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狐の恩返し  作者: 養生
第5章 梅の花の咲く頃
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5-1. 兄妹

「気になることがある」


 風邪が治り、ようやく体調も元に戻ってきたと言うのに、こいつは会社の帰りに神社へ来いと言い出した。別にここに来ること自体はいいんだけど、一応まだ病み上がりだし、寒空の下を下手にうろついてまた風邪をぶり返してしまわないとも限らないのに。

「それ、今日じゃないとダメなの?」

 首にぐるぐる巻きにしているマフラーに顔の半分くらいを埋めても、鼻の頭がひどく冷える。足の指先が凍えるように寒く、ほとんど感覚がなかった。先週末、あんなに降り積もっていた雪はこの一週間でだいぶ溶け、神社の境内にも土で薄汚れた雪の塊がところどころに残っているだけだ。週明けにはもう雪はやんでいて、雪に慣れていない都心部の交通網に多少の混乱はあったものの、今は少しずつ落ち着きを取り戻しつつある。

「大事なことなんだ、悠子の記憶についての」

 いつもより神妙な声色で話してはいるもののこいつもやっぱり寒いのか、滅多に巻かないマフラーで鼻から首にかけてをがっちりガードしていて両手を上着のポケットから出そうとしない。

「私の?」

「とりあえず先に謝っておく。先週、悠子が風邪引いた時、寝てる間に少しだけ悠子の記憶を読み取らせてもらった」

 悪びれている様子など微塵も感じさせない無表情のまま、狐はさらりと言い放った。

「え、いやいやちょっと、聞いてないんだけど! なに勝手なことしてくれてんの?」

「心配しなくても大丈夫。前にここで再現した、悠子の親父の家の記憶だから」

「ほ……本当に、それだけ? 他に何か変なもの覗いたり……」

「してない。これは本当」

 じっと探るように狐の目を見据えると、向こうも同じように私の目を真っ直ぐに見てくる。嘘を言ってるようには見えないし、こいつがそう言ってるんだし、信じてやるほかなさそうだ。甘いなあと自分でも呆れてしまうけど、今はとりあえずため息をつくだけでそれ以上は追及しないことにした。

「分かったわよ。で、お父さんの家の記憶がどうかしたの?」

「うん。あの家の階段なんだけど、壁にお面がいっぱい掛かってただろ?」

「え? ああ……うん」

「そのうちのひとつ、ちょうど階段のいちばん上のあたりに掛かってたお面がどんなものだったか、覚えてないか?」

「階段のいちばん、上? うーん……」

 そんなこと突然聞かれても、すぐに思い出せるわけがない。確かにあのお面だらけの階段の光景はインパクトがあるけど、何度もあの場所を通った私にとってはもはやただの風景の一部でしかなかったから、どこにどんなお面があったかなんて正確には覚えていない。

「……ごめん、思い出せないや。あの階段っていつも電気がついてなくて薄暗かったから、そんなにじっくり眺めたこともなかったし」

 狐は何も言わず、ただマフラーから出ているその目だけは何かを考えているようにどこか遠くを見ている。

「なんで急にそんなこと聞くのよ?」

「悠子の記憶の中で、そのお面があった場所から先に進もうとすると、何故かどうしても行けなかったんだ。あんなこと初めてで俺にもよく分からないんだけど、多分、あのお面が俺の神通力を跳ね返してたんだと思う」

 前にも何度か聞いた『ジンツウリキ』という単語のことをこの際だからちゃんと聞きたかったけど、どうもそういう雰囲気ではなさそうだった。要するに、こいつの記憶を読み取る能力が何故か私に通じなかった、ってことなのかな。

「あれ? でもさ、前にここであの家の記憶を再現してもらった時、あの時はちゃんと全部再現できてたよね。家の二階まで完璧に」

 こいつとここで会ったばかりのあの日のことを思い出す。あの家の二階にいた記憶の中のお父さんに触れようとした私を、こいつはすんでのところで止めてくれたっけ。あの時は確か、周りの風景におかしなところは特になく、ちゃんと全て私の記憶のとおりに再現されていたはずだ。

 すると狐はポケットから片手を出して、マフラーの中に手を突っ込んだ。

「あの時はこれがあったから」

 ごそごそと中を探り、出てきたのはあの狐面だった。

「どこにしまってんのよ」

「さみーんだよ。素手で持ってられるか、指が凍る」

 言いながら肩をすくめて、それでも狐面をしっかりと手に持ってまた話し始める。

「俺の神通力はほとんどこれに封じ込めてあって、これをつけてれば、誰のどんな記憶でも正確に再現することができる。でも、ただ人間の記憶を読み取るだけなら、こんなものに頼らなくたってできるはずなんだよ。なのにこの間は、あの家の階段に掛かってたお面が邪魔して悠子の記憶を読み取れなかった」

「……どういうこと?」

「だから聞いてんだろ。あのお面は何なんだ?」

「どういうお面だったか、それも分からない? 形とか、色とか」

「……分からないな。ただ白く光ってて、形も色も見えなかったし。前にここで再現した時は光ってなんかいなかったから、特に気にもしてなかった」

「うーん……」

 さっきからどうにかしてそのお面のことを思い出そうとしてはいるんだけど、あの薄暗い階段の光景がぼんやりと浮かぶだけでその細部まではうまく思い出せない。景色全体ならうっすらと思い出せるのに、そのお面だけを詳細に思い出そうとするとダメなのだ。まるで記憶の全てに薄い靄がかかっているみたいで、輪郭が霞んだようにはっきりしない映像だけが浮かんでくる。

「やっぱり思い出せないか?」

「うん。……あ、じゃあもう一回再現してみる? あの家の記憶」

 思い出すことを放棄して軽く提案してみると、狐はどこか満足げな目をして深く頷いた。

「話が早いな、さすが悠子。そのためにここへ呼んだんだよ」

「でも、あんまり人間にあの能力使うなって言われてるんじゃなかったの?」

「悠子が黙ってれば済む話だ」

 言い終わらないうちに、狐は手にしていた狐面を顔に当てていた。どうやら神様の言うことなどはなから守る気なんて欠片もないらしい。深いため息が出てくる。

「少しは躊躇するふりくらいしなさいよ。もし記憶の中で私の気がふれたりしたら、あんた神様に何されるか分かんないわよ」

「それは大丈夫。悠子が勝手なことしないように、今度はちゃんと俺が手繋いでるから」

 頭の後ろで朱色の紐をきゅっと結び、お面の位置を指で軽く調整すると、狐は私の前に歩み寄った。右手がぴたりと私の額に触れた時、その手のあまりの冷たさにびくりと身体が震える。

「冷たっ」

「悪い、すぐ終わるからちょっと我慢な」

「……もう」

 そっと目を閉じる。あの時と同じように、狐が私の耳元で囁く声がする。

「前にやったから分かると思うけど……余計なことは考えないで。それで、頭の中でしっかり思い出して。できる範囲でいいから、なるべく詳しく。できるだけ強く」

 ゆっくり息を吐き出して、深く吸い込む。頭の中を決して離れることのない、あの家の景色を思い出す。


 不意に、それまでずっと全身を包んでいた凍えるような冷気が消えた。

「よし、目開けろ」

 狐の声を合図に瞼を上げる。あの時と同じ、あの家の狭い玄関に立っていた。何度見てもやっぱりリアルだ、本当にあの家に戻ったみたい。あの家の匂いがして、寒さでほとんど感覚のない鼻をすすってしまう。

「おい、泣くなよ」

「な、泣いてないよ。ちょっと鼻水出てきただけ」

 あわててマフラーで鼻を押さえる。ぽん、と頭に大きな手が触れて、わしゃわしゃと不器用に撫でられた。びっくりして見上げても、狐はこっちを見ようとしない。ただ、その手つきは泣きたくなるほど優しかった。

「行くぞ。もたもたしてる時間ないから」

「うん」

 そうだ、三分間しかないんだったっけ。狐の手がふと私の頭から離れて、今度は私の手をぎゅっと握りしめた。

「えっ、なに」

「さっき言っただろ、手繋いでるって」

「あ、ああ……そうだっけ」

 繋いだ手がだんだん熱を帯びてくるのが分かる。


 狭い玄関で一人ずつ靴を脱ぎ、家に上がる。あの時と同じように、ついさっきまで誰かがそこで準備していたような晩ごはんのおかずが並ぶテーブルを横目に、玄関のすぐ横に伸びている薄暗い階段へと足を踏み入れる。

 さっきはどんなに思い出そうとしても思い出せなかったのが嘘みたいに、そこに掛けられたお面たちは細部まではっきりと再現されている。本当にこれ、私の記憶なのかな。そんなことを思ってしまうほどそのひとつひとつがひどくリアルで、何だか変な感じだ。

 鼻が長く赤い顔をした天狗のお面や、ごつごつしていてまるで本物の岩で作られているんじゃないかと錯覚するような不気味な鬼のお面。ああそうだ、確かにこんなお面があった。どれも不気味で怖くて、しかもいつも薄暗いこの階段は、まだ子供だった私にとって通ること自体が恐怖でしかない場所だった。それでも慣れとは不思議なもので、こんなにも異様な雰囲気の中を何度も通るうちに次第にその恐怖心も薄らいでいってしまった。何だってこんな怖いお面ばかり飾ってあるんだろう、と不思議に思い、いつかおじいちゃんに聞いたことがあったけど、旅先で何となく気になったものを買った、という何とも気の抜けた返事が返ってきただけだったのをよく覚えてる。

 私の前に立って階段を先に上っていく狐の足が、途中でぴたりと止まった。


「これ……」


 後ろから顔を覗かせて狐の視線の先をたどると、ちょうど階段を上りきるあたりの壁に掛けられたお面が見える。薄暗い中そこは周りよりも更に闇が深く、この位置からだとぼんやりとしたお面の輪郭くらいしか判別できそうもない。

 尖った二つの耳。鼻から口にかけて突き出た、特徴のある形。

「え……あれって」

 私がそう呟いたのとほとんど同時に、狐は弾かれたように残り数段の階段を駆け上がった。手を繋いだままだったから、私も引っ張られるようにしてその後に続く。

 そのお面の前に立つと、さっき見えていた輪郭は暗い中でもはっきりとした形を持ってそこにあった。

 紛れもなく、それは狐面だった。


 ドクン、と心臓がひときわ大きく脈打ち、一瞬だけど全身から血の気が引いたような気がする。改めてその狐面を見てみると、形はこいつが今つけているものと全く同じみたいだけど、色が違う。こいつの狐面は真っ白で、耳の穴や目元、口の部分に鮮やかな朱色の化粧が施してあるのに対して、壁に掛かっている狐面は炭のように真っ黒で化粧もない。それだけじゃなく、こんなに暗い場所で見てもその表面はがさがさとしていて、こいつのつるりとした狐面とはまるで別物なのは一目瞭然だ。

 そっと隣を見上げても、狐は固まったように動かなかった。白い狐面に隠れた横顔からは、どんな表情でこれを見ているのかは分からない。


「どうして……どうして、リンの狐面がここにあるんだよ」


「リン?」

 聞き返した時、手を繋いでいない方の狐の手がのろのろと上げられる。その指先が黒い狐面に触れようとした瞬間、はっとして繋いだ手をぐいと引っ張った。

「ダメ!」

「あっ……」

 その瞬間、あたりに白く厚い靄が立ち込め始める。靄が視界を覆う直前、あの時のことを思い出して階段の上を見上げた。突き当たりにある部屋の襖は開いていたけど、その奥に人影はなかった。


 *


 夢の中を漂っているように、身体の感覚がまるでない。

 気が付くとまたあの神社の境内に立っていて、全身を突き刺すような冷気が私たちを取り巻いている。それでもまだ繋いだままだった手だけは変わらずに熱くて、少しだけほっとした。

「ねえ、さっきのって……」

 茫然と突っ立っている狐を見上げると、白い狐面がはっとしたようにこっちを向いた。

「……リンの狐面だ」

 押し殺したような声が降ってくる。

「リンって?」

「俺の、妹だよ。大火で……死んだ」


『こいつには双子の妹がいて、かつては私の使いとして二人であの神社を守っていたのですが……あの日、逃げ遅れて』


 そうだ。いつか神様から聞いた。

 あれ以来そのことには一切触れていないし、こいつも話そうとしないけど、ちゃんと覚えてる。

 あれが、その妹さんの狐面だったの?

「本当に間違いなかったの? あんたのとずいぶん違ってるみたいだったけど」

 念を押すように聞いてみると、狐は小さく頷いた。

「見間違えるわけない、リンのだ。ひどく焼け焦げてたからすぐには分からなかったけど、俺の狐面と形も大きさも同じだった。ずっと見てたから分かる」

「焼け焦げて……じゃあ、元から黒いお面だったんじゃなかったの?」

「そうだよ、俺と同じ白いお面だった」

「……」

 何を思っているのか、狐はまた黙り込んで境内の外を向いている。鳥居の向こう、神社の入り口には、石造りの台座が両側に立っている。

 そうか、あの台座には昔、こいつと妹さんがそれぞれ座っていたんだ。あの時は特に気に留めなかったけど、今になってようやく分かった。

「なあ、悠子。あの狐面、今はどこにあるか知ってるか?」

 不意に聞かれ、顔を上げる。

「……分かんない。家にあったものは、お母さんが一人で全部整理してたと思うけど」

「捨てられたのかな」

 お母さんはあの家の人ではないし、特に思い入れがあったというわけでもない。でも、だからと言って何もかも全部処分するようなことはしないはずだ。昔から物を捨てられない性分だったし、実家は常にお母さんの趣味の本や道具で溢れかえっていて、そのくせ飽きっぽいから、お父さんに物を捨てろとしょっちゅうお説教されてたし。その場では素直に聞き入れてるふりをするんだけど、後でこっそり捨てずにとっておいたものたちをタンスや押し入れの奥にしまい込んで、その現場を私が発見すると『お父さんには内緒よ』と言って笑っていた。でも結局後になってお父さんに見つかってしまい、文句を言いつつも処分することになるんだけど。

「捨ててはいない……と、思う。とっておいてるかは、分からないけど」

「何か、心当たりあるのか?」

「もしかしたら、お母さんが何か知ってるかもしれない。今度実家に帰る時、聞いてみる」

 繋いだ手に、ぎゅっと力が込められる。

「……悪い、頼むよ」

 狐面で隠れて見えなかったけど、今にも泣き出しそうな声だった。

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