5-5. 梅の花の咲く頃
どうやら神様はあの黒い狐面に何かをしているみたいだけど、ただその場に立って待っていても寒いだけだし、私と狐はどちらからともなく境内をぶらぶらと歩きだした。そう言えばここには何度も来てるのに、ちゃんと隅々まで見て回ったことは今までなかったかもしれない。
「さっきの妹さんの記憶の中って、この神社の裏だったの?」
ふと思い出して聞いてみる。こいつはさっきから白い狐面を外そうとしない、きっと寒いからだとは思うけど、何だか変な感じだ。
「ああ、悠子はまだ見たことなかったっけ。こっちだよ」
狐は手招きして、社の裏に向かって歩き出した。そっちはまだ一度も足を踏み入れたことがない場所だ。狐の後についていくと、枝が伸び放題の生垣が行く手を阻んでいる。下の方には竹の支柱らしきものが覗いていて、人の手によって作られたことが窺えるけど、もうずいぶんと長い間手入れをしていないのかそのほとんどが折れたり欠けたりしている。狐はそれを慣れた足取りでまたいで、生垣の隙間をくぐって向こう側へすたすたと歩いていく。私は危うく折れた竹の切れ端に足を引っかけそうになりながらも、何とか生垣の向こう側へ入ることができた。
「どんくせーなあ」
その様子を見て、少し先で待っていた狐がおかしそうに肩をすくめて言った。
「うるさいな。これ、少しくらい手入れしたら?」
「別にいいよ、今のままでも困ってるわけじゃないし。どうせ俺しかいないんだから」
「そうだけど……」
肩についていた葉っぱを払い落とし、改めてあたりを見回してみると、そこはさっき妹さんの記憶の中で見たのと同じ小さな庭だった。先週の雪の溶け残りがちらほらとあって、その下は芝生で覆われているところと土の地面がむき出しのところに分かれている。ここはさっきの生垣よりはいくらか手を入れているみたいだったけど、それでもお世辞にも整っているとは言い難い。
だけど、狭い庭の真ん中にぽつんと一本だけ立っている背の低い木だけは、素人の私が見てもきちんと剪定されているのが分かった。最初に見た時は丸裸の木なのかと思っていたけど、暗がりの中で目を凝らすと、枝にいくつか小さなつぼみがついている。
「これ、梅の木なんだ」
私が聞いたわけでもないのに、あいつはその木の下に立って枝を見上げながら言った。
「いつだったか忘れたけど、総本宮に生えてた木を一本だけこっちに持ってきて植えたんだよ。リンは梅の花が大好きで、毎年この木の梅が満開になるのを楽しみにしてた」
その長い指先が、そっと木の幹に触れる。壊れやすいものに触れるように、慈しむような手つきだった。
「今年は、もう少し先かな……」
『雪は綺麗だけど、梅が寒そうね。寒さで凍えたりしないのかな』
『大丈夫だよ。梅の花は、冬が寒ければ寒いほど綺麗な花を咲かせるんだ』
さっきの記憶の中でも、あいつと妹さんはこの梅の木の話をしていた。きっと、二人にとって大切な思い出のある梅なんだろう。妹さんに話しかけていたあいつの声はとても優しくて、表情はよく見えなかったけど穏やかに笑っていたであろうあいつの顔がまるでそこにあるように想像できた。
あいつは梅の木から手を離すと、縁側に歩み寄った。妹さんの記憶の中と同じようにそこは開け放してあったけど、部屋の中に明かりがついていないせいかひどく寒々しく見える。狐は縁側に腰掛けて、ぼんやりと梅の木を見ていた。
「あんたって、ここで生活してるの?」
「そうだよ。本当に寝る時しか帰ってこないけど」
こんなに寂しいところに、いつも一人で帰ってきて寝てるのか。どう声をかけたらいいのか分からなくてただじっと狐を見ていると、あいつは私の考えていることに気付いたらしくこっちを向いた。
「なに? ドン引きした?」
「そんなことない」
「いいよ、気にしなくて。ここに住んでる俺でもたまに引くもん」
その白い狐面の奥であいつがどんな表情をしているのかは見えない。そのはずなのに、胸の奥をぎゅっと握りしめられたように痛みが走る。
いつも私の部屋から帰った後、こいつはどんな気持ちで眠りにつくんだろう。こんなに寒くて暗い庭を見ながら、昔のことを思い出しているんだろうか。自分のことを知る人が誰もいないこの場所で、いつもたった一人で。
狐は所在なさげに足をぶらぶらさせながら、ふと下を向いた。
「神社にいる時は、大抵いつもここでゴロゴロしてた」
「……昔のこと?」
うん、と小さく頷いて、ぽつりぽつりと話し始める。
「リンはこの縁側が好きだった。晴れの日も雨の日も、暇な時はいつもここに座って本読んでたな。俺は昔から人里に下りて遊んでばっかりだったよ。神様はいい顔しなかったけど、リンは俺が外で見てきたものの話をよく聞いてくれてた」
実際にその場を見ていたわけでもないのに、その光景が目に浮かぶようだった。日当たりのいい縁側で座って本を読んでいる妹さん、そこに庭から駆け寄ってくるあいつ。あいつの話に耳を傾け、時々おかしそうに笑う彼女を嬉しそうに見つめるその顔が、まるで見てきたように頭の中で思い描くことができる。
「本当に、幸せな毎日だった」
誰に言うでもなく、独り言のように呟かれたその言葉を、私は前にも聞いたことがある。
『本当に幸せな毎日だったよ。だけど、あの頃は何とも思ってなかった。だってそれが当たり前すぎて、これからもずっと続いていくんだって思ってたから』
あの時あいつの言ったことが、私には痛いほど分かった。今までずっとそこにあるのが当たり前だったから、これからもずっとそこにあるものだと思っていた。それなのに、それはあまりに突然になくなってしまった。もう二度とそこに帰ることはできないと知った時、初めて気が付くのだ。そこにあるのが当たり前ではなかったこと、自分が幸せだったことに。
こんなこと今まで誰にも話したことはなかったし、誰にも分かってもらえないと思っていたけど、あいつは分かってくれた。私の言ったことに『分かるよ』と言ってくれた。
だから私はあいつを拾ったんだ。
最初から何もないより、失う方がきっとつらい。大切な何かを失うということを分かってくれるあいつだから、一緒にいたいと思ったんだ。
「死んだら、どこに行くの?」
梅の木を見上げながら小さく呟く。私の声に、狐も顔を上げて梅を見上げたのが分かった。
「生まれ変わったり、どこか別の世界に行ったりするの?」
今まで何度も考えたことだった。お父さんは今、どこにいるんだろう。それとももう、どこにもいないんだろうか。
「神様に聞いたことがあるけど、教えてもらえなかった」
あいつに答えを求めたわけではなかったけど、静かな声が返ってきた。
「神の使いだなんて言ったって、俺もリンも人間とほとんど何も違わない。ただ寿命が長いだけだよ。人間と同じように死ぬ時は死ぬし、死んだ奴とはもう二度と会えない」
はあ、と吐き出した息が、白い靄のように広がって消えていく。
「……もう二度と、会えないんだ」
噛みしめるようにもう一度、そう呟くあいつの声が、ひっそりとした夜の空気に溶けていく。
たとえ今どこかにいても、どこにもいなくても、もう二度と会えない。そんなこと、きっとこいつも分かってるんだろう。失った悲しみはいつ終わるんだろう、死ぬまで続くんだろうか。人の一生でも気が遠くなるほど長く、長く感じるのに、こいつはそれとは比べ物にならないほど長い時間をずっと生きてきて、きっとこれからも生きないといけないんだろう。
「あんたの寿命って、どのくらいなの?」
「え? さあ……知らない」
「知らないってことはないでしょ。大体どのくらいかくらいは分からないの?」
「寿命が百年だろうが千年だろうが、明日死ぬかもしれないのはみんな同じだろ」
「そうだけど……」
「それに、ただ長生きしたって何の意味もないよ。今の俺は生きてたって、死んでるのと同じだ」
梅の木から視線を外してあいつを見る。あいつはまだ梅を見上げていた。
「どうして、そんなこと言うの……?」
ふざけているわけではなく、自嘲気味なその言い方が少しだけ気にかかった。大切な人を失ったこいつが、冗談でそんなことを言うとは思えなかったのだ。
「俺には生きている価値がない」
あいつはそっと立ち上がり、私の方を真っ直ぐに向いた。金色の髪が真冬の月のようにぼんやりと光って見えて、真っ白な狐面に施された朱色の化粧の鮮やかさに目がくらみそうになる。見慣れたはずのあいつのそのあまりに幻想的な姿に、自分の意識がここではないどこかへ行ってしまいそうだった。
「あの日、俺がしたことを実際に見れば、きっとお前もそう思うよ」




