5-2. 忘れもの
あいつのあんな声、初めて聞いた。
電車に揺られながら、窓の外を流れる見慣れた地元の町をぼんやり眺める。いつもの土曜日の午後、実家へと戻る電車の中で、私はずっとあいつのことを考えていた。
『どうすることもできなかったのです、それはこいつも私もよく分かっています。そのはずですが、こいつは妹を救えなかった自分をずっと責め続けているようです。いずれ時間が解決するだろうとは思っていますが、百五十年ではあまりにも短い』
いつか神様から聞かされた、あいつと妹さんに起こったこと。私はただ実際にあったことを神様から聞いただけで、その場にいたわけではない。つらかったねとか、かわいそうにとか、そんな言葉を口にするのは簡単だけど、それは何か違うと思っていた。あいつの今までの百五十年間を憐れんだり、その身の上に同情したりするのも、違うような気がする。それにそんなことをしたらきっと、あいつは傷つくだろう。普段は何も考えてないようなふりをしてるけど、あいつが人一倍繊細で優しいことを私はよく知っている。
だからこそ私は何も言えないし、何も聞けないのだ。大切な家族が自分の目の前で死んだら、私ならきっと正気ではいられない。気が狂うだろう。あいつはそれだけではなく、大切な人を守れなかったという罪の意識に囚われたまま、百五十年もの間たった一人であの神社に閉じこもっていた。誰にも本当の自分を打ち明けることもできず、誰からも本当の自分を見てもらえず、ずっと一人で。一体どんな気持ちだったのか、何を思っていたのか。そんなことあいつにしか分からなくて、私がいくら想像したところで分かるはずもない。
家族を亡くした経験は私にもある。その悲しみの深さには大小なんてないと思っているけど、あいつの抱えている孤独を理解することはきっと私には一生できない。だからせめて、何か力になれることがあれば手を貸したいと思う。こんなことしたって妹さんが生き返るわけではないし、何の意味もないのかもしれないけど、それでもあの神社から出られずにいるあいつをあのまま放っておくことなんてできない。あの町を、あの神社を無理に離れる必要はないけど、ずっとあのままでいるのはあまりに酷だ。
どんなに些細なことでもいい、今を少しでも変えられる手がかりになればいいと思ったのだ。
*
「お父さんの実家にあったもの? 全部?」
思ったとおり、お母さんは素っ頓狂な声で聞き返してきた。
「全部じゃなくていいよ。何かとっておいてるものがあれば、見せてほしいの」
「美術品とか骨董品みたいなものはなかったわよ。なに、もしかしてお金に困ってるの?」
「そうじゃなくて、ほら……あの階段にお面がいっぱい飾ってあったの、覚えてるでしょ? あれ、どうしたのかなって気になって」
引きつった笑顔で聞いてみる。お母さんはお煎餅をぼりぼりとかじりながら、何かを思い出しているのかすぐには何も答えなかった。ちょっと不自然だったかな、そう思って次の言葉を考えようとした時、お母さんはずずっとお茶をすすってから口を開いた。
「ああ、あのお面ね。全部とってあるわよ」
「えっ、うそ!? 今どこにあるの?」
「納戸の奥にしまったと思うけど……ちょっと探してくるね」
どっこいしょ、と言いながら立ち上がって部屋から出て行くお母さんの後を、あわててついていく。
「わ、私も探す!」
この家の納戸は狭く細長い部屋の両側に棚が取り付けてあり、そこには相変わらずお母さんの趣味の道具やら服やら何が入っているのか不明な大小の箱やらがみっしりと詰め込まれていて、人一人がやっと通れるくらいの空間しか空いていない。子供の頃は何だか秘密基地みたいだと思ってここで遊ぶのが好きだったけど、今はとてもそんな気分にはなれそうもない。お母さんが着ているところを一度も見たことのない服がまた増えたような気がするけど、今はとりあえず目を瞑ることにした。
「どのへんにしまったか覚えてる?」
「ああ、あったあった。ほら、これ」
「え、早っ」
奥の方にしゃがみこんで棚の下をごそごそと漁っていたお母さんは、一分も経たないうちに紙の箱を抱えて出てきた。昔、お父さんの会社の人から送られてきたお中元の果物ゼリーの空き箱だ。
「うわ、なっつかしー。これのブドウ味が大好きで、毎年全部一人で食べてたなあ」
図らずも昔のことを思い出し、箱の蓋にプリントされている果物の写真に見入ってしまう。
「あのお面、全部は入ってないと思うけど、ほとんどはここに入れておいたの覚えてる」
蓋を開けると、中には新聞紙で包まれた人の顔くらいの大きさの塊が五つ隙間なくしまわれている。埃っぽい湿った匂いが漂ってきた。
「本当はあの家を売った時に、必要なものだけ残してほとんど処分するつもりだったのよ。でも、何を捨てたらいいのか聞く前にお父さんが死んじゃったからね……」
どう返したらいいのか分からなくて、ただ黙って塊のうちひとつを手に取った。この中でいちばん、あいつの狐面に形と大きさが近いからだ。そっと新聞紙を開いた時、微かに甘い香りがした。
気のせいだったのかもしれない。
どこかで嗅いだことのある、花のような香り。でも何の花だったのかは分からない。
すぐにその香りを頭の隅に追いやり、新聞紙を広げてみると、中にはあの真っ黒な狐面があった。
「……」
「あの階段に飾ってあったお面はなんだか捨てられなくて、全部とっておいたの」
まるで昔の家族写真を眺めているように目を細めて、お母さんも狐面を見ていた。
「このお面ね、他のお面とちょっと違うのよ」
「え? 違うって……何が」
「他のお面はおじいちゃんが旅行先で買ったお土産ばっかりだけど、これだけは違うの。あの家を建てる時、土の中に埋まっていたのをおじいちゃんが見つけて掘り出して、それを飾ってたんだって。まだ悠子がお腹にいる時におじいちゃんから聞いた話だから、よく覚えてるわ」
「……」
「このお面ってもともと黒かったわけじゃなくて、焼け焦げて真っ黒になってるみたいなの。その上からおじいちゃんが長い間保管できるように少しだけ加工したらしいけどね」
改めて狐面をじっと見てみる。あの時と違い、窓から差し込む日の光の中で見る狐面は少しも怖くない。がさがさした表面が痛々しくて、ほんの少し触っただけで粉々になってしまいそうなほど脆く、儚く見えた。
「だからあの家を建てる時、おばあちゃんは最初は反対したそうよ。昔ここで火事があったのかもしれない、そんな土地に家を建てるのは縁起が悪いって」
そんな話、今まで一度も聞いたことはなかった。お母さん、お父さん、おじいちゃんとおばあちゃん、自分のルーツに関わる話なのに、今まで知ろうともしてこなかった。私、本当に何も知らないんだ。
「でもおじいちゃんはこのお面を見て、自分の地元で信仰されてたキツネ様だと思って家を建てることに決めたって言ってたわ。家も家族もキツネ様が守ってくれるに違いない、そう言って反対なんか聞かなかったって、おばあちゃん少し呆れてた」
「キツネ様?」
「おじいちゃんが生まれ育った土地で信仰されてる神様は、真っ白な狐を何匹も従えてるって伝承があるの。多分それのことを言ってたんだと思うけど……お母さんも詳しくは知らないなあ」
きっと少し調べれば、その神様の名前くらいは知ることができるのだろう。そしてその名前はきっと、私もどこかで一度は耳にしたことのあるものなのだろう。でもそれはきっと神様の無数にある呼び名のひとつに過ぎないんだ。
『ただ、こいつは違います。こいつは神ではなく神使なので、ちゃんと名前があります。ただ名乗らないだけで』
そうだ。私、あいつの名前だって知らない。
好きな名前をつけてくれなんて言ってるけど、あいつは本当の名前を私に教えてはくれない。それなのに私が名前なんかつけてしまったら、私とあいつの関係は今だけのものだって宣言しているようなものじゃない。そんなの嫌だから、私はあいつにどうしても名前をつけられないのだ。あいつが生まれた時に与えられた本当の名前を教えてほしいと思っているのに、あいつは決してそれを教えてくれない。
きっと、私との関係がいつまでも続くものではないと、あいつも分かっているから。
「お母さん。このお面、もらってもいいかな」
お母さんは少し不思議そうな顔をして私を見ていたけど、特に理由を聞いたりはしなかった。
「そうね。こんなとこで埃かぶってるよりは、悠子がもらってくれる方が、きっとおじいちゃんも喜ぶわよ」
*
今日ここですべきことはまだある。キッチンのカウンターの隅にぽつんと置かれた写真立てをふと見ると、そこではいつものように見慣れた二人が満面の笑みを浮かべている。春の陽射しの中で笑っている、まだ歩けるようになったばかりの私と、そんな私を抱っこしているお父さん。その笑顔に背中を押されるように、キッチンの中でお茶を淹れているお母さんの方を向いた。
「あの、お母さん。ちょっと相談したいことがあるの」
「え? なあに、どうしたの」
震える指をきゅっと握りしめる。お父さん、どうか私に勇気を貸して。
「少し前から考えてたんだけど……」
「うん」
「ここに帰ってくるの、これからは月に一回にしてもいいかな」
急須を置いて、お母さんはぽかんとした顔で私を見ていた。
やっぱり少し急だったかもしれない。だけど、前から考えていたのは本当だ。あいつに言われたからじゃない、きっかけはあいつの言葉だったけど、あいつに会う前から本当はずっと考えてた。
節約のためとか言ってずっとなあなあにしてきたこと、もうそろそろ私は向き合わないといけない。お父さんが死んだあの時、お母さんに何もしてあげられなかった自分を許すためにここへ毎週来ている、そんなの私の自己満足でしかなくて、お母さんにとってはいい迷惑だろう。
あの日から一人になってしまったお母さんを、私は一生放っておいてはいけないのだと、心のどこかでずっと思っていた。どうせ何もできない私にできることと言ったら、そうやってお母さんの心の慰みになることくらいだと、そう思っていた。毎週末には帰ってとりあえず元気な顔を見せて、月にほんの少しのお金を入れるだけで、あの時何もできなかった自分が少しずつ許されるような、そんな気になっていた。
でもお母さんはそんなこと望んでいないことも知っている。そして、お母さんはもうとっくに一人でも大丈夫だってことも。
『他の誰かじゃダメだ。悠子がいい』
あの時あいつが言ってくれた言葉で、やっと向き合う決心ができた。
今まで私が毎週ここに帰ることで、あいつに不安な思いをさせてきたのかもしれない。それに初めて気付いた時、もうやめなくては、と思った。あいつとの生活を大切に思うなら、自分の中の幼稚な自己満足からお母さんを解放してあげないといけない。
ふう、と小さなため息が聞こえる。
「そう。……なんか、寂しくなっちゃうわね」
「ごめんね。でも、これからも月に一度は帰るから」
あわててカウンターに手をかけて言うと、お母さんは柔らかく微笑んだ。
「いいわよ、悠子の気が向いた時に帰ってきてくれれば。それにちょうど良かったわ、これでお母さんも気兼ねなくお友達と旅行に行けるから」
「え、旅行……って?」
「うふふ、悠子にはまだ言ってなかったけど、去年の秋からお母さんパン教室に通ってるのよ。で、そこでできたお友達何人かと来月に旅行しないかって誘われてたんだけど、みんなの都合がつくのがどうしても週末しかないのよ。でも土日だと悠子が家に来るでしょ? だから断ろうかと思ってたんだけど」
お母さんの口から出てくるのは、何もかもが今まで全く知らなかったことばかりだった。去年の秋からって、それじゃもう半年近く通ってるってことか。そんなこと、今まで一言も話してくれなかったのに。
強張っていた両足から力が抜けていき、すぐ横にあった椅子の背もたれに体重をかけて何とか姿勢を保つ。
「なんだ……それなら言ってくれれば良かったのに」
「言えなかったのよ、悠子に悪い気がして」
「ええ? どうして」
お母さんは少しだけまつ毛を伏せて、視線を横に向けた。その視線の先にはさっき私が見ていた写真がある。
「なんだか悠子、お父さんが死んでからずっと寂しそうだったから。でもお母さんには何も言わないし……かと思ったら、お父さんの家の近くに部屋借りてさっさと出て行っちゃったし」
「それは……」
「お父さんが死んだ時、悠子のことほったらかしてたなあって、悠子が出て行ってから反省してたのよ。でも悠子は悠子でいろいろ思うことがあっただろうから、お母さんが何か言って悠子の邪魔にはなりたくないって、ずっとそう思ってたの」
知らなかった。そんなふうに思ってたなんて。
何もできなかったのは、お母さんをほったらかしてたのは、私の方だったのに。
ふとお母さんはこっちを向いて、晴れやかに笑った。
「悠子がいなくても、お母さんは大丈夫。自分でお友達も作れるし、旅行も行けるから。だから、悠子は悠子のやりたいことに時間使って」
「……うん」
泣きそうになってしまうのをぐっと堪えて、そう返事をするので精一杯だった。胸の奥がほんの少しだけ痛くて、だけどそれ以上に胸の中が満たされている。今日、本当に言いたかったことは、『今までごめんね』と『ありがとう』だったけど、どっちも言うことはできなかった。それでもいつかは言える自分になりたい。
「今度のお彼岸、久しぶりにお父さんのお墓参り行こうかな」
「そうそう、たまには来なさいよ。あんまり悠子が顔見せないから、お父さん拗ねてたわよ」
「なーにそれ、ふふ」
写真立ての中の私とお父さんは、窓から差し込む柔らかな明かりの中であの頃と変わらないままの笑顔で笑っている。




