は、何かを思い出したような素振りを見せてから収納魔法に腕を突っ込む。
すると彼は、収納魔法から氷と水が入ったコップを取り出し、無言で彼女に差し出した。
「・・・?」
「飲みな。汗だくだろ」
「・・・ありがとう」
「ん」
コップを受け取り、中身をゆっくりと口に含む。
グレイアはその様子を怪訝な目つきのまま見つめ続け、ちょうど彼女が中身を飲み終え、一息ついたところで口を開く。
「・・・・・落ち着いたか?」
「・・・うん」
「それはよかった」
ふう、と、彼は小さくため息をついた。
とりあえずは安心・・・ということだろう。
そこから続いて、彼は、ひとつの質問をするために、再び口を開く。
「・・・それで?
一体、どんな悪夢を見たんだ?」
内容によっては、自分がどうにかできるかもしれない・・・と。
そんな淡い期待を込めて、彼は尋ねる。
「・・・・・」
だが、彼女は答えられない。
そして、その理由を、グレイアは察することができていない。
なぜなら、彼は生まれてこの方、自身の記憶に強く刻み込まれるような酷い悪夢を見たことがないうえ───彼の会話を補助してくれる存在であるはずのニアは、すでに深い眠りの中なのだから。
(私は・・・私は・・・・・)
対して、彼女は葛藤する。
(信じていない・・・? グレイアを・・・・・?)
限りない信頼を置いているはずの男が、自身の腕の中で没する悪夢を見てしまったこと。
それは、例え理論的には仕方の無いことだったとしても───理解はできていようと、受け入れることはできない。
(・・・そんなことが)
あの日の、繰り返してはならない過ち。
己の慢心によって死した、かつての親友。
今度こそ失わないようにと決めた彼女の覚悟は、逆に、彼女の思考回路を狭め、蝕んでいる。
「・・・なあ」
「・・・・・っ」
ついに見かねたグレイアからの声かけに、ティアの肩がびくんと跳ねる。
「・・・今、ここには俺たち2人だけじゃない。
こいつが寝てる」
小さなため息の後、彼は自らの脳みそからニアを引き剥がし、浮遊魔法を使ってゆっくりとベッドに寝かせた。
部屋はこんなに重く湿った空気だと言うのに、ニアの寝顔は、とても健やかだ。
「・・・・・夜風にあたりに行こう。
気分転換くらいにはなるだろ」
穏やかな声で彼が言ったのは、ただの、散歩の提案だった。
〇 〇 〇
「・・・なあ、ティア」
静かな夜の空の下、2人は微かに聞こえる虫の音を聴きながら、縁側をゆっくりと歩いていた。
時刻は深夜。
先述した虫の音以外には、床がきしきしと優しく軋む音しか聞こえない。
そんな中、グレイアの口から、単純な質問が投げかけられる。
「お前は、俺の自己証明をどこまで知っている?」
「・・・・・怒ってる?」
いつもと違う、無機質な声色。
先程からの状況や本人の精神状態も相まって、相手の思考がロクに目に入っていないティアは、反射的に彼にとっては的はずれな質問を返してしまう。
すると、彼はぴたりと脚を止め、くるりと振り返ってから、優しげな微笑みを向けて一言。
「俺の思考を見てみな」
瞬間、彼女の背中に、嫌な予感がべっとりと這う。
全身の肌に鳥肌が立ち、今すぐにでも目の前の男の思考を暴かねばならないという衝動に駆られた彼女は、瞬時に彼の思考へ意識を向けた。
「・・・・・」
そんな彼女が目にしたのは、綺麗に羅列された、グレイアに宿る自己証明の内容の数々。
順繰りに、それぞれが本人によって名付けられ、内容とともに読みやすいように並べられている。
だが、この中にただひとつ、彼女にとってはこれ以上ない異彩を放つ能力があった。
「・・・わかったか?」
「・・・・・待って。グレイア、きみは」
「ひとまず、俺を信じろ。
お前が何を見たのかは定かじゃないがな」
焦るティアに、食い気味で言葉を挟むグレイア。
だが、次の瞬間には彼女に笑顔を向け、空を見上げて言う。
「・・・それにしても、今日はいつにも増して月が綺麗だ」
「・・・・・」
「こんなの、贅沢すぎて困るくらいだな」
「・・・・・グレイア」
彼女から発された、やっとのことでひねり出した呼びかけに、彼は答えなかった。
視線を満点の星空に浮かぶ月から、目の前にある澄んだ鏡のような池へと移し、ゆっくりと縁側を降り、ぺたぺたと足音を鳴らしながら軽快に飛び石の上を歩いていく。
その姿は、まるで無邪気な子供のよう。
この池に生き物はいないが、もしいたのであれば───そのまま餌やりでも始めてしまいそうな、そんな雰囲気すら感じさせる。
「・・・・・なあ、ティア」
「・・・っ」
最後の飛び石まできたところで立ち止まり、くるりと振り返ってから彼女を呼ぶグレイア。
呼びかけに応じて彼女が縁側から降りてくるのを見るなり、彼は、ゆっくりと後ろに向かって足を進めはじめた。
池を囲む石を乗り越え、水に浸かり、静かな水音を立てながら池の中心へと向かい、止まる。
そんな彼の姿に釘付けにされたティアを横目に、グレイアは腕を後ろにまわし、これまで取り繕っていた表情を綻ばせてから、迷いなく口を開く。
「俺の初めて、貰ってくれないか」
月明かりの下、静かに揺らめく小さな水面の上で、グレイアは確かにそう言った。
銀色に輝く短い髪を静かに揺らし、慈しみに顔を染め、艶めかしい眼差しで彼女の感情を狂わせる。
「・・・・・は」
他には、何も言葉が出なかった。
先程までの罪悪感は露と消え、彼女に残されたのは、新たに湧いて出てくる心配と困惑。
だが、そんな彼女に構わず、彼は言葉を続ける。
「・・・俺は死なない。
だけど、殺されはする。
だから、もし俺が死ぬってなった時に───その初めてが、見知らぬ誰かさんなのは嫌なんだよ」
それは、心の底からの望みだった。
単なるいち不死者としての、これ以上ないほど贅沢な望み。
「我儘なのはわかってる。
でも、それでも、これはお前にしか頼めない。
お前以外には絶対に頼みたくないことだ」
ぷち、ぷち・・・・・と、グレイアが、その特徴的なノースリーブのワイシャツのボタンを上から順に外していく。
どこか妖艶な雰囲気すら纏う彼は、ついにボタンをすべて外し終え、まるでシルクのように綺麗な肌を露出させる。
「・・・・・」
再び、虫の音のみが木霊する空間が形成された。
その空間の中で、グレイアは手を後ろで組んでティアを待ち、ティアはその場で嫌な汗を流しながら立ち尽くしている。
「・・・・・わかった」
だが、彼女は言った。
震える声で、しかし目線は真っ直ぐに、彼の方を見つめながら。
「・・・やる」
たった一言の決意を皮切りに、ティアはつい先程まで震えていた脚を動かして飛び石を渡る。
先程のグレイアがしていたような軽快さはなくとも、むしろ着実に、しっかりとした足取りで彼の居る池まで歩いていく。
「・・・・・ありがとう」
対するグレイアは、今までにないほど穏やかな声色で心の底からの感謝を口にすると、後ろで組んでいた両腕を前に持ってきて、固有武器を呼び出した。
「─────」
素直な黒い片刃を持ち、唾から柄までが漆黒の結晶が組み合わさったような形をしている、少し長めの短剣。
彼はこの短剣の刃の部分を摘んで持ち、池に入ってきたティアに手渡してから、そっと彼女に問いかける。
「・・・できるな」
「うん」
ティアは彼の確認に頷くと、左手を彼の背中に回してから、右手で短剣を持って胸の真ん中にぴたりと刃を当てた。
それを確認した彼は、右手をそっと彼女の背中に回し、左手を刃の背に添える。
「・・・・・んっ」
2人がそれぞれ力を込めて刃を押し当てることで、皮膚を裂き、骨へと刃を浸透させていく。
ずぷずぷと切れ味の良い刃が胸に浸透していくにつれ、グレイアは痛みに喘ぎ、声を漏らす。
「・・・ふっ、う゛っ・・・・・」
涙を流し、声を抑え、彼女の胸に顔を埋めて耐える。
対する彼女も、目の前で痛みに喘ぐ彼の姿に冷や汗を垂らしながら、ただひたすらにゆっくりと、刃を進めていく。
「っぁ・・・う゛ぅ゛〜〜〜〜〜ッ!」
彼にとっては永遠とも錯覚してしまいそうな時間の後、ついに刃は胸骨体を綺麗に突き抜け、心臓を貫通し、勢いのまま背骨を貫いた。
「〜〜〜〜ぁッ!!!」
グレイアの身体が悲鳴とともにビクンと跳ね、口からは血が垂れ、脚が自重を支えられなくなってガクガクと子鹿のように震える。
刃に添えていた左手は体重を支えるために彼女の後ろへ回して、決してバランスを崩すまいと必死にしがみつく。
「〜〜〜はッ・・・・・はあッ・・・!」
チカチカと天滅する視界、グラグラと揺れる頭、確実に止まった心臓の鼓動。
それら全てが彼の意識を彼方へと連れ去ろうとするが、彼は必死に耐え、息を全力で吐いては吸い込む。
「はあっ・・・はぁっ・・・・・」
少し呼吸が落ち着いてきたところで、彼は必死にしがみついていた両手を離し、上を向いて呼吸が楽になりそうな姿勢を探しつつ、2歩ほど後ろに下がった。
そこで彼は突然、短剣の柄を右手で強く握ると───全力で、それを握り潰す。
すると次の瞬間、短剣はパキパキという不穏な音を立てて崩壊し、かなりの速さで霧散して消失した。
「・・・けほっ」
グレイアはもう既に塞がった傷跡を見ながら、喉に引っかかった血液を取るために乾いた咳を吐き出し、口元に付着した血液を右手の甲で拭う。
そして、手の甲に付着した血液を彼が目視で確認したその時───ぐらりと彼の足元がふらつき、倒れそうになった。
死んで生き返ったとはいえ、どうやら、貧血については直ぐに治るというわけではないらしい。
「グレイア」
「・・・ん」
呼びかけに応え、ばっ、と手を広げた状態で待っているティアに抱きついたグレイア。
心の底から安心できる相手であるためか、力は抜いて、ある程度は彼女の身体に体重を預けている。
さらには優しく頭まで撫でられていて、不本意ながらも満更ではなさそうな様子。
「・・・顔、上げて」
「?」
そんなこんなでグレイアが彼女からの好意を堪能していると、突然、頭を撫でる手が止まった。
彼は頭に疑問符を浮かべながらも、彼女の言葉通りに顔を上に向けてじっと待つ。
すると、彼女の姿勢が少し変わり、彼の身長に合わせるような体勢になったかと思えば───
「ちゅ」
優しく、静かに口づけをした。
「・・・・・ほあ」
突然の出来事に驚くグレイア。
しかし、そこまで顔に出るほどではなかったようで───多少ばかり乱れた息を少し整えると、彼女の首を寄せることで足りない身長を補いながら、顔を近づけてもう一度。
「ん・・・・・」
今度は一瞬ではなく、数秒。
だが、決して深入りはしない、互いに理性的な接吻。
「・・・・・ねえ、グレイア」
2人は口を離すと、互いに見つめ合い、呼吸を交わす。
ここには、2人を邪魔するものは何も無い。
「・・・私は、きみの一番になれた?」
しかし、ただ1つ気がかりなことを───彼の内面に残された、ただ1つの引っかかりを、彼女は解消したかった。
そのためだけに、彼女は、わざとらしく彼を抱き寄せて問う。
「今更だろうに」
だが、依然として、何も問題はない。
何故なら、彼は既に、彼女にとっての不安要素を意図的に記憶から飛ばしているのだから。
「・・・幻滅した相手に向ける感情はない。
俺はもう、ここで生きてるんだ」
他人の感情を乱すだけ乱して、あとは放置で満足して死ぬ。
残される側の心情を、どうやっても取り返せない後悔と懺悔を、同年代の誰よりも味わったことがある彼だからこそ嫌悪する───その、愚行。
「置いていくことはないと誓う。
お前が不安にならないように、悲しまないように」
故に、彼は誓う。
体を張り、示して、不安を消す。
「・・・・・わかった」
全ては、己を愛してくれる彼女のため。
この肌で感じられる温もりを、決して、手放してしまわぬように。
・それぞれの身長
グレイア:147cm
ティア :158cm
ニア :176cm