6-5. 悠久の春
閉じた引き戸の隙間から漏れる日の光が、部屋の片隅を白く照らし出している。薄暗い部屋の中、そこだけがまるで別世界への入り口のように見えた。
「ん……」
その光をぼんやりと眺めていると、すぐ後ろで布団がもぞもぞと動いた。寝返りを打ってそっちを向き、布団の中にまた潜り込む。薄暗い布団の中には、悠子の匂いと俺の匂いが満ちている。寝ぼけたように虚ろな目で俺を見ている悠子の頬にそっと唇で触れた。
「おはよ」
「……はよ」
ほのかに頬を赤くして、悠子は俺から目を逸らしてしまう。
昨夜、俺と悠子はただ寄り添って一緒に眠った。今まで悠子の部屋に泊まったことは一度もないし、悠子をこの社の中に上げたのはこれが初めてだったから、二人きりで夜を共にしたのは初めてだ。自分でもまだ信じられないけど、手は出していない。もっとも、悠子はその覚悟でいてくれてたみたいだったけど。
『そんな緊張しなくて平気だって。今日はしないよ、何も』
『……え』
『やっぱりさ、初めてって大事なもんだと思うよ。だから今はしない』
『今……は?』
『うん。また今度な』
また今度なんて来ないこと、分かってた。だから、俺が悠子を抱くわけにはいかなかったんだ。
一生一緒になれないことが分かってる相手に大事な初めてをあげてしまうのは、悠子にとっていいことだとは思えない。たとえ悠子がどう思っていたとしても、俺は俺なりに悠子のことを大切に思っているし、大切にしたいからそうしたんだ。
今までいろんな人間の女を見てきたから、女という生き物がとても強かでドライな性分をしているということは知っているけど、それでも俺は悠子のこれからの人生を邪魔したくはない。男の自己満足極まりない考えだとは分かってるけど、悠子みたいに処女を長年守ってきてしまった女にとっては特に、初めての相手というのは特別なものだ。悠子にとってその特別な相手に、俺がなってしまうわけにはいかない。
「……いま何時?」
まだ眠たそうな声で聞かれて、はっとした。
「あ、今日って月曜だっけ……会社に電話してないよな」
「祝日だよ、今日」
「そうなんだ?」
生まれた時からずっと毎日が日曜日だったから、曜日はもちろん国民の祝日なんて概念自体が俺にはない。悠子と暮らすようになってからは曜日にも気を配るようになったけど、まだどうにも慣れていない。
とりあえず、まだ悠子はここにいていいってことか。ほっとしてため息をつくと、悠子は俺の腕の中からもそもそと芋虫みたいに抜け出して布団の外へ出た。布団に残った残り香と温もりに後ろ髪を引かれながらも、俺も身体を起こして布団から出る。
「寒いけど、開けていいか」
「うん」
そっと立ち上がって縁側の引き戸を開ける。もうずいぶん日が高いところにあって、その眩しさに目を細めた。想像していたよりも外は寒くなかったけど、それでも布団から出たばかりの身体にはやっぱり冷たくて思わず身震いしてしまう。
目の前に広がる狭い裏庭の真ん中では、満開の梅の花が太陽の光の中で凛とした紅い色を放っていた。
「……綺麗」
縁側に座っていた悠子が、ほうとため息をついた。どこからか飛んできた一羽のメジロが枝にとまり、梅の花びらをくちばしでちょんちょんとつついている。その愛らしい仕草につい頬が緩んでしまい、俺と悠子はしばらく何も言わずにその夢のような光景に見入っていた。
「悠子」
「ん?」
「俺さ、この神社を出ようと思う」
悠子がこっちを向いたのが分かる。
「いいの?」
メジロから目を離さずに、小さく頷く。
「うん。俺にはもう、必要ないよ」
不意にメジロは枝から飛び立ち、蒼穹の彼方へと小さくなっていき、やがて見えなくなった。
「作りものの思い出なんかなくたって、この神社は俺の記憶の中にちゃんとあるから。……もう、大丈夫」
一言一句を噛みしめるようにゆっくりと言葉にする。俺の気持ちが伝わったのか、悠子は何も言わなかった。
なんて長い、長い時間だったんだろう。永遠に続くのかと思うほど長い時間を過ごしたここを離れるのだから、不安がないと言ったら嘘になる。たとえ俺の記憶から生まれた作りものだったとしても、ここで過ごした百五十年分の愛着くらいはあるし、寂しくないわけがない。ここを離れる、と頭で考えただけで、心の中心に大きな穴がぽっかりと空いてしまったような喪失感が押し寄せてきて、胸が苦しくなる。
作りものだったけど、この百五十年間ここは確かに俺の家だったんだな。大切な思い出の詰まった、大切な家だったんだ。
今なら悠子の気持ちが少しだけ分かるような気がする。大切な家を失ってしまった時、悠子もきっとこんなふうに寂しかったんだろう。
悠子の方に向き直り、俺はそっと息を吸い込んだ。
「俺、帰るよ。総本宮に」
悠子は何も言わなかった。
「今まで世話になったな」
重ねた俺の言葉を遮るように、悠子がすっと立ち上がる。信じられないものでも見るようなその瞳が揺れていて、俺は少しだけ自分の決断を後悔していた。
「どうして? これからは私のところで住めばいいじゃない。狭いのが嫌なら、もっと広い部屋を探して……」
「そうじゃないよ」
きっとその瞬間は、ものすごく緊張して声が震えると思っていた。それなのに今の俺は不思議と落ち着いていて、心の中は穏やかに凪いでいる海のようだった。
「悠子が好きだよ。だから帰るんだ」
「……」
やっぱり悠子は何も言わない。
「俺は人間じゃない。俺がそばにいなければ、悠子は普通の人間として幸せな人生を全うできるだろ。他の誰かと一緒になって、一緒に年をとって……」
「そんなの幸せじゃないよ」
俺の言葉を途中で遮った悠子の声は落ち着いていたけど、その表情は今にも泣き出しそうだった。
「……勝手に、決めないで」
震える悠子の指が俺の胸倉を掴み、頼りなく握りしめられる。俺は抵抗することもなく、ただされるがままになっていた。
「あんたなしの幸せなんて、私には考えられないんだよ」
「俺のことは、忘れて」
「……やだ」
「悠子には幸せになってほしいんだ、俺」
「やめてよ! ……どうして、そんなこと言うの?」
悠子は俺の胸に額を押しつけて、悲痛な声で叫ぶように言った。
「俺のこと離さないでって、昨日言ってたじゃない! 私は絶対にあんたを離さないから!」
「うん。そうだな」
「私の人生なんだから、私がやりたいようにやる。結婚しないのも苦労するのも私の自由だって、前に言ったでしょ。あんたを忘れないで不幸になるのも、私の勝手だよ。あんたにどうこう言われる筋合い……ない」
言葉の最後は嗚咽になって、声にはならなかった。そっと手を上げて悠子を抱きしめ、胸の中でその髪をゆっくりと撫でる。
「ありがとう、悠子」
ひっく、ひっくと、しゃくりあげる声だけが返ってくる。俺も悠子と一緒になって泣きたかったけど、何故か涙が出てこない。自分でも驚くほど心は穏やかで、それがとても寂しかった。
悠子と二人で年をとりたかった。悠子と二人で幸せになりたかった。
俺の願いはそれだけだったけど、絶対に叶わないことも知っている。
叶わないからこそ、願わずにはいられないんだろう。憧れずにはいられないんだろう。
俺と悠子を結ぶ紐は、あまりにも細くて、もろくて、頼りない。少し軽く引っ張っただけで簡単に切れてしまいそうなほど。だから、今までなるべく触らないようにしてきた。切れないように、壊さないように。
悠子と一緒にいる時間が増えれば、その紐はもっと太く、強くなるんだろうかと思っていた時もあったけど、紐はいつまで経っても相変わらず細くて頼りないままで、俺はいつからか心の奥で諦めてしまっていたのだろう。
俺と比べると人間たちの命はあまりに短くて、特別な関係を人間との間に築くことなんて無理だと思っていた。それでも悠子は俺にとって確かに特別で、悠子もきっと俺をそう思ってくれている。だからもう、それだけで満足しなくてはいけないんだ。これ以上を望むことは、俺には許されない。
視界の端で、庭の梅の木が風に揺れている。そっと梅の木に目を向けると、穏やかな陽射しの中で優しく揺れる紅い花に目がくらみそうになった。それは今まで見たこともないほど、幸福な色をしている。
「総本宮の境内には、梅の木が何本もあるんだよ。ちょうど今くらいの時期になると、梅の花が満開になってすごく綺麗なんだ。って言っても俺、数えるくらいしか見たことないけど。それでも忘れられないくらい綺麗な景色だったよ」
目を閉じると、いつか見た梅の花で埋め尽くされた総本宮の光景が蘇ってくる。リンと神様と俺で見上げた春の空と、紅や白や桃色の梅の花。今までほとんど思い出すこともなかったのに、その光景はまるでついさっき見てきたように鮮やかだった。
「悠子にも見せたかった」
そんなことができたら、どんなに幸せだろう。悠子と二人、手を繋いで、あの夢のような景色の中を歩けたら。
そっと胸から悠子を離すと、悠子の目の周りは泣きすぎて赤くなっている。また零れ落ちた涙を指先で拭うとその涙は温かく、まるで春の陽射しのように俺の心を柔らかく包んでくれた。
俺、今ちゃんと笑えてるかな?
いつか悠子が俺のことを思い出した時、俺はちゃんと悠子の記憶の中で笑っていられるだろうか。
「春がきたら、俺のこと思い出して。桜もいいけど、梅の花も見て……それで、思い出して。ああ、そう言えばあんな奴いたなーって。時々でいいから」
堰を切ったように、悠子は泣き出した。
「あはは。悠子、泣きすぎ」
「……あんたは、どうして……笑えるの」
ほとんど掠れて声にならないその声ごと、また俺の腕の中に閉じ込める。
よかった。ちゃんと笑えてたみたいだ。
泣いてる顔なんて思い出してほしくないから、いつも笑ってる俺を思い出してほしいから。
悠子が俺を思い出す時はいつでも、幸福な気持ちと一緒に思い出してほしい。
「俺は忘れないよ。悠子のことも、ここで悠子と暮らした幸せな時間も。本当に、幸せな毎日だった」
ずっと言いたかった。悠子の隣で俺は幸せだったって。
目に見える幸福があることを、そこにある幸せを大切に思う気持ちを、生まれて初めて悠子の隣で知ったんだ。全部、悠子が俺に教えてくれたことだ。
「もし悠子が忘れても、俺は忘れない。だから、大丈夫」
俺がいくら拭っても後から後から零れ落ちてくる悠子の涙が、その唇を濡らしている。また悠子の目から溢れて零れ落ちてきた涙をすくいとるように、そっと唇で触れた。
時間が止まってしまえばいいのに。
明日なんか来なければいいのに。
使い古された言い方かもしれないけど、本当にそう思うことがあるんだな。
いつまでもこのままで、終わらない春の中に悠子と一緒にいられたら。
「悠子って、いい名前だな」
ふと、そんなことを考えていた。終わらない、いつまでも続く、永久の。そんな長い長い幸せに恵まれるようにと、悠子の両親はその名前をつけたのだろう。そこにどれだけの深い願いが込められているのか、俺にも分かるような気がする。
変わらないものなんて、いつまでも終わることなく続くものなんて、この世にはないと思っていた。でもきっと、俺の中に確かにあるこの気持ちは、いつまでも終わることなく続いていくだろう。悠子の隣で生まれて初めて知った永遠を、俺はきっと忘れない。
「あんたの名前……まだ聞いてない」
「もしいつかまた会えたら、その時に教えるよ」
いつかなんて来ないこと、分かってる。
悠子の頬に触れて、その温もりを、その柔らかさを、生涯忘れないようにと自分の感覚に刻みつけた。頬だけじゃない、目も、鼻も、唇も、髪も、指の細さも、何もかも忘れない。
笑った顔も、怒った顔も、照れた顔も、泣いた顔も、その全てが大切で愛おしい、大好きな悠子。
こんな気持ちを俺に教えてくれて、本当にありがとう。
「さよなら、悠子」
胸の内を何もかも打ち明けてから別れようと思っていたのに、最後にひとつだけ、どうしても言えなかった。
俺のこと忘れないで。




