4-6. 今だけ
「便利な世の中になったもんだなあ」
電子レンジの中の皿を布巾で適当に拭きながらしみじみ呟くと、奥の部屋から悠子の声が飛んでくる。
「なに年寄りみたいなこと言ってんの」
「いやいや、火を一切使わないで雑炊作れるとか、ちょっと前ならありえなかったからな。お前みたいに生まれた時から便利な生活してた奴には想像できないだろうけど」
「ちょっと前って、それ『ちょっと』って言わないでしょ。とんでもなく前よ」
「はいはい、俺がジジイなだけですよ」
言いながらも、心の中で少しほっとしている。よかった、さっきよりもだいぶ元気になっているみたいだ。大量に買ってきたスポーツドリンクのペットボトルを一本持って部屋に戻り、ベッドの脇に座りながら悠子に渡した。
「ほら、ちゃんと水分とって。薬は飲んだか?」
「うん」
ベッドに座った悠子は大人しくそれを受け取ると、喉をこくこくと鳴らして飲んだ。まだ気だるそうな顔をしているけど熱はないみたいだし、このまましばらく休ませておいて様子見てればいいか。
特にすることもなく、ベッドの脇に肘をついてぼんやりと悠子を見ていると、ペットボトルから唇を離してあからさまに困ったような顔をされてしまった。
「……あんまり見られてると、飲めないんだけど」
「ああ、悪い。なんか新鮮だなーと思って」
「なにが?」
「今までずっと誰かに面倒みてもらうばっかりで、誰かの世話焼くのって初めてだから」
悠子はわざとらしくため息をついたものの、その表情はどこか嬉しそうに小さく笑っている。
「いいご身分で」
「んだよ、その言い方。言っとくけど、ちゃんと感謝してんだからな」
「どうだか……」
まだ悠子は疑っているみたいだったけど、俺は目を伏せて気付いていないふりをした。
『誰かに寄りかかって生きるなんて、俺にはとてもできませんよ』
あの男に言われた言葉をふと思い出す。
俺が悠子に寄りかかって生きているのは紛れもない事実だから、否定することはできない。あいつに言われたからってわけじゃないけど、こうやってどんなに小さなことでもいいから悠子に何かできないか、実はあれからずっと考えていた。恩返し、なんて柄じゃないけど、いつも世話になってることへ少しでも何かを返せたら。
「たまにはいいもんだな、こういうの」
本当に無意識に、そう呟いていた。悠子はひどく意外そうに目を丸くしてこっちを見ている。
「なんだよ」
「え、その……びっくりした」
「なにが」
「あんたでもそんなこと思うんだって」
「お前なあ、俺に対して失礼にもほどが……」
「あはは、うそうそ。ありがとう」
「え?」
悠子はベッド脇のサイドテーブルにペットボトルを置いた。
「風邪引いた時、同じ部屋に誰かがいてくれるっていいね。治るまでずっと一人なのかって思ってたから、あんたが来てくれた時、すごくほっとしたの」
珍しく素直な悠子の言葉に面食らい、さっき自分の言ったことが今になって急に恥ずかしくなってきて目を逸らした。
誰かに頼られたり、甘えられたり、必要とされたり。今までそういうものとは無縁の生き方だったから、こんなふうに自分のしたことに対してありがとう、なんて言われるのはひどく久しぶりのことだった。他人に頼られるということに俺は今まであまりいいイメージを持っていなくて、どちらかと言うと面倒なことだと思って避けていたような気がする。でもこれは、俺の抱いていた『頼られる』というイメージとはちょっと違う。胸の奥がこそばゆいような、変な感じ。でも嫌な感じではない。
「治るまで、って……電話しろよ、こういう時は」
「そう思ったんだけど、断られるかもしれないって思って」
「どうして」
「なんか、あれからずっと少し変だったから」
「……」
やっぱりそうだったのか。悠子に俺を拾った理由を聞きそびれた時からずっと、悠子は俺の態度がおかしいことに気付いていながら気付いていないふりをしてくれてたんだ。自分で言うのもなんだけど、そこまで分かりやすく態度に出していたつもりはない。表向きはいつもどおりにやっていたはずだ。でもきっとそう思っていたのは俺だけで、悠子はずっと気付いていたんだろう。
(痛い奴だなあ、俺)
何か思い悩んでいても顔に出さず、悩みなんてありませんって顔を装うことは昔から得意だと、そう自負していたのに、実はこんなあっさりとバレていたなんて。
黙り込んだ俺の顔を少し下から覗き込むように、悠子は遠慮がちに聞いてくる。
「あの時のこと、気にしてる?」
本当はもう、聞くまでもないのだろう。だけどわざわざ聞いてきたということは、悠子は俺と向かい合おうとしてくれているんだ。嬉しいと思わなきゃいけないはずなのに、今の自分の気持ちがよく分からない。
「あの時って?」
「私がどうしてあんたを拾ったのかって話」
「別に……気にしてないけど」
ベッド脇に頬杖をついて、また目を逸らした。視線の先に、閉じたカーテンの隙間が少しだけ開いているのが見える。窓の外ではまだ雪がひらひらと空を舞っていた。驚くほど人の気配がしない、何の音もしない、しんとした部屋の中に、俺と悠子だけ。
「あんたを拾えば、昔何もできなかった自分を許せると思ってたのってやつ。正直に言うとそのとおりだったよ、だからあの時すぐに答えられなかったの」
俺は落ちてくる雪を見たまま、悠子の声に耳を傾けた。目は合わせられそうもない。
「確かに最初はそうだったかもしれないよ、それは認める。でも、今はそうじゃないよ。……分かるでしょ?」
『最初は確かにそうだったよ。別に悠子じゃなくても良かったんだと思う。でも今は違うだろ? それとも、そう思ってるのは俺だけなの?』
いつか俺も、同じことを悠子に言った。
あの時はただむしゃくしゃしてああ言っただけで、言葉の意味までは深く考えて言ってなかったような気がする。でも、今は違う。自分が言ったことも、悠子が言っていることも、今の俺にはちゃんと分かる。
「……言わないで俺に察してもらおうとか、いくらなんでもムシが良すぎるだろ」
「え?」
自分のことを棚に上げて、小さく吐き捨てるようにそう呟く。本当に、俺はなんて臆病者なんだろう。自分がどう思ってるかも言えないのに、悠子がどう思ってるのかを言葉で聞きたがっている。こんな女々しいことをする男ではないと、自分はもっと淡白な性格だと、ずっとそう思っていたのに。
「俺は神様じゃないから、お前が考えてることなんて分からない」
「あんただって、同じようなこと前に言ってたでしょ」
「分かんない、分かんないよ。ちゃんと言ってくれなきゃ」
言いながら悠子の顔を真正面から見てしまった。思ったとおり、悠子は困惑した表情のまま固まっている。
「ちゃんと言って。今は俺のこと、どう思ってんの?」
すぐには何も言わなかったけど、悠子は髪を手で押さえながらうつむいた。
「あんたが先に言ってよ。……私のこと、どう思ってるの?」
「これだけ言ってんのに、まだ分かんないの?」
そうだ、もうとっくに分かってる。悠子も、俺も。俺の気持ちなんて。
なのにどうして言えないんだろう。きっと分かっているから。言葉にしてしまったら、それが悠子を縛りつけること。ずっと一緒にはいられないこと。
「俺には、悠子しかいないんだよ」
だから俺は、こんな言い方しかできないんだ。
「……どうして?」
俺を見る悠子の瞳は吸い込まれそうなほど深く、暗い色をしている。
「だって私、人に褒められるようなところ何もない。美人でもないし、そんなに稼いでもないし、どこにだっている何の取り柄もない女なのに。こんなのの何がいいの? あんたは私じゃなくても、誰でもいいんでしょ?」
「違うよ」
少しだけ身を乗り出すと、ベッドが軋む音がした。布団の上で悠子の柔らかい手をぎゅっと握りしめる。
「他の誰かじゃダメだ。悠子がいい」
世界から音が消えたようだった。窓の外で雪が降り積もる音さえ聞こえそうなほど、部屋の中は怖いくらい静かだった。
「どうして悠子なんだろうとか、どんなところがいいとか、そういうのって今ならいくらでも言えるけど、そんなの全部後付けだろ。本当の理由なんていくら考えたって分かるもんじゃないんだよ」
「……」
「それって、どうしても必要なことか? それがないと、俺の言ってること信じてもらえないの?」
悠子は下を向いてしまった。
「分かんないよ、そんなの……私に、聞かないで」
「悠子に分かんないなら、俺に分かるわけないよな」
「……あんたはいつもそうやって、考えることを放り出してる」
「考えたって分かんないものは分かんないって」
悠子の手を握る指に力が入ってしまう。一瞬だけど、悠子の指がびくりと震えた。
「心配しなくても、何もしないよ」
「別に、心配なんか……」
「悠子に捨てられたら俺、生きていけないんだからさ。悠子の嫌がることなんかするわけないじゃん」
名残惜しかったけど、悠子からそっと手を離す。行き場を失った俺の手のひらは数秒だけ宙をさまよい、悠子の頭にぽんと乗せられた。
「早く元気になれよ」
そのまま立ち上がろうとしたのに、俺が手を下ろしたのとほとんど同時に悠子の手が俺の服の袖を引っ張った。
「……なに?」
なるべく優しく聞いてみる。悠子はじっと俺の目を見たまま、頬をほのかに赤くしていた。熱はないはずなのに少しだけ虚ろなその瞳が、何かを迷うように揺れている。何か言おうとして、やめて、それを何度か繰り返した時、その唇が微かに震えていることに気付く。とく、とく、とく、と耳の奥で聞こえる少し速い鼓動は俺のものなのか、それとも悠子のものなのか、そんなことすら分からない。
「わ、私は……あんたと、一緒にいたい」
きっとそれが、悠子の精一杯の答えなんだろう。だけどそれを聞いた途端、それまで胸につかえていたものがすうっと音もなく溶けていくのを感じた。
ほっと息を吐き出して、悠子の赤い頬に手で触れる。少しだけ顔を寄せても、悠子は戸惑った目をしてはいるものの俺から距離をとろうとはしなかった。
「一緒に暮らしてるうちに、少しは俺に情が移った?」
少し卑怯な言い方だったかもしれない。
「そんなの、当たり前でしょ」
「じゃあ、俺に気持ち傾いてる?」
どう聞けばいいんだろう、どう言えばいいんだろう。どうすれば悠子は、俺の欲しい言葉をくれるんだろう。今の俺がこんなに頭をフル回転させてそればかりを考えていること、悠子は気付いているんだろうか。こんなダサい自分に気付いてほしくはなかったけど、全く欠片も気付いてもらえないのもそれはそれで嫌だった。
「……少し、だけ」
消え入りそうなほど小さな声が、部屋の暖められた空気の中へ溶けていく。それが消える前に捕まえてしまいたくて、俺は悠子の唇に触れた。
ああ、やっとできた。
たったこれだけのことなのに、俺は心の底から嬉しかった。
そしてやっと気付く。俺も人間と大して変わらない、ただの男なんだと。気持ちがないと触れることもできない、悠子のことを決して笑えないほど、どうしようもなくダサくてみっともない奴なんだと。
悠子に触れて、初めて気付いた。
こうやって触れて初めて気付く気持ちも、確かにあるんだな。情が湧くとか、情が移るとか、そんな頼りない気持ちじゃなくて、こんなに確かな気持ちが自分の中にちゃんとあったことが、今はどうしようもなく嬉しかった。
そっと離れると案の定、悠子は非難に満ちた目で俺を見ている。
「……何もしないってさっき言ったよね」
「嫌だった?」
「うるさい、バカ」
「これ以上は何もしないって」
「当たり前でしょ!」
飛んできた悠子の拳を笑いながら片手で受け止める。この数日間、俺と悠子の間にあった靄のようなものが消えていくのが分かった。
自分が幸福だということはいつも、後になってから気付くものだと思っていた。あの神社でただ毎日を漫然と過ごしていた日々も、失ってから初めてあれが幸福だったのだと気付いたから。幸福はその中にいる時は目に見えなくて分からないものだと思っていたけど、今の俺にははっきりと見えるし、ちゃんと分かる。
俺は今、幸福だと。
悠子が隣にいる今の生活は、俺にとって幸福そのものだ。
いつからそうなっていたのかはもう、今となっては分からない。いつの間にか自分でも気付かないうちにそうなっていて、でもきっとそういうものなんだと思う。
『もしあの時、神社に入ってきたのが悠子じゃない別の人だったらとか、そういうことって今になって考えてもどうしようもないだろ。だってもう、俺は悠子と会ったんだから。今の俺には悠子しかいないんだから』
いつか腹立ち紛れに悠子に言ったあの言葉の意味も、今ならはっきりと分かる。ああ、そうだ。俺はもう、あの時にはとっくにこの生活を幸福だと思っていたんだろう。出会った時がどうだったかなんて本当はどうでも良くて、今がどうなのかが大切だって、ちゃんと自分で分かってたんだな。
気付いてしまえばそれはこんなにも簡単なことなのに、どうしてこんなにも時間をかけないと気付くことができなかったんだろう。
「俺には、悠子しかいないよ」
何度こんなこと言ったって悠子には届かないことも分かってたけど、言わずにはいられなかった。予想していたとおり、悠子は呆れたようにため息をついている。
「そんなこと言わなくても、いきなり捨てたりしないから安心して」
「いや、ほんとほんと」
「軽すぎんのよ、あんた」
「はは」
伝わらなくていい。分かってもらおうなんて思ってないから。いつか終わるものだと分かってても、長くは続かないものだと分かってても、今ここに確かにある幸福を壊したくない。だから、望まずにはいられないんだ。
ちゃんと俺のこと見て。
記憶の中の誰かじゃなくて、今お前の目の前にいるこの俺を。
今だけでいいから、ずっと一緒にいたいなんて言わないから。
誰かにこんなことを思うのは、初めてだった。
*
ほんの少しだけ部屋の照明を暗くして、そっとベッドの脇に座る。ようやく眠った悠子の寝顔をぼんやりと眺めていると、自然とあくびが出てきた。
「ふあ……」
どうするかな。明日また様子を見に来ればいいし、食料は買い込んであるから今日はもう帰ってもいいんだけど、あと少しだけここにいるか。しかし、あんなに俺を警戒していたくせに、本当にこのまま寝るとは思わなかった。やっぱり風邪で体力も落ちてるだろうし、疲れてたのかもしれない。
せめていい夢でもみられれば、少しはゆっくり休めるんだろうけど。ふとそんなことを思いつき、悠子の前髪をそっとかき分けて額に手のひらをぴたりと当てた。
「……」
できるかどうか分からないけど、やってみるか。
悠子の記憶の中にある、父親の家。前に一度読み取ったことがあるだけで、今ではあんまり思い出せないけど、もう一度あの記憶を読み取って悠子の意識の中に再現できないだろうか。目を閉じて深呼吸し、悠子の記憶を探る。
古いけど細部の装飾には拘って作られていた扉を開けた瞬間、奥まで一気に丸見えの狭い家。居間も台所もとんでもなく狭くて、だけど大切にされていたことは俺にもちゃんと分かった。玄関のすぐ横には人一人しか通れないほど狭くて急な階段が伸びていて、あの時は悠子の後を追って俺もその階段を上ったっけ。本当は玄関で待っているつもりだったんだけど、何となく嫌な予感がして追いかけたのをよく覚えてる。
見上げると上は薄暗く、途中の壁には色褪せた壁紙の上にいくつか変なお面が掛けられていて、何とも異様な雰囲気を醸し出していた。
ああ、そうだ。あの異様な雰囲気に、あの時の俺は階段を上るのを一瞬ためらった。何だってあんなものを飾っていたんだろう。人ではない俺でも引くほどあの場の空気は異様だった。
気を取り直してその階段の光景の中を上っていく途中、その壁に掛けられたお面のうちひとつが不意に白く光った。それに意識を向けようとした時、バチッと強い静電気のような衝撃が頭の奥に走った。
「いてっ……!」
まるで強力な電流が流れたような、激しい痛みだった。反射的に悠子の額から手を離すと、それまで見えていた悠子の記憶の映像が白い靄になって消えていく。
(……あれ)
なんだ、今の?
おそるおそる悠子の額にもう一度手を置いてみても、今度は何の衝撃もない。目を閉じてもう一度さっきの記憶を読み取ろうとしても、あの階段のところまでは見えるのに、その途中から先がどうしても見えない。近づこうとすると白く厚い靄があたりに立ち込めて、それ以上先に進むのを阻まれてしまう。
もしかしてこれ、俺の神通力が跳ね返されてるのか?
俺の神通力はほとんどあの狐面に封じ込められていて、あれがないと本来の力を全て出せないようになっている。どうしてそんなことをする必要があるのかはまさに『神様のみぞ知る』わけで、俺は今まで特に気にしたことはなかった。要するに今の俺は神通力のほとんどを制御された状態というわけだけど、それでも人間の記憶を読み取るくらいは狐面に頼らなくても難なくできるはずだ。
(……どういうことだ?)
眠り続ける悠子を茫然と見ていると、胸の中に白い靄のようなものがざわざわと立ち込めてくる。窓の外の雪はいつの間にかやんでいた。




