5-4. 共鳴
しばらくの間、私も神様もあいつに声をかけられなかった。転がった黒い狐面を前にして膝をついたままのあいつの背中がひどく寂しそうで、何を言えばいいのか分からなかったからだ。
ふと、あいつの手がのろのろと動き、黒い狐面をそっと拾い上げた。するとその狐面はさっきと同じように、あいつの手の中でぼんやりと弱々しい光を放った。
「……」
あいつはゆっくり立ち上がると、ようやく振り向いて私たちの方へ歩いてくる。白い狐面を被ったままのあいつの表情は分からないけど、見えなくて良かったのかもしれない。あいつも今きっと私に見られたくない顔をしているような、そんな気がした。
「今見た記憶がいちばん強く残ってるものみたいだ。まだいくつか残ってるみたいだけど」
狐の声は思いのほか落ち着いていて、少しだけほっとする。
「……大丈夫?」
聞くべきか迷ったけど、聞かずにはいられなかった。狐は私の方を向いて首を傾げている。
「大丈夫って、何が」
「え、だから……」
「悠子様が気を遣ってくださっているのが分からんのか、阿呆」
隣から神様が言い放つと、狐はわざとらしくそっぽを向いてしまった。
「悠子と俺は気を遣うような仲じゃねーし」
「なら、どんな仲だと言うのだ」
「どんなって……」
わずかにあいつがこっちを向き、狐面越しに目が合ったのが分かる。その途端、この間のキスの記憶が突然脳裏に鮮明に浮かび上がってきて、あわてて目を逸らした。何か察したのか、神様の眉間に深いしわが寄っている。
「まさかとは思うが貴様、悠子様に何か妙な真似を」
「そういうこと聞くか普通? 野暮ってもんだろ、なあ悠子」
「し、知らないよ! 変なこと言わないで」
神様は額を指で押さえて目を伏せ、深いため息をついた。
「……悠子様、誠に申し訳ございません。これほどまでに手厚く面倒をみてくださっている悠子様に恩を返すどころか、仇で返すとは。いくら何でもそこまで救いようのない恩知らずだとは思っていなかったのですが、私の思い違いだったようですね。何とお詫びしたら良いのか……」
「いっ、いやだから、本当に何もないんですってば!」
「いいだろ、別に今更隠すようなことでもないし」
「あんたは黙ってて! あんたが喋ると話がややこしくなる!」
「……どうやら貴様には一度、きつい教育が必要なようだな」
「げ……」
神様の目から光が消えたのが分かる。狐が後ずさりすると、その手に持っている黒い狐面の弱々しい光が吸い込まれるように消えた。
「ほっ、ほらほら! リンも怖がってんだろ? やめろって」
狐があわてたように神様に向かってその狐面を差し出してみせると、神様は小さくふんと鼻を鳴らす。
「まあ、今日のところはリンに免じて見逃してやるが……次はないと思えよ」
「はいはい、分かってるよ」
しばらくすると、黒い狐面はまたぼんやりと白く発光し始めた。
「ああ、よかった。もう怖くないからな」
ほっとため息をつきながら、狐はまた賽銭箱の上にそれを静かに置く。明かりがひとつもない神社の中、その光は言葉にできないほど神々しく幻想的だった。
突然、静まり返った境内にヴーッ、ヴーッと何かが振動する音が響き、その場にいる全員が弾かれたようにポケットやバッグの中を確認し始める。
「すまん、俺だ」
神様はジャケットの内ポケットからスマホを取り出して、私たちから少し離れたところで電話を始めた。
「ここ、電波くるんだね」
「たりめーだろ。俺、電波こないところで息できないレベルのシティーボーイだし」
「いや、そういうことじゃなくて……」
この神社と言うか、この空間の仕組みについて疑問に思ったんだけど。その時ふと、さっき神様を待っていた時に聞こうとしたことを思い出した。
「そうだ。ずっと気になってたんだけど、あの時どうやって私の前に狐面を落としたの?」
「あの時?」
「ほら、あんたにゴミ置き場で会った次の日。あんたがお返しするからまた来てって言うから行ったのに誰もいなくて、帰ろうとしたら上からあんたのお面が落ちてきて」
狐は腕組みをしてしばらく黙ってたけど、思い出したのか小さく頷いてみせる。
「ああ、そんなことあったっけ」
「あれってどうやって落としたの?」
「どうやって、って……普通に、上から落としただけ」
「上って?」
「ゴミ捨てのすぐ横に木があっただろ。その枝の上にいたんだけど」
「ええ? あの時は確か、木の上には誰もいなかったけど……」
そうだ、あの時私は確かにそばに立っていた街路樹の上の方を見た。それでもそこには誰もいなくて、仕方なくこの神社まで届けに行く羽目になったのだ。
「ああ、悠子が上を見上げてたのは見てたよ。でも俺には気が付かないで帰っちゃったから、あの時は正直焦った。悠子の気を引くためにこれ落としたのに、まるで俺のこと見えてなかったみたいだったからさ。その後どうしようか考えてるうちに悠子の方から神社までわざわざ来てくれたから、結果オーライだったけどな」
「え、なんだ……そうだったんだ」
何だか思っていたよりあっさりとした真実に、肩から力が抜けてしまう。
「なんで今になってそんな前のこと聞くんだよ」
「あんた、記憶を再現するのが自分の唯一の能力って前に言ってたでしょ。それなのにあの時、その場にいないのにお面だけを私の前に落とすなんてことができたから、その……火事の時も」
言いかけてやめる。でも、狐には私の言おうとしたことがとっくに分かってしまったようだ。
「神通力を使えば逃げられたんじゃないかって?」
「……」
やっぱり言わなければよかったと、今になって強烈な後悔が押し寄せてくる。
「さっき言ったとおりあれはただ上から落としただけで、神通力でも何でもない。俺の能力は記憶の再現だけだよ。他には本当に、何もできない」
狐は何を思っているのか、黒い狐面をじっと見ている。そこから発せられている弱々しい白い光に照らされて、白い狐面が何故か泣いているように見えた。
「俺の能力なんて何の役にも立たない」
その落ち着いた声には、自嘲も悲しみも何もなかった。だけどその淡々とした口調がかえって痛々しく、こいつの苦しい胸の内を如実に物語っているような、そんな気がする。
「ごめん……」
自分の配慮のなさが心底嫌になり、次に言うべき言葉が見つからない。こいつだって妹さんを救えなかったことで、どれだけ胸を痛めてきたか。その全部を理解できなくても、推し量ることくらいはできたはずなのに。
「失礼しました」
それから何となく黙り込んでしまった私たちの空気を破って、電話を終えた神様が戻ってくる。
「忙しいならもう帰っていいけど。話は済んだし」
さっきまでの微妙に重苦しい空気を払拭するように、あいつはいつもどおりの口調で返した。
「いや、使いの者が宿泊先のホテルと部屋番号を連絡してきただけだ」
「またスイートなんか取ってんじゃねえだろうな、無駄遣いも大概にしとけよ」
「そう思うなら俺をいちいち呼び出すな、阿呆が」
二人の間の空気がまた険悪なものになり始めた時、黒い狐面の光がゆっくりと弱くなっていく。あわてて二人の注意をそれに向けた。
「あっ、ほらほら、光がまた……二人ともやめてってば」
「チッ……」
「……ふん」
二人はぷいと顔を逸らしたけど、それ以上言い争う気はどうやらなくなったらしい。
「あの、神様。前から気になってたことがあるんですけど」
場の空気を変えるため、というだけではなく、今度神様に会う機会があったら聞こうと思っていたことを口にする。
「何か?」
「どうして私、この神社に入ってこられたんでしょう? こいつに聞いても分からないみたいで……」
「ああ、それな。俺も気になってた」
狐も話に身を乗り出してくる。神様は顎に手を当てて何か考え込んでいた。視線の先には相変わらず弱い光をゆっくり明滅させている黒い狐面がある。
「おそらく、ではありますが」
風が吹いて、木立の葉がざあっと音を立てる。風が過ぎ去るとあたりはまた静かになった。
「悠子様の記憶の中にあるリンの狐面と、こいつの神社の記憶が共鳴していたからではないでしょうか。悠子様がこの神社に近づいたことで、現世とこの空間を隔てていた歪みが一時的に消滅していたのだと思われます。これはあくまで私の推測の域を出ませんが」
あんまりよく分からないけど、私の記憶の中に妹さんのお面があったのが原因ってことなのかな。ちらりと狐の方を見ると、意外にも大人しく神様の話に耳を傾けている。
「こいつは確かに私の使いの中でも格が低く、神使としての素養にも問題がありますが、潜在的に有している神通力は非常に強力です。人間はもちろん、格の高い神使でさえもこいつが歪めた空間をかいくぐることなど不可能なはずなのです。それなのに人間の悠子様がここに容易く入ることができた理由は、悠子様の記憶の中にリンの記憶の断片があったからということ以外には考えられません。とは言え、ただ悠子様の記憶の中にリンの狐面があったから、それだけでこいつの神通力を無効化できたのかと考えると少し疑問が残ります。きっと悠子様の中にあるあの家への強い思いが、リンの神社での記憶と同調することで、あの空間の歪みを消すことができるまでに神通力を増幅させたのでしょう」
ふと、神様は狐の方を向いた。
「貴様とリンの神通力をその狐面に封じているのも、それが理由だ。二人とも全く理解していないようだったが、貴様らの潜在的な神通力は格の低い神使の手に負えるものではない」
狐は腕組みをして肩をすくめた。
「……なーんかよく分かんないんだよな。要は俺とリンって、すごい力を持ってるってことだろ? なのに何で俺たち、あんなクソ田舎の分社なんかに回されるほど下っ端だったんだよ」
「潜在的な、と言っているだろうが。持っている力の全てを自分の意のままに扱うことができないなら、それは持っていないのと同じだ。かと言ってそのまま野放しにしておけば、いつ何かのきっかけで神通力が暴走しないとも言い切れん」
「ふーん……」
「事実を伏せておく理由はないが、二人がそれを理解する必要もないからな。だから黙っていただけだ」
「あ……」
黒い狐面の光が消えた。狐があわてたように持ち上げても、狐面は光らない。
「おい、どうしたってんだよ」
「落ち着け。眠っているだけだ」
「え?」
「そこにはもうほとんど何も残っていない。それなのに貴様の記憶とずっと共鳴し続けていたら、それだけで神通力を消耗して使い果たしてしまう」
「……何言ってんだよ?」
「おそらく、まだ何か伝えたいことがあるんだろう。貸せ」
狐は言われるがまま、神様に黒い狐面を渡した。神様は鳥居のすぐ近くにある手水舎に歩み寄り、水が一滴もないそこへ狐面を静かに置いた。
「少し時間がかかる。適当に話でもしていろ」
言い終わると、狐面に手をかざして目を閉じた。
「相変わらず話を端折りすぎなんだよなあ、何言ってんだか全然分かんねえし」
狐は髪を指先でいじりながら、少し呆れたように言った。
この神社に初めて足を踏み入れた日のことを思い出す。あの日も実家からアパートに帰る途中で、何となく普段は通らない道で帰ってみようと思って、偶然ここを見つけたんだっけ。起こる全ての事象に意味がある、なんて思ってはいないけど、全てのことは後になって振り返って初めてその意味に気付くものなんだろう。
「きっと、妹さんが私をここに呼んだんだね」
「え?」
ぽつりと呟いた私の言葉に、狐が振り向く。
「あんたのこと、ここから出してあげたかったんじゃないの」
「……」
きっとバカにされるだろう、そんなことあるわけないって。そう思ったのに、あいつは何も言わなかった。




