7-1. 東風吹かば
眼下を埋め尽くすのは、満開の梅の花。紅や白や桃色の鮮やかな花が咲き乱れ、どこか遠くからメジロのさえずる声が聞こえてくる。やっぱり総本宮の名は伊達じゃない、この光景は何度見ても見事でため息が出る。日本有数の梅の名所と謳われるだけのことはあるな。
総本宮の本殿には限られたごくわずかな人間以外は立ち入ることができないようになっていて、その一部の人間たちも普段は滅多にここへ来ない。総本宮の人間や参拝客が行き来している拝殿と幣殿が建っている場所から少し離れた小高い土地にあり、この本殿の中にある庭に渡された渡り廊下からは、庭の遥か向こうに総本宮全体の景色を一望できる。
色とりどりの梅の花たちのその向こうには、澄んだ蒼穹がどこまでも果てることなく続いている。見たことないけど、きっと天国ってこんな景色なんじゃないかと思う。リンも今頃、こんな景色を見ているんだろうか。あいつは梅の花が大好きだったから、きっとはしゃいでいるんだろうな。
渡り廊下の手すりに腰掛け、手に持っていた紙の包みをそっと開く。中にあるたい焼きは少し冷めてきている。神様の目を盗んで、さっき町に下りて買ってきたものだった。頭の部分を少しだけかじってみると、まだあんこに到達しないまま噛み切ってしまった。
『いらないなら返して。私が食べるから』
あの日のことを思い出す。悠子と初めて言葉を交わしたあの時、悠子にもらったたい焼きには頭から尻尾まで隙間なくあんこがぎっしりと詰まっていた。
小さくため息をついて黙々とたい焼きを食べ終えると、包みをくしゃりと握りつぶしてケツのポケットに突っ込んだ。ここは食うには困らないし、あの町で過ごした百五十年みたいに空腹で死にそうになるなんてこととは無縁の日々を送っている。それでもいつも俺はただ腹を満たすだけで、飯を食ったという実感がまるでない。どんなに美味い食事を出されても、美味いと思うことがない。
(……悠子が作った鍋、食いたいなあ)
冷凍した肉と野菜をそのまま煮込んだだけの、あの美味くもない味気もない鍋が、何故だか無性に懐かしくてたまらなかった。
ここと拝殿を繋ぐ渡り廊下の出入り口から、三人の神使が出てきた。俺のいる庭の渡り廊下とは反対方向へ向かう途中みたいだったけど、出てきたところで三人とも俺に気付いて小さく会釈する。俺も軽く頭だけを下げて、それ以上は何も言わずにまた梅の景色に視線を戻した。
遠ざかっていく気配に混じって、クスクスと小馬鹿にしたような小さな笑い声が聞こえてくる。
「あいつだろ? あの辺鄙なとこにあった分社が燃えてから、百五十年も人間の女にたかって生活してたっていう……」
「すげーよなあ、よく戻ってこられたよな。ここ総本宮だぜ? 羞恥心とか自尊心とかないのかね。心臓に毛でも生えてんじゃねえの」
「ないだろ、そんなもの。人間と交尾できるくらいだし、頭ん中空っぽなんだよきっと」
もう慣れっこだった。こっちに戻ってきてから他の神使と一切打ち解けようとしない俺を快く思っていない奴の方が圧倒的に多いということも、そもそもここの神使たちは最初から俺を受け入れる気などないということも、誰かに言われたわけではないけど、言われるよりもはっきりと肌で感じ取れる。俺は聞こえていないふりをして、ただメジロのさえずりに耳を澄ませた。
その時、あいつらが去って行った方から雷が落ちたような轟音が響いてきた。びっくりして振り向くと、本殿の手すりが一部分だけ真っ黒に焼け焦げて煙を上げていて、そのすぐ横にはさっきの三人が腰を抜かして座り込んでいる。そいつらが見上げる先には、神様が立っていた。
「ひっ……」
「か、神様!? あっ、あの、今のは失言で……」
恐怖で上擦った声を上げる神使を見下ろしている神様の目には光がない。
「口を慎め、ここをどこだと思っている。いくら格の高い神使であろうと、心が下卑ているような輩はここには置いておけんぞ」
神使たちは謝罪の言葉を何度も繰り返しながら、あわててその場から走り去って行った。
「……」
目が合ってしまう。仕方なくまた梅の景色の方へ向き直っても、背後から神様がこっちへ歩いてくる気配は感じ取れた。
「ロン」
落ち着き払った低い声で呼ばれ、はあとため息をつく。
「あんまり気安く呼ばないでくれる?」
「仕方ないだろう、ここだけで何人の神使が生活していると思ってるんだ」
さっきのあいつらが走って行った方をちらりと見て、また視線を戻す。
「あんなの、ほっときゃいいのにさ。言いたい奴には言わせとけばいいんだよ」
「総本宮にいる神使の素行や品位は民の信仰心にも大きく影響する。放置するわけにはいかん」
「じゃあ、俺みたいなのをここに置いとくのがいちばんヤバいんじゃないの? 下手したら国が傾くよ」
神様は何も言わず、俺から少し離れたところで手すりに手をかけて梅の景色を眺めていた。
「何か用? 説教なら後でまとめて聞くから、今は一人にしてよ」
微かに土の匂いを含んだ風が吹いてきて、俺の髪を揺らして去って行く。そう言えばこっちに戻ってきてから、神様とちゃんと話をしたことはなかったな。いろいろ話したいことも話すべきこともあったんだけど、神様は俺と違っていつも忙しそうで、まとまった時間をとって俺と話すこともないまま今日まできてしまった。
「いつまでそうしているつもりだ?」
唐突に聞かれて、答えに詰まる。手すりに片足を立てて、その膝の上で指先を無意味にくるくると回した。
「……なんだよ」
「そうやってグズグズしている時間はないはずだ。貴様も分かっているんだろう、どうすべきか」
「……」
悠子のことを言っているんだろう。
「あの時俺が言ったこと、貴様は全く理解していないようだな」
「分かってるよ、ちゃんと」
『貴様はこれからただ生きればいいというわけではない、幸せに生きなければならないんだ』
あの時神様に言われた言葉は、今も一言一句はっきりと俺の記憶に残っている。きっと生涯忘れることはないだろう。
「でもな神様、人の世では、自分だけのために生きることなんてできないんだよ。自分にとっての幸福が他の誰かの幸福なら、手を離さないといけないこともある。どんなに欲しくても、手に入らないものもあるんだ」
悠子の隣で初めて知った幸福は、いつかきっと悠子を不幸にする。悠子がどう思うかじゃなくて、俺はただそれが怖かった。本当はそんなこと分かってたけど、そんな理由で手を離してしまった自分を受け入れるのは容易なことではなくて、悠子のためだったと言い聞かせてきた。
「はっ、笑わせるな。悠子様にとって何が幸福かなど、悠子様にしか分からん。神である俺にも分からんのだ。それが、一介の狐に過ぎない貴様に分かるのか」
「悠子にも同じこと言われたよ」
「結局貴様は、悠子様の幸福という言葉を盾にして、悠子様を失う怖さから逃げ出してきただけだろう」
「……ああ、そうだよ」
全くもってそのとおりだ。返す言葉もない。俺は逃げてきたんだ。
悠子と一緒にいたい、離したくない、俺のその願いが、いつか悠子を不幸にする。そんなの俺には堪えられない。自分にとっての幸福が大切な人の不幸になるくらいなら死んだ方がマシだ。
「何百年も生きたって、何の意味もないのにな。悠子がいないのに」
生きることに意味なんてないと思ってるけど、悠子と一緒に過ごしたあの数か月間、俺の生きる意味は確かにあった。意味なんてそのくらい曖昧で頼りないものなんだろうけど、あるのとないのとでは全く違う。そして、そんな曖昧で頼りないものこそが、他の何よりも自分を勇気づけてくれたり、背中を押してくれたりするものなんだろう。誰しも独りでは生きていけないから。
「ただの狐風情が、あと何百年もここで生きるつもりか。なんとまあ厚かましい」
「え?」
呆れたようにため息交じりに呟かれたその言葉に、つい神様の方へ顔を向けてしまう。
「現世にいた時間が長過ぎた。貴様にはもう、神の眷属としての徳がほとんどないに等しい。もともと神使としても素養はなかったしな」
「……何が言いたいんだよ」
「限りなく人に近い存在になっているんだ。自分でも分かるだろう」
神様は視線だけをこっちに向けた。
「今の貴様の居場所は、ここではない」
「……」
「俺の使いとしての自覚がまだ少しでも残っているのなら、どうすべきか自分で考えろ。貴様を本当に必要としている人が、何をもって幸せだと思うのか」
「俺だって分かってるよ。だけど、どうすることもできないんだよ。俺は人間じゃない」
「だからどうした」
「どうした、って……」
膝の上でぎゅっと手を握りしめる。頭の中がぐちゃぐちゃしてきて、どうすべきかなんて考えられる状態ではない。
「貴様は人になりたいのか」
そんな夢みたいなことが起こるわけがないだろ。どんなに願ったって、叶わないものは叶わない。絵本の中じゃないんだし、現実に起こせることと起こせないことの分別くらい俺にだってついている。
でも、願うだけなら自由だ。叶える必要はないんだから。
小さく頷くと、神様は右手を自分の胸の前に差し出して手のひらを上に向けた。何もない空間に薄い靄がふわりと立ち込め、その中から部屋に置いてきたはずの俺の狐面が現れる。あっけにとられて見ていると、神様はそれを手に取って俺に差し出してきた。
「これを割れ」
いきなり何を言い出すんだ。
「な……割れるわけないだろ。神通力で割れないようになってるし」
リンの狐面があの大火を耐えられただけではなく百五十年も風化せず形を保っていられたように、俺の狐面も割ろうと思ってそう簡単に割れるものではない。岩に叩きつけたってヒビひとつ入らなかったのをいつか実際に試してみて、神様にとても口では言えないような言葉で三日三晩なじられたことがある。
「この狐面にはもうほとんど貴様の神通力は残っていない、今なら容易く割れるはずだ。これを割れば、貴様はただの人になる。記憶や次元に干渉する能力も失うし、寿命も人と同じになる。それに従って肉体も老いるようになる」
今までそんな話は一度も聞いたことがない。それをどうしてずっと教えてくれなかったのかとは思ったけど、文句を言うのも忘れて俺はぼんやりと聞き返した。
「年を……とれるのか」
「そうだ」
「悠子と、一緒に……」
「貴様の神使としての寿命と引き換えだ。これからを全て捨てるだけの覚悟が、貴様にあるなら」
まるで夢の中にいるように実感がない。靄の中を漂うような気分のまま、狐面を受け取った。
『悠子と一緒に、年をとりたい』
それはずっと、俺の願いだった。俺の夢だった。
だけどそんなこと叶うはずがないのが分かってたから、あの時は素直に言葉にできたのかもしれない。それがただの夢ではなく、実現するのが可能なことだと知った今、俺の中にあるのは喜びではなくて迷いだった。自分の中の本懐を遂げる術を目の前にした時、迷いもためらいもなく手を伸ばすことができる人はいるのだろうか。きっとほとんどの奴が迷い、すぐには決断できないと思う。
「どうした」
狐面を持ったままじっとそれを見ている俺を、神様は少し怪訝そうな顔で覗き込んでくる。夢を叶えることに迷いを感じている今の俺はきっと、情けない顔をしてる。その顔を神様に見られたくなくて、俺は手すりの上で膝を抱え、そこに顔を伏せて隠した。
「……今更帰ったって、悠子はもう俺のことなんか覚えてないかもしれない。他の誰かと一緒になって、幸せに暮らしてるかもしれない」
人間の女はほとんどみんなそうだった。俺と一緒にいる時はどんなに『私にはあなたしかいない』って言ってくれても、俺と別れるとあっさりと他の誰かのところへ行ってしまう。それを非難するつもりはない、むしろその方がいいことだと思っている。人生は長いのだから、たった一人の男にいつまでも拘り続けるのはあまりにもナンセンスだ。
だけど、もし悠子がそうだったらと思うと、どうしてこんなにも不安でたまらないんだろう。俺を好きだと、他の誰にも代わりはできないと言ってくれたあの時の悠子の気持ちが、今はもうどこにもないとしたら。そんなことを考えるだけで、不安で、怖くて、泣きたくてどうしようもなくなる。あまりに身勝手な気持ちだって分かってるけど、理屈で気持ちを納得させることはどうしてもできなくて、だから怖いんだ。
「貴様は悠子様のお側にいた間、一体何を見てきたんだ」
膝に顔を埋めてまるで泣いているような格好の俺をよそに、神様の声はやっぱり落ち着いている。そっと顔を上げると、神様は梅の景色の向こう、蒼穹の遥か彼方を眼鏡越しにじっと見つめていた。
「……え?」
「聞き方を変えよう。貴様は、予め用意された幸福や保証された未来でないと飛び込めないのか?」
「……そんなの、誰だって同じだろ。どうなるか分からないものに飛び込めるほど、もう子供じゃない」
「たわけが、いい加減にしろ。未来がどうなるかなど誰にも分からん。俺でも分からんのだからな。それでも人は皆、そこに飛び込んでいくしかないのだ。何もしないでこの場所に留まっていたら、永久に何も変わらない、それだけは確実だからな」
「……」
『今あんたをほっといたら、きっと私は後悔するの。後悔するのが分かってるのに、来るか来ないかも分からないような自分の将来のためにあんたをこのまま放り出すことなんてできない』
あの時、悠子はどんな気持ちであんなことを言ったんだろう。ゴミ捨てに落ちていたような得体の知れないこんなクズを拾って面倒をみるなんて、まともな頭をした結婚適齢期の女がすることとは思えない。そんなの悠子も分かっていたはずなのに、それでも悠子は俺を拾ってくれた。自分が不幸になるのを分かっていながら、それでも俺との生活を選んでくれたあいつは、この先の未来にほんの少しの不安も抱いていなかったんだろうか。そんなはずがない、きっと悠子も不安だったに違いない。それでも俺と一緒にいてくれた悠子を思うと、俺は尚更踏み出すのを躊躇してしまう。
「悠子が俺のこと忘れてるなら、それはそれでいいと思う。でも、もしまだ覚えてて、俺にまた会う日がくるのを待ってたらって思うと、俺は……」
「なんだ」
また膝に顔を伏せる。今度は涙が出そうになるのを堪えるためだ。
「怖いんだよ。何かを自分で決めたり、どっちにするかを選んだり……そんなこと、俺がしていいのかって。俺にそんな資格があるのかって。他の誰かを巻き込むような決断なら尚更だ。俺が誰かの人生に関わるのかと思うと、怖くて仕方ない。またリンみたいに不幸な目に遭わせるかもしれない、幸せにはできないかもしれない。死ぬ時に後悔されるかもしれない。そんなの嫌だ。俺は、悠子が不幸になる理由になるなんて堪えられない」
こんなに自分が憶病な奴だったということを、俺は悠子を好きになって初めて知った。自分はもっと強い心を持っていると思っていたけど、本当はそうじゃなくて、とても弱い男だったんだと。
「だから……俺が決めていいことなのか、分からない」
「他に誰が決めるんだ?」
胸の奥を貫かれたような気分だった。頭の後ろがぐらぐらして、顔を起こすことができない。
「自分のことを自分で決めずに、誰が決めると言うんだ。俺は貴様の人生に責任など持てない。誰が何と言おうと、貴様が決めるしかないんだ。自分で考えろ。誰かに聞くな」
それは決して突き放すような言い方でも諭すような言い方でもなくて、ただそこには揺るぎない信念にも似たようなものを感じた。のろのろと顔を上げると、いつの間にか神様はこっちに身体ごと向けて立っている。俺を見つめる眼鏡の奥の目には、一点の曇りもなかった。
「生きるとはそういうことだ。今の自分が選んだ答えの連続で道は続いていく。だから、自分で決断するしかないのだ。たとえ結末が不幸な終わり方だったとしても、それは選んだ後にどう行動したかで決まることであって、今の段階で考慮すべきことではない」
無意識のうちに、狐面を持つ指にぎゅっと力が入る。
「不幸な目に遭わせるかもしれない? 幸せにはできないかもしれない? そんなことを憂いている暇があるなら、そうさせないためにはどうしたらいいかを真剣に考えろ。生命には限りがあるのだから、くだらないことを思い悩んでいる暇などない」
そうか。俺が決めるしかないんだ。
神様でも、悠子でもなくて、ただ俺がどうしたいか。
『あんたがどうしたいか、それだけ考えればいいんだよ。私がどう思うかなんて考えないで』
悠子もいつかそう言ってくれた。
人の顔色を窺ってばかりの俺を、そのせいで道を見失っていた俺を、あの時の悠子の言葉が救ってくれた。
俺にはそんな資格はないと、何かを選んだり何かを切り捨てたりするようなことができる立場ではないと、ずっと思っていた。でもそれは俺の怠慢でしかなく、俺の進むべき道は他でもない俺が選ぶしかないのだと悠子は教えてくれたんだ。
「神様」
「なんだ」
「今まで、ありがとう。……本当に」
「毎年、正月くらいは顔を見せに来いよ。今まで俺に散々迷惑をかけてきた自覚があるのなら、の話だがな」
「りょーかい」
神様は今まで見たこともない、嬉しそうな笑顔で笑った。
微かに土の匂いを含んだ風が吹いている。その風にひらひらと梅の花びらが舞っていて、俺は長い冬が終わったことを知った。




