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狐の恩返し  作者: 養生
第6章 悠久の春
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6-2. 夢幻

 あの日から、俺はあの大火の記憶を再現したことはない。そんな勇気はなかった。あの光景をまた目の当たりにしたら、きっと正気を保ってはいられなくなるのが分かっていた。

 そうやって触れないようにして、思い出さないようにして、いつか時間があの記憶を俺の中から消し去ってくれるのをずっと待っていた。だけど、何故かあの記憶は時間が経てば経つほど鮮やかになっていく。頭の中から追い出そうとすればするほど、あの時のリンの声が耳の奥から離れない。目を瞑り、耳を塞いで、誰もいない深夜の社の中でたった一人、何度も何度も繰り返しながら眠りについた。

 どうすることもできなかった。

 あいつが死んだのは俺のせいじゃない。

 繰り返し、繰り返し、何度も、何度も。あまりに何度も繰り返したせいかその言葉はいつか意味を失い、もはや今の俺の中ではただの言葉の羅列でしかなくなっている。それでも俺は、自分に言い聞かせるのをやめなかった。

 どうすることもできなかった、と。


 朱色の紐を指先でするりと解き、狐面を顔から外す。

「……分かったか。今のが事実だよ」

 悠子は呆けたようにそこに突っ立っている。いつの間にか、その少し後ろにリンの狐面を手に持った神様もいた。どうやら悠子だけではなく、神様にも記憶の再現を見られてしまったらしい。ちらりとそっちを見ると、神様は相変わらずの険しい表情で俺を見ている。

「あいつはあの時逃げ遅れたんじゃなくて、俺が手を離したから死んだんだ」

 まださっきの記憶の片鱗が抜け切れていないのか、狐面を持つ指が微かに震えている。百五十年ぶりに見たあの光景は、俺の記憶の中のそれと寸分違わなかった。そっと縁側に自分の狐面を置いた時、震える指から滑り落してしまいごとりと音を立てた。

「俺には生きている価値がない。生きてるけど、死んでるのと同じだ」


 あの日から誰にも、神様にも言えなかった、俺のしたこと。

 リンを火の中に置き去りにして逃げてきただけではなく、俺のせいではないと自分に言い聞かせながら百五十年もあの場所に閉じこもっていた。

 こんな俺を軽蔑しない奴なんて、いるはずがない。

 だからずっと誰にも言えなかった。神様にも、悠子にも。こんなこと打ち明けてしまったらきっと、誰も俺の隣にはいてくれない。こんな無価値な俺の隣にいてくれる奴なんているはずがないって、分かっていたから。


「……呆れたな。今のが貴様の閉じこもっていた理由か?」

 不意に、神様の低い声が庭を渡ってきた。そっちに向き直ると、神様は手の中のリンの狐面をじっと見つめている。

「リンを救えなかったことに対して負い目を感じているのかと今まで思っていたが、まさかリンの死が自分のせいだなどと思っていたとはな。ここまで救いようのない阿呆だったとは」

「……何だよ」

 胸の奥が粟立つように気分が悪い。

「いい加減にしろ。いつまでそうやって自分の妄想に浸っている気だ」

 妄想?

 今のは実際にあった出来事で、妄想なんかじゃない。

 眉をひそめてその眼鏡の奥の目を見ていると、神様は悠子の横をすり抜けて俺の前に歩み出た。

「誰かに話せばそれで許されると思っていたのか?」


 全身の血が逆流したようで、呼吸ができない。息を吐き出そうとしても、喉の奥が何故か震えて上手くいかない。

 ダメだ。何か言わないと。否定しないと。認めるわけにはいかないのだ。


「違う」

 絞り出したような声がやっと出てきた。背中を冷たい熱がまとわりつき、不快でたまらない。この内心の動揺を悟られまいと必死になっている俺とは対照的に、神様は無表情でただ俺を見ている。

「どうしようもなかったとか、貴様が悪いわけではないとか、他の誰かにそう言ってもらえれば、貴様はそれで気が晴れるのか?」

「違うって言ってんだろ!」

 俺たちから少し離れたところで、悠子がビクッと肩を震わせたのが見える。青ざめた顔をした悠子をなるべく視界に入れないように、俺は神様に詰め寄った。

「どうすることもできなかったんだよ! 俺だってそんなこと分かってんだよ! 誰が許すとか許さないの話じゃない、だけど……だからって、何もしないで俺だけのうのうと生きていけって言うのかよ!?」

 今にも掴みかからんばかりの俺を前にしても、神様は微動だにしない。自分の中のとてつもなく深い深い場所から、今までずっと抑え込んでいた昏いものがゆっくりと浮かび上がってくるのが分かる。

「リンは死んだんだぞ!? 俺は生きてるのに! あの時、俺が……手を、離したから」

「それがどうした」

「……っ」

 もはや何かを思考する力など、俺の中には欠片も残っていなかった。

 左手が神様の胸倉を掴んだことに気付いた次の瞬間、右手に激しい痛みが走る。俺に殴り飛ばされた神様はその場にくずおれ、眼鏡が外れて地面にカシャンと音を立てて転がった。俺はすぐさま神様の身体に馬乗りになって、その襟を力任せにぐいと掴んだ。


「お前に……お前に、何が分かる! あの時あの場にいなかったお前に、俺がこの百五十年どんな思いで生きてきたかなんて分かってたまるか! 神様だ何だって人間たちから崇め奉られてるくせに、自分の使い一人守れなかった役立たずが、何が神様だ! ふざけるな!」


 また殴りかかろうとした時、後ろから誰かが俺を抱きしめた。はっとして振り向くと、いつの間にか悠子がそこにいる。

「離せ! 離せよ!」

 振り解こうとしても、悠子は渾身の力で俺にしがみついて離そうとしない。何も言わず、ただ目をぎゅっと瞑って何度も首を横に振っている。

 俺の下で神様はぽかんとして悠子を見ていた。

「……チッ」

 掴んでいた神様の襟元を突き飛ばして離すと、悠子はようやく目を開けて俺から手を離した。立ち上がって二人から離れ、まるで縋るように梅の木に歩み寄る。まだ暴れるように脈打っている心臓をどうにか落ち着かせようと、さっき神様を殴った方の手で梅の木に触れた。指の付け根が赤く腫れ上がり、ところどころ血が滲んでいる。俺の色素の薄い手の中でその血液の赤はひどく鮮やかで、まるで狐面の化粧のようだと思った。

 自分の手をぼんやりと眺めていると、隣に悠子が立つ気配がする。それでも俺はそっちを見ようとせず、ただ黙って自分の呼吸に意識を集中していた。寒さのせいか、それとも別の理由なのか分からないけど、梅の木に重ねた俺の手はさっきから微かに震えていて、それが悠子に見られているかもしれないと思っても不思議と隠す気にはならない。乱れた呼吸がゆっくりと少しずつ落ち着いてきて、はあと息を深く吐き出した時、隣で悠子が身じろぎしたのが分かった。

「どうしようもなかったのよ、あんたが悪いわけじゃない」

 囁くように静かな声が、俺の耳に染み入ってくる。

「でも、あんたを許せるのはあんただけだよ」

「……え」

 隣を見下ろす。悠子はずっと俺を見ていた。

「誰もあんたを責めてないのに、あんたはずっと一人でこの神社に閉じこもってたんでしょ。時間は絶対に戻せない、一度壊れたものは二度と元には戻らないって自分で言ってたのに。何のために? 誰のために、そんなことしてたの?」

「誰って……」

 質問の意図を図りかねて、悠子から目を逸らす。


 俺はどうして、今までここにいたんだろう。

 自分で分かった気になっていただけで、その理由を改めて考えたことはなかった気がする。


「……俺のためだよ。俺がここにいたいから、そうしてただけだ」

 頭の中がぐるぐるして、考えが上手くまとまりそうもない。仕方なく返した俺の答えに、悠子は相変わらず静かにまた聞き返してくる。

「そうしてれば許されると思ってたの?」

「だから、違う。許してもらおうなんて思ってない」

「じゃあ、誰があんたを許すの? 妹さんにはそんなことできないよ、もう死んだんだから」

「……」

「もう会えないんだよ、二度と」


『雪は綺麗だけど、梅が寒そうね。寒さで凍えたりしないのかな』


 ――大丈夫だよ。梅の花は、冬が寒ければ寒いほど綺麗な花を咲かせるんだ。


『本当に? じゃあ今年の梅はきっと、今まででいちばん綺麗ね。楽しみだな』


 ――ああ、そうだな。

 梅の花が咲いたら、また二人で見よう。

 俺が里に下りて団子を買ってくるから、リンはお茶を淹れて待っててくれよ。

 帰ってきたら、縁側に座って二人で見よう。

 梅が咲く頃はきっとまだ寒いから、膝掛けも忘れるなよ。リンは寒がりだから。


『そうね、絶対に一緒に見ようね。約束よ、兄様』


 約束したのに、その年の梅は見られなかった。

 あんなに楽しみにしてたのに。

 リンはいなくなって、梅の木も燃えてしまった。

 もしあの大火がなかったら、どんなに綺麗な花が咲いたんだろう。きっと、今まで見たどんな梅の花よりも見事だったに違いない。見ることが叶わなかったからそう思うのかもしれないけど。


「誰も悪くない。俺も」

 そんなこと分かってた。

「だけど……じゃあ、どうしてリンは死んだんだよ? たまたま運が悪かったから? そんな理由で死ぬなんて、あんまりだろ」

「……」

 梅の木からそっと手を離す。真冬の夜の空気は凍えるように冷たく、手に残った痛みと熱がゆっくりと冷えていくのと一緒に、感覚すらも奪っていく。

「だったら俺が、リンが死んだ理由になればいいと思った。俺のせいでリンが死んだんだから、俺が罰を受けるのは当たり前のことだ。だから……」

 そっと息を吸うと、夜の匂いに混じって微かに梅の香りがした気がする。花はまだ咲いてないのに。


「俺が死ぬまでここに一人でいれば、俺が一生不幸でいれば、リンが死んだ理由になれるって……そう、思ってたんだ」


 寒さのせいなのか、膝が震えて真っ直ぐに立っていられない。その場に膝をつくと、地面にぽたりと雫が落ちた。雨が降ってきたのかと思ったけど、自分の頬にできた何かの流れ落ちた跡が夜風に当たって冷たく感じ、それが俺の涙だということにようやく気付く。

「分かってるよ、ただの自己満足でしかない。こんなことしたってリンは生き返らないし、リンに見てもらえるわけでもない。だけど、俺だけがただ生きるのだけは何か違うんだよ。自己満足でも何でもいいから、俺は苦しまないといけない、不幸な人生でないといけない。そうじゃなきゃ、リンの死が無意味なものにされそうで怖かったから」

 ぎゅっと握りしめた拳で地面にできた涙の跡を隠そうとしてみたけど、それは一滴だけでは終わらずに後から後から零れ落ちてくる。悠子は今、どんな顔で俺を見ているんだろう。俺を憐れむような目で見ているんだろうか。

「昔に浸ってるだけだよ、そんなの分かってんだよ。それの、何が……悪い」


 もう二度と会えない。そんなこと分かってたけど、ここにはリンのいた跡が至る所に残っている。境内にも、縁側にも、裏庭にも、梅の木にも。俺はここでずっと一人だったけど、リンのいた跡を見つける度に、リンが今もそこにいるような、そんな気がしてた。だから俺は、俺を不幸だなんて思っていない。世界中の奴らが全員俺を不幸だと言ったとしても、リンの気配と一緒にずっとここにいられるなら、こんなに居心地のいい場所は他にない。これ以上に望むことなんて何もない。

 そう思っていたのに、俺はいつからこんなにも欲深い心を持つようになってしまったんだろう。

 俺は不幸でいなければならないのに、悠子の隣で幸福を知ってしまった。今だけの、長くは続かない幸福だけど、それを手にする資格なんて俺にはないのに。

 そんな自分を許すことはできない。許さない自分でいたかった。

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