4-5. 憧憬
どうも今週はやけに冷えるなと思っていたら、金曜日の夜から雪が降り始めた。関東の平野部で雪が降るのは俺の記憶が確かなら数年ぶりのことで、テレビでも降り始める前から予測される降雪量や不要不急の外出を控える呼びかけが連日のように流れていたけど、どうせ少ししか降らずに肩透かしを食らって終わるのだろうと思っていた。そんな俺の予想はどうやら外れたらしい。
(積もるかもなあ……)
神社の裏にある小さな庭で、うっすらと雪の積もり始めた芝生を見てげんなりしてしまう。狭い庭の真ん中に一本だけ立っている丸裸の木も、何本かの細い枝が雪で白く覆われていた。重みで折れないといいんだけど。
この社の中は俺の神通力で適温に保たれているけど、さすがに外までは俺の力は及ばない。積もると足元が悪くなるから嫌なんだよな、こんなことなら今日のまだ明るいうちに悠子の部屋に行っておけば良かった。
いや、ダメか。悠子のことだから最初は帰れと言うだろうけど、俺が少し困った顔を見せればきっと部屋に泊めてくれるはずだ。あいつのヒモ同然の生活をしている俺が言うのもなんだけど、悠子のそういうところは本当に直すべきだと思う。
そしてきっと泊まってしまったら、俺が悠子にまた迫ったら、悠子は本気で抵抗はしないと思う。もちろん口ではやめろと言うだろうけど、そのまま流されてしまうであろうことは明らかだった。何の根拠もないけど、俺には分かる。あいつはそういう奴だから。
「……寝よ」
頭の中のバカげた考えを追い払うよう、不自然な独り言を口にして縁側の引き戸を閉めた。明日は土曜日だから、悠子は実家に帰ってしまう。また悠子にしばらく会えない。
*
雪は夜が明けてもまだしんしんと降り続いていた。いつものように昼過ぎに起きて少し待っていればそのうちやむかもしれない、という俺の淡い期待を嘲笑うかのように、窓の外では牡丹雪が音もなく降り積もっていく。空は白く重たい雲で覆い尽くされていて、一筋の光すら差さない。陰鬱な気分のまま日没までぐずぐずとしていたけど、そろそろ腹が減ってきた。悠子の部屋に行かないと。
週末の夕飯時だというのに、駅へ続く道の人影はまばらだった。雪なんか降っていなくてもこのあたりはただでさえ人通りが少ないから、今日はさっきからほとんど人とすれ違わない。ずいぶん前に面倒をみてくれていた女に買ってもらったきり、しまい込んだままになっていたマフラーに口元まで埋まる。すっかり厚く積もってしまった雪には誰かが歩いた跡が獣道のように伸びていて、その上にまた新しい雪が薄く積もり始めていた。
「……」
寒い。身体の芯から凍えるみたいだ。マフラーの中ではあと吐き出した息が、靄のように立ち昇って消えた。
『ねえ見て、兄様! 雪、こんなに積もってる!』
雪なんて何度も見てきたのに、こんなに寒いもんだったっけ。思い出そうとしても寒いという感覚はあまり印象に残っていないのかうまく思い出せず、その代わり蘇ってくるのはあの時見ていた光景だけ。降り積もった雪よりも白い、長い髪。俺の髪と同じその色を、いつか悠子は月の色と同じだと言ってたっけ。
(……あ、そう言えばあの木の枝。出てくる前に雪払い落としてくれば良かったかな)
昨夜見た裏庭の景色を思い出す。雪の重みで折れそうなほど頼りない枝のことが、少しだけ気にかかった。せっかくもう少しで咲くかもしれないのに。
「……あれ」
ようやく悠子の部屋に着くと、いつもと様子が違っていた。ドアには明かり取りのための小さな窓がついていて、部屋の電気がついていると外から一発で在宅していることがバレてしまい、悠子はそれをひどく嫌がっていたけどこれを塞ぐと昼間は玄関が真っ暗になってしまうから仕方なくそのままにしてある。週末、悠子は実家に帰っているから、当然そこは真っ暗なはずだ。それなのに、今日はその小窓から煌々と部屋の明かりが漏れている。
あわててドアに駆け寄り、悠子に借りている合鍵で鍵を開けた。
「悠子?」
中に入り後ろ手でドアを閉めながら呼びかけても、部屋から返事はない。でも玄関も短い廊下も奥の部屋も明かりがついている。靴を脱ぐと足が少し雪で湿っていてひどく不快だった。いつもならこのまま部屋に上がると悠子が怒るんだけど、今はそれどころじゃない。
早足で奥の部屋に駆け込んでも、そこには誰もいなかった。
「ゆう……」
もう一度名前を呼ぼうとした時、ここから死角になっている壁に寄せてあるベッドの上で布団がもぞもぞと動いた。
「……あれ、来たの? 雪降ってるのに」
「悠子? どうしたんだよ、実家は?」
ほっとしてベッドに駆け寄る。布団から身体を起こして座った悠子はいつもの変なTシャツ姿だった。いつもよりひどく気だるげな表情で、俺を見る目もどこか虚ろでぼんやりしている。
「なんか、風邪引いたみたいで」
「え? いつから」
「んん……一昨日から何となくそれっぽかったけど、昨夜からすんごいだるくて」
「熱は?」
「ない。多分、寝てれば治ると思うんだけど……」
言い終わらないうちに、悠子の額に手を当てた。冷え切った俺の手はほとんど感覚がなく、悠子の体温が平熱なのかどうかも分からない。
「……冷たい」
目を閉じてうわごとのように悠子が呟いた。
「あ、わ……悪い」
あわてて手を離す。急に温かいものに触ったせいか、悠子に触れたところだけが燃えるように熱い。
「じゃあ、今週は実家行かないのか」
「うん、お母さんにも電話した」
「そ、っか……」
無意識のうちに、ほっとため息が漏れてくる。って、安心してる場合じゃない。
「メシは? ちゃんと食ったか」
「お昼にスープ飲んだ」
「それだけ?」
「なんか食欲なくて……」
「ちゃんと食わないと治らないだろ。俺が何か買ってくるよ。あ、薬は? 風邪薬」
「えっ、いいよ。そんな」
「いいから大人しく寝てろ、動くな」
起き上がろうとした悠子の肩を制して、強制的に布団の中へ押し込んだ。悠子は特に抵抗することもなく、元どおり布団の中に埋もれる。
「食欲ないなら、お粥とか雑炊がいいか。飲み物も少し多めに買ってくるから、ちょっと悠子の財布借りてくな」
床に転がっていた悠子の会社用のバッグを開けて、財布を取り出す。買い物袋も借りて行った方がいいかな。
「……ごめんね」
「え?」
買い物袋はどこにあるのか聞こうと振り向いた時、消え入りそうな声が聞こえた。悠子は横になったまま、布団から顔だけを出してこっちを見ている。いつになく気弱そうなその目が痛々しく思えた。
「外、雪降ってて寒いのに」
「悪いと思うんなら寝てろよ」
「うん……」
*
いつもなら難なく運べる量だけど、こう足元が悪いとそれだけで余計な体力を消費してしまう。なるべく人が歩いた跡を選んで歩くよう気を付けているのに、人通りのない道で切れ目なく降り続く雪はそのわずかな足跡の上にもどんどん積もってしまって、ほとんど新雪の雪野原を歩いているようなものだった。来た時はあんなに凍えていた身体も、歩いているだけで次第にじんわりと汗が滲んでくる。
これ、放置したら今度は俺が風邪引くよな。悠子には悪いけど、部屋に着いたらタオルくらい貸してもらっても罰は当たらないだろう。肩から少しずり落ちてきた買い物袋を持ち直し、もう諦めてまだ誰も歩いていない雪の上を一歩ずつ踏みしめながら歩いていく。ぎゅっ、ぎゅっ、と雪を踏み固める音でさえ大きく聞こえるほど、あたりは静かだった。
ふと、上着のポケットの中で入れっぱなしだった端末が短く振動した。悠子かな、そう思って一旦立ち止まり、端末を取り出すと画面には神様の名前がある。
(なんだ、珍しい。向こうからライン送ってくるなんて)
どうせろくでもないことだろうとは思ったけど、とりあえず既読にしておかないとまたうるさそうだしな。
『悠子様に迷惑のないようやっているか?』
やっぱりろくでもないことだった。内容を確認したことを後悔しながらまた歩き出したものの、放置したらしたで早く返事しろとか言いそうだな。あれ以来何も言ってこないのが正直ちょっと意外だったけど、やっぱり神様の俺に対する信用は小指の爪ほどもないのだろう。
(……めんどくせ)
仕方なく、すぐそこにあった電柱の前で立ち止まる。肩から買い物袋を下ろして、端末の画面に返事を打ち込んだ。
『ご心配なく。今は風邪引いた悠子の代わりに買い物して帰るとこ』
心配するなと言ってもどうせ聞かないんだろうけど。送信ボタンを押すと、十秒もしないうちに神様から電話がかかってきた。思わず盛大にため息をついてしまう。無視してもいいけど、そうすると後が面倒だ。
「……はい、何か用?」
『何故悠子様は風邪を引いたんだ? 貴様が無理をさせているからじゃないだろうな』
開口一番、いつもどおりの小言が始まった。神様は俺をなじっていないと死ぬ病気でも患っているんだろうか、そんなことを思うくらい俺は神様に叱られたり責められたりした記憶しかない。
「知らねーよ。どんなに健康な奴でも風邪くらい引くだろ」
『まあ、ここのところ急に冷え込んだからな。そっちも雪は降っているんだろう?』
「ああ、積もってるよ。総本宮も?」
『こっちは雪が積もることなど珍しくもないからな』
「ふーん……」
俺は総本宮には数える程度しか行ったことがない。そもそも、この町から出たこと自体が数える程度しかない。俺にとってはこの町こそが世界の全ても同然だった。きっとこの町の外には俺なんかには想像もできないくらい広い、広い世界がどこまでもあるんだろう。でも俺がそこへ出て行く日は来ないと思ってたし、別に来なくてもいいと思っていた。
この町にいられれば、それでいい。俺にはこの町が世界なのだから。
「話はそれだけ? 俺、今外にいるから寒いんだよね」
何となくそれ以上話を続けられそうもなく感じて、電話を切ろうとする。
『話がある、というわけではないが』
「はあ?」
なに付き合いたての恋人同士みたいなこと言ってんだ。
「用がないなら切るけど」
『なあ』
相変わらず俺の話を聞いていないらしい。みなまで聞かず一方的に切ろうと思った時、受話口から聞こえてきた言葉が俺の指を止めた。
『そろそろ、あの時のことに区切りをつけてもいい頃ではないのか。貴様の中で』
電柱に取り付けられた街灯が、道路に積もった雪をぼんやりと照らしている。そのわずかな明かりの中で、降ってくる牡丹雪がひらひらと影を落としてはまた降り積もっていく。見慣れた町の見慣れない景色は怖いほど綺麗で、別世界にいるようだと思うほど幻想的だった。
「……そんなこと言うために、わざわざ連絡してきたのか?」
自分でも驚くほど感情のない、冷めた声だった。ほんの一言二言喋っただけでそれは白くあたりに漂い、まるで言葉がそのまま空気の中に浮かんでいるみたいだ。
『あの日その場にいなかった俺が軽々しく言えることではないのは分かっている。貴様にも思うことはあるだろう。だが、リンのことはどうすることもできなかったんだ。貴様が責任を感じる道理はない』
偶然だったんだろうか。さっき悠子の部屋に向かう途中も、俺はあいつのことを思い出していた。やっぱり、この雪のせいなのかもしれない。夜に降り積もる雪を見ると、俺は嫌でもあの日のことを思い出す。
「……分かってるよ」
『なら、いつまでそこにいるつもりなんだ』
「あと……少しだけ」
この町にいたい。そう言おうとしたし、それは本当だった。だけど、言えなかった。
「リンのこともあるけど、今は……それだけじゃないんだ」
『悠子様に情が移ったか』
今までずっと胸の奥で引っ掛かっていた何かが、その時すっと取れた気がした。
情が移る。
俺はその言い方に、あまりいい印象を持っていない。まるで拾った犬や猫に対して抱く感情みたいで、人に対して抱くものの呼び方ではないような気がするからだ。でも、今の俺が悠子に対して抱いているのはまさにそれなのだ。それ以外にしっくりくる言い方が思いつかない。
好きだとか愛してるとか、普通はそう呼ぶ感情を人は誰かに対して抱くものだと思っていたけど、それだけじゃなかったんだな。言葉で言い表すのはすごく難しくて、あやふやで、頼りなくて、でも確かに感じているこの気持ち。いつからこんな気持ちが俺の中に芽生えていたのかは、もう分からない。ずっと前からだったのかもしれないし、つい最近だったのかもしれない。悠子に触れて初めてそう思ったのかもしれない。
『自分がどう思ってるかもまだ分かんないのに、触ったらあんたに気持ちが傾くかもしれない。それが、怖い』
ああ、そうか。悠子が怖いと言っていたのは、これのことだったのか。俺に情が移るのが怖いと、そう言ってたんだ。こんな打算も損得勘定も何もない、ただ一緒にいたい、それだけの気持ちを俺に抱くのが怖いと。
「よく、分からない」
それが嬉しいことなのか、悲しいことなのかも。だってこんなことを誰かに対して思うのは、これが初めてだったから。
「でも俺、もう少しだけここにいたい」
『分かっているとは思うが、貴様と悠子様では生命の時間が違いすぎる。いつまでも一緒にいることなど……』
「分かってるよ。だから一緒にいたいんだ」
『……』
「今しか一緒にいられないんだよ。死ぬまで一緒にいたいなんて、言ってないだろ」
『……好きにしろ』
電話は一方的に切れた。
なんて静かな夜なんだろう。雪が世界中の音を全て吸い込んでいるみたいだ。
端末をポケットにしまい、荷物を持ち上げてまた歩き出す。見慣れない景色の向こうに見慣れたアパートが見えてきて、少しだけほっとした。
俺と比べると人間たちの命はあまりに短くて、だから今まで誰とも真っ直ぐに向き合ってこなかった。俺には大事な人なんていない、そう言い聞かせて今までずっと生きてきた。
それでも本当は羨ましかった。大事な人と同じ時間を生きて年を重ねていける人間に、心のどこかで憧れていた。俺にはもう二度とそんなことはできないのが分かっているから。
いつまでも一緒にいられると思ってた奴と一緒にいられなくなったり、今しか一緒にいられない悠子といつまでも一緒にいたいと思うようになったり、どうしてこの世界はこんなにも思うとおりにいかないんだろう。俺が欲しいものは、俺が願うことは、そんなに叶うのが難しいことばかりなんだろうか。ただ自分にとって特別な奴といつまでも一緒にいたい、俺の願いはたったそれだけで、他には何も望んでいないのに。
昔も、今も。
『ねえ見て、兄様! 雪、こんなに積もってる!』
『おい、ちゃんと履き物履けよ! 裸足で雪の上歩いたら、しもやけになるぞ』
『平気だって! すごいすごい、綺麗ね』
夜に降る雪が嫌いだった。
世界の何もかもを白く覆い尽くし、色を失ったその景色の中で一人、小さな子供みたいにはしゃぐあいつを思い出すから。




