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狐の恩返し  作者: 養生
第5章 梅の花の咲く頃
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5-3. 追憶

 実家からアパートへ帰る途中、例によってあの神社であいつと待ち合わせの約束をしていた。

 あの黒い狐面はハンカチに包み、更にその上からタオルで包んで、運ぶ途中で割れたりしないよう細心の注意を払ってバッグの中にしまい込み、念には念を押して周りに隙間ができないよう荷物を少し多めに詰め込んでいる。これだけやれば大丈夫だとは思うけど、やっぱり歩いている間も気を遣う。なるべくバッグに衝撃を与えないよう、いつもより少しゆっくりめに歩いていたせいか、日没前に着くと思っていたのに実際そこへたどり着いた時にはあたりはもう暗くなっていた。

「あ……」

 神社が目前に迫ってきた時、境内の手水舎のところであいつが立っているのを見つける。息を弾ませて鳥居をくぐると、あいつはすぐに私のところへ駆け寄ってきた。

「おかえり。どうだった?」

「あそこにあったお面、お母さんが全部とっておいてくれてたよ。あの狐のお面だけもらってきた」

 狐はびっくりしたような、でもどこかほっとしているような、何とも複雑な表情をしている。

「そ……そうか」

 バッグを地面に置き、奥からタオルで包んだ狐面を取り出そうとすると、あいつの手がそれを横から制した。

「あ、ちょっと待ってて。神様も今こっちに向かってるから」

「え? そうなの」

「いや、別にいいかなとは思ったんだけど……ちょっと気になって。悠子の実家にあれがあってもなくても、どういうことなのか神様に聞けば何か分かるかもしれないし」

 それもそうか。それならこの狐面があの家にあった経緯も、神様が到着してから話した方がいいのかもしれない。狐は少し落ち着きなくそわそわと視線をさまよわせている。

「遅いな……」

「もうすぐ来るんじゃないの?」

「そのはずなんだけど、もう約束の時間から三十分は経ってる」

「何かあったのかな。神様だから、一瞬でぽーんとここまで来られるんでしょ? 瞬間移動的な」

「お前なあ、漫画の読みすぎだよ。んなことできるわけねーだろ? 人間って本当にそういう夢みたいな作り話好きだよな、現実的に考えてありえねえっつーの。神様だって新幹線と電車でこっちに来るんだよ」

 存在そのものが非現実的なこいつに言われても全く説得力がないけど、そんなもんなのか。そう言えば前にこっちに来た時もホテルに宿泊してるって言ってたし、何だか思った以上に夢のない話だ。そんなことを考えていた時、ふと過去のある出来事を思い出す。

「あれ? でもそれじゃ、あの時はどうやって……」

「お待たせ致しました、悠子様。遅れてしまい申し訳ございません」

 不意に神社の外から、低く落ち着いた声が聞こえてきた。鳥居の向こうにいつの間に来たのか真っ黒なリムジンが停まっていて、そこから今日も高級そうなスーツとコートに身を包んだ神様が降りてこっちへ小走りに駆け寄ってくる。

「おっせーよ! 何時間待ったと思ってんだよ」

「だから謝っているだろうが。道が混んでいてな」

 怒鳴る狐を一瞥して、神様はリムジンの運転席に向かって小さく手を上げて合図を送った。するとリムジンは音もなくどこかへ走り去っていき、すぐに見えなくなってしまう。

「まったく、こっちへ呼ぶならもう少し早めに連絡できないのか。昨日の今日で新幹線だのリムジンだの、手配を頼むこっちの身にもなれ」

 神様はネクタイの結び目に指をかけて、少しうんざりしたように目を伏せてため息をついた。

「どうせ手配するのは総本宮の人間だろ」

 まだ悪態をついている狐を無視して、神様は私に向かって深々と頭を下げる。

「お久しぶりです、悠子様。長らくこの阿呆を任せっきりになってしまい、御礼の申し上げようもございません」

「あ、い、いえ。そんな大したことは」

「ああもう、そういうのは後でいいだろ。今はリンの狐面が先だ」

 私の後ろで苛立ったように口を挟んだ狐は、そのすぐ後に神様のゲンコツを食らっていた。


 *


 社の前に置かれた賽銭箱の上で、ハンカチをそっと開く。中から真っ黒な狐面が出てきた途端、私のすぐ横で狐が息を呑んだのが分かった。

「……ふむ」

 神様は顎に長い指を添えて、じっとそのお面を見ている。二人ともしばらく何も言わずに狐面を見つめていたけど、先に神様の方がその沈黙を破った。

「失礼。手にとってもよろしいでしょうか」

「え? あ、はい。もちろん」

 小さく頭を下げると、神様は狐面に指でそっと触れた。

「……」

 一瞬だけど、神様の目がどこか苦しげに細められたような気がする。でもそれは本当に一瞬のことで、瞬きをした次の瞬間にはもういつもの冷静な表情に戻っていた。壊れやすいものを扱うように、その指先は優しく狐面を包み込み、そのままそっと裏返される。裏側のちょうど両目の間のあたりに、実家では気が付かなかった小さな印のようなものがあった。狐面が黒いうえにあたりが暗いせいでよく見えないけどそれは五枚の花びらをもった花のような形で、直接お面に彫ってあるようだ。

「これ……」

 狐は少し身を乗り出した。

「間違いありません。リンの狐面です」

 低い声で神様が囁くように言う。私に見えるようその印のようなものを指さして、よく見てみるよう促される。

「これは、リンの神通力を封じた時の刻印です。こいつの面の裏側にも同じものがあります」

「俺とリンだけじゃなくて、神様に仕える神使が身に着ける狐面には必ずこれがあるんだよ。ほら」

 言いながら、狐はまた首に巻いたマフラーの中から自分の狐面を取り出して見せた。その裏側の両目の間には、確かにこの黒い狐面と同じ刻印がある。

 気のせいだったのかもしれないけど、狐が自分のお面を取り出した時、黒い狐面が微かにぼんやりと発光したように見えた。

「あ……」

 まるで蛍の光のように、その弱い光はゆっくりと吸い込まれるように消えていく。

「……今の」

「これは……驚いたな。まだ共鳴できるだけの神通力が残っているとは」

 珍しく神様が少し目を丸くして、その狐面をじっと見つめている。

「悠子様、これが貴女の御父上のご実家にあった経緯について何かご存知でしょうか。大体の話はこいつから聞いてはいますが、そもそも何故そこにあったのかは不明のままだったようなのですが」

「あ、はい。母から聞いてきたんですが……」

 私はお母さんから教えてもらった、この狐面があの家にあった経緯をかいつまんで二人に話した。あの家を建てる時、土の中に埋まっていたのをおじいちゃんが見つけて掘り出して、それを飾っていたこと。おばあちゃんはこれを見て昔ここで火事があったのかもしれないからと、最初は家を建てるのに反対していたこと。それでもおじいちゃんはこのお面を見て、自分の地元で信仰されていたキツネ様だと思って、あの場所に家を建てるのを決めたこと。

「キツネ様? それって、俺たちのことか」

「土地によっては俺ではなく神使を信仰の対象としているところもある。まあ、貴様のような格の低い神使には縁のない話だがな」

「ああ? 喧嘩売ってんのか」

「ちょっと、やめてよ」

 チッと舌打ちすると、狐は上げかけた腰を落としてまた社の階段に座り直す。そんなあいつの態度に神様は顔色ひとつ変えず、また顎に手を当てて何かを考えていた。

「しかしこれで話が繋がりましたな。あの大火の後、神社やその周辺の集落に残っていた瓦礫は住民たちによって撤去されたはずです。おそらくその中にこれも混じっていたのでしょう」

「……」

 狐は何を思っているのか、黙ってじっと黒い狐面を見ている。

「撤去と言っても、ただ瓦礫を集めて一つ所に置いただけだったと思われます。当時あの一帯の集落はひどい田舎で、お世辞にも、その……」

「回りくどい言い方してないで、超貧乏だったってはっきり言えばいいだろ」

「黙れ、言い方というものがあるだろう。とにかく、住民たちは日々食べていくだけでやっとという有様だったので、瓦礫の処理などに手をつける余裕もなかったのではないかと。きっとそのまま放置されていたのでしょう」

「その場所がたまたま、父の実家を建てた場所だったってことですか?」

「そのとおりです。長年雨風にさらされていれば、普通の面ならとっくに風化しているでしょう。ですが、この狐面にはリンの神通力が封じ込められているので、かろうじて形を保っていられたのです。それだけではなく、拾われた後も大切にされていた形跡が見られますが」

 ふと狐が手を伸ばし、黒い狐面をそっと手にとった。今度は見間違いではなく、確かにあいつの手の中でそのお面がぼんやりと白く光っている。それでも狐は特に驚くような様子も見せず、ただじっと狐面を見つめていた。

「……全部、ただの偶然だ。俺は運命なんてもの信じない」

 弱々しい光は今にも消えそうだったけど、まるで呼吸しているみたいにゆっくりと明滅を繰り返し、消えることはなかった。

「けど、悠子でよかった。これを見つけてくれたのが、悠子の家族の人たちで……よかった」

 いつか似たようなことを言われたような気がする。偶然だと分かってはいても偶然とは思えなくて、私はただ狐面を見つめるそいつをじっと見ていることしかできなかった。


「これには神通力だけではなく、リンの記憶の断片も封じ込められている」

 狐がそっと黒い狐面を賽銭箱の上に戻すと、弱々しい光は吸い込まれるように消えてしまう。それをじっと見ていた神様は、眼鏡のブリッジを指で押し上げながら言った。

「さすがに全ての記憶は残っていないが、リンにとって印象深かったことや、忘れられない大切な思い出などがまだいくつか断片的に残っているようだ」

「大切な、思い出……」

 ぼんやりと聞き返す狐に向かって、神様は諭すように続ける。

「しかし、この百五十年でそれもほとんど消えかかっている。その中でも特に強い記憶ならまだ、貴様の能力で再現することもできるのではないか」

 はっとしたように、狐の指がマフラーの中から白い狐面を引っ張り出した。

「……今ならまだ、見られるかもしれないんだな」

「一応忠告しておくが、貴様にとって良い記憶ではないかもしれない」

「そんなの、分かってるよ」

 まだ何か言いたそうな顔をしていたけど、神様はそれ以上は何も言わなかった。狐は自分の白い狐面を被って紐を結び、そっと黒い狐面に手を伸ばした。その手がお面に触れた時、そこから白い靄のようなものが立ち込め始める。

「悠子様、目を閉じていてください」

「あ……は、はい」


 ……どれだけ時間が経ったのだろう。

「いいですよ、目を開けてください」

 耳元で囁く神様の声に、そっと瞼を上げる。私たちは、どこかの家の小さな庭の隅に立っていた。あたりはさっきと同じで暗く、時間が夜であることが分かる。足元には白い雪が厚く積もっていて、それは目の前の景色全体を全て白く覆っている。

「ここは……」

 声と一緒に白い息がほのかに立ち昇って消えていった。空からはひらひらと牡丹雪が途切れることなく舞い落ちてくる。

「神社の裏庭だ」

 すぐ隣に立っていた狐が答える。そっちを見上げると、狐はお面をしたまま茫然と庭の景色を見ていた。私たちが立っている場所からそう離れていないところに古い建物の壁があり、庭に面している縁側がある。縁側の引き戸は雪が降っているのに開け放してあって、中からは部屋の明かりがぼんやりと漏れ出ている。

 そこから突然、誰かが飛び出してきた。

「えっ」

 その人は裸足なのに、何も履かずにそのまま積もった雪の上に飛び降りてしまう。あっけにとられて見ていると、その顔がくるりとこっちを向いた。

 二十歳くらいの女の子だった。ほとんど白に近い、金色の髪。その背中の真ん中に届くか届かないかくらいの長い髪は、揺らめく度に夜の暗さの中でぼんやりと光っているように見えた。紺色の着物から覗く細くしなやかな手首も足も降り積もった新雪より白く、彼女が纏うあまりに人間離れした妖しげな美しさに女の私でもドキッとしてしまう。人形のように全てのパーツが端正な作りをした顔の中でも特に目を惹く、少しつり気味の目があいつそっくりだった。


「ねえ見て、兄様! 雪、こんなに積もってる!」


 空から降ってくる無数の雪片を見上げる彼女の赤い唇から、鈴を振るようなはしゃいだ声が聞こえてくる。雪が髪に積もるのもまるで気にしていないようで、子供みたいな足取りで雪に足跡をつけている。

 その声に呼ばれた誰かが縁側に出てきた。濃い茶色の着物を着た男の人だ。

「おい、ちゃんと履き物履けよ! 裸足で雪の上歩いたら、しもやけになるぞ」

 女の子は雪の中で縁側に振り返り、おかしそうに笑った。

「平気だって! すごいすごい、綺麗ね」

 くしゃっとした笑い方も、どことなく似てる。あいつは普段あんなふうに満面の笑顔で笑わないけど、思いっきり笑ったらきっとあんな感じになると思う。

「ったく、ガキじゃねえんだから……」

 男の人はぶつぶつ言いながら、縁側にしゃがんで下に置いてある草履を拾い上げている。その人を見て、あ、と声が出た。

 狐だ。金色の髪に、真っ白な肌。つり気味の三白眼。着物を着ているから、私の知っているあいつとは全然雰囲気が違うけど。


「雪は綺麗だけど、梅が寒そうね。寒さで凍えたりしないのかな」

「大丈夫だよ。梅の花は、冬が寒ければ寒いほど綺麗な花を咲かせるんだ」

「本当に? じゃあ今年の梅はきっと……」


 女の子の言葉の途中で、あたりに厚く白い靄が立ち込め始める。

 それまでただ茫然と二人のやりとりを眺めていた狐は、その時ふと片手を伸ばして前に進み出ようとした。

「まっ……待って」

 その足は雪にとられ、狐はその場に膝をついた。靄は更に濃くなり、もうほとんどあたりの様子が見えない。

「リン!」

 真っ白に包まれた視界の中で、あいつの泣き出しそうな叫び声だけが聞こえてきた。


 気が付くと、私たちはまた神社の境内に立っていた。

 賽銭箱の上に置いたはずの黒い狐面は石畳の上に転がっていて、そのすぐ前にあいつが膝をついて項垂れている。

「……なんだよ、これ」

 あいつはこっちに背中を向けていて、その表情はここからでは見えない。丸まった背中の向こうから、ほとんど聞き取れないほど小さな呟き声だけが聞こえてくる。

「こんな、どうでもいいこと……あいつ、大事に覚えてたっていうのか。他にもっと、あるだろ」

 私の横に立っていた神様が、小さくため息をつくのが聞こえた。

「リンにとっては、今見た場面こそが大切な思い出だったのだろう。貴様にとっては何ということもない、ただの日常の断片だったとしても、リンにとっては何ものにも代え難い幸福な時間だったのだ」

「……リン……」

 微かな夜風が、あいつの金色の髪をふわりと巻き上げて去って行く。


 こいつとの何でもない当たり前の日々をとても大事に思っていたのであろう妹さんの気持ちが、痛いほど分かる。こいつもきっとそれは同じだったんだろうけど、そのことに気付いたのは、その生活を失くした後だったんだろう。

 そこにあるのが当たり前だった。だからそれを失って初めて、それは決して当たり前ではなかったことに気付くのだろう。気付かないままでいられたならそれはそれで幸せなことなのかもしれない。ただ、気付いていないだけのこと。

 だからこいつや妹さんが幸せなのかそうじゃないのかなんて、私には分からない。それでも二人がお互いをとても大切に思い合っていることだけは痛いほど伝わってきて、それが少しだけ羨ましかった。

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