4-4. 本性
電車なんて乗ったのは何十年ぶりだろう。なるべくあの町を生活の拠点とするよう生きてきたから、いつからか行動範囲も自ずとあの町の中で済むようになっていたのかもしれない。
悠子の勤めている会社の最寄り駅で降りると、ホームから階段を上って駅構内に向かう。天井から下がっている案内表示のとおりに進んでいたはずなのに、悠子に聞いていた改札口とは違う名前の出口が見えてきた。
(あれ、階段上ったら左に進むんじゃなかったっけ)
立ち止まってあたりをきょろきょろ見回していると、後ろから歩いてきた太った男のカバンがどんと足にぶつかる。そいつは謝るどころか俺をちらりとも見ず、さっさと改札を出て行った。
ったく、感じ悪いな……この国、前からあんな奴らばっかりだったっけ。それにしても人が多すぎる。こんなに人でごちゃごちゃしているところを歩くのは初めてで、さっきからこの人混みで酔っているのか足元が少しだけおぼつかない。壁に寄ってそこにもたれかかり、端末を取り出して駅周辺の地図をもう一度確認してみる。
あ、しまった。まだ改札から出てない段階で迷ってるんだから、駅周辺の地図なんか見たって意味ないんだ。駅構内の地図を探さないと。
(……ああ~もう、めんどくっせ)
深い深いため息が出てくる。
どうしてこんなところに来たのかというと、今日の午前中に突然かかってきた悠子からの電話が全ての発端だった。俺はいつものように神社の社で昼まで寝ているつもりだったのに、珍しく悠子の方からかかってきた電話で強制的に覚醒させられてしまったのだ。
『は~い。何か用……』
『一生のお願い! 社員証置いてきちゃった、会社まで持ってきて!』
『……はあ?』
よく分からないけど、それがないと会社に入れないということらしい。とりあえず午前中は会社の人に事情を話して入れてもらったけど、社員証と一緒にケースに入れて携帯している入退室カードは会社の出入りに使うだけではなくて、他にも何やらいろんな機械を使う時に必要らしく、持っていないと仕事にならないようだ。
『だったらもう今日は帰っちゃえばいいじゃん』
『バカ言わないで。それに、どうせあんた暇なんでしょ? たまには私のお願い聞いてよ』
『面倒くせえなあ。俺まだ寝てる時間なんだけど』
『持ってきてくれたら、今日帰りにたい焼き買ってくよ。あんたの好きなあんこ二つ』
『……まあ、そこまで言うなら』
『良かった、ありがと! じゃあ住所はこの後送るから、地図アプリか何かで検索して来て。分かんなかったら電話してね』
『りょーかい』
別に、たい焼きにつられたわけではない。面倒くさいのは確かだったけど、悠子が俺に何かを頼むのはとても珍しいことだからだ。それがなくても、この間のことで悠子に対して何となく負い目を感じているのも否定できない。
『悪い。……また今度な』
思っていたとおり、あれから悠子の態度はいつもどおりだった。あの日のことはまるでなかったことみたいになっていて、俺の方も特にそのことについて触れることもなく時間だけが経ってしまっている。
よくよく思い返してみればあの日、特別な何かがあったというわけではないし、険悪な空気が俺たちの間に流れているというわけでもない。もしかしたら悠子の方は何も気にしていなくて、俺だけがこんなにあの日のことを気に留めているだけなのかもしれない。だけど、それはそれで嫌だった。なかったことにされるのが、俺はいちばん怖かった。
だけど、だからと言って悠子にどう思っているかなんて聞けるはずもない。どうすることもできないまま、俺はただ自分の中で生まれてしまったわけの分からないこの気持ちを持て余していた。
とにかく一旦来た道を引き返そうと思い、方向転換して歩き出したその時、またしても後ろから歩いてきた誰かと肩がぶつかってしまう。その衝撃で俺の手から端末が滑り落ち、硬い床に当たってカシャンと冷たい音を立てた。
「おっと、すいません」
拾おうとした俺よりも先に、その誰かがひょいとかがんで端末を拾い上げる。
「いえ……どうも」
「壊れてないといいんですけど」
受け取った端末を見ても、画面には傷ひとつついていない。何度か指で触ってみても、特に異常な動きは見せなかった。
「大丈夫っぽいです、ありがとうございます」
一応、感謝の言葉を口にしながらそいつを見た。若い男だった。背は俺よりわずかに低いけどすらりとした体格で、コートの下に覗く少し細身のスーツが嫌味ったらしいほど様になっている。清潔感がある髪型だけど適度に毛先を遊ばせている黒髪に、少しだけ隠れた黒縁の眼鏡。涼しげな顔立ちの中でも特に目立つまだあどけなさの残る大きな目が、その眼鏡のせいでどこか野暮ったく見えた。この眼鏡さえなければ爽やかなアイドル系の容姿をしているのに、なんでこんなダサい眼鏡かけてるんだろう。男に対してもったいない、などと思ったのはこれが初めてだ。
さっさと歩き出そうとした時、そいつは唐突に聞いてきた。
「もしかして、道に迷ってますか?」
「え? あ……まあ、そうですけど」
なんで分かったんだ。
「やっぱり。地図見てたみたいだから、そうかなって」
ああ、これか。さっき受け取ったばかりの端末に目を落とした時、ふと思いつく。わざわざそんなこと聞いてくるってことは、ひょっとして道案内できるくらいにはこの駅のことを知ってるのかもしれない。さっきまで見ていた地図を少し拡大表示して、そいつに見せながら確認してみた。
「あの、この公園に行きたいんですけど、そこの改札から三番出口って行けますか?」
悠子とは会社ではなく、会社の近くにある大きな公園で落ち合うことになっている。こんなろくでなしを飼ってるなんて会社の奴にバレたらいろいろ変な噂が立つだろうし、悠子だってそれは避けたいだろう。提案したのは俺の方だった。悠子は会社まで持ってきてもらいたかったみたいだけど、公園の方が駅から近いからと言ったら渋々ではあるけど聞き入れてくれた。まったく、俺が気を利かせてやってるのも知らないで。
そいつは地図を一瞥しただけでさらりと答えた。
「ああ、ここなら三番でもいいけど五番から出た方が近いですよ。大通りに面してないから、ちょっと分かりにくいかもしれませんけど」
「五番……って、どうやって行けばいいか教えてもらえますか」
「もし良ければ案内しますよ」
「え、いいんですか?」
「はい。俺もちょうど同じ方向に行くとこなんで」
良かった、いい人だ。ほっとして、俺は有難く案内してもらうことにした。
「ここから少し歩きますけど、三番から出るよりは近いですから」
目指す五番出口を出て、そいつはさも当然といった風に歩き始める。てっきり五番出口まで案内するという意味だと思っていたのに、どうやら公園まで連れて行ってくれるようだ。
「このあたりに来たのは初めてですか?」
さすがに少し申し訳なく思い謝ろうと思ったのに、そいつは全く気にしていないような顔で聞いてくる。公園まで歩く間、雑談でもして空気を和ませようとしてくれているつもりらしい。俺に気を遣わせないそのやり方は流れるようにスマートではあったけど、やっぱり悠子以外の人間と話をするのは相手が誰であろうと落ち着かないな。
「あ、はい。ゆう……同居人が会社の社員証を家に忘れて、届けにきたんです」
何となく視線を落ち着ける先がほしくて、上着のポケットから悠子の社員証と入退室カードが入ったケースを取り出してみる。何故か、妙に居心地が悪い。
「……あれ。それってもしかして、うちの会社の社員証ですかね」
俺の手にしている社員証を見て、そいつは少し目を見張った。
「え、マジすか?」
「ちょっと見てもいいですか」
「ああ、はい」
何も考えず、言われるがままそいつに社員証を渡す。そいつの表情は受け取った社員証を見た瞬間、固まったように動かなくなった。
「……」
「もしかして、知り合いだったりとか」
悠子を知ってる人なら、こいつから手渡ししてもらった方がいいかもしれない。そう思って聞いてみると、そいつははっとしたように俺の方を向いた。
「……ああ、失礼しました。総務の方みたいですけど、俺は知らないですね。中途で去年入社したばかりなもので、まだ知らない人の方が多いんですよ」
「そうですか」
「知ってる人なら俺が届けても良かったんですけど。お力になれず申し訳ないです」
「いえ、とんでもない。道案内してもらえて助かりました」
少しがっかりして社員証を受け取った時、ふとそいつと目が合った。
俺の思い違いだったのかもしれない。
でもその時そいつは確かに、まるで値踏みするような冷めた目を俺に向けていた。
俺は人間の文明の発達にはまるでついていけてないけど、人間の根底にあるものは今も昔もそう大して変わらないと思っている。自分で言うのもなんだけど、伊達に長い年月を生きていないだけあって、人間がふとした瞬間に見せる表情の変化にだけは俺は敏感なつもりだった。
「へえ……なんか意外だなあ」
ぼそっと呟かれた言葉は、俺たちの周りの雑踏に消え入りそうなほど微かだった。それでも確かにそれは俺の耳に届き、それを聞いた途端胸の奥がざわりと粟立った。はっきりと分かる、気分が悪い。
「……はい?」
それでも不快な気分を悟られないよう、なるべく感情を押し殺して聞き返す。そいつはまた、貼りつけたような笑顔で笑った。
「いえ、何でもありませんよ。行きましょうか」
目が笑っていない。俺はそいつに明らかな不信感を抱いていた。
それっきり俺たちは何も言葉を交わさず、目的の公園へたどり着いた。その公園は広く、中央に配置された大きな噴水を囲むようにベンチがいくつか置かれている。周囲には木々も多く、真冬の今は丸裸だけどきっと春や夏には花と緑で賑やかな景色が見られるんだろう。あの町にはこんなに大きな公園はなく、公園と呼べる場所はあるけどもっと狭い上に子供が遊ぶ遊具があって、こことはだいぶ雰囲気が違う。
「ちょっと一服していいですか?」
きっと昼時になれば、近くで働いている人間たちの憩いの場になるんだろうけど、今はまだ少し早いせいか閑散としている。ベンチもほとんど空いていて、そのうちのひとつの横にある吸い殻入れに歩み寄りながらそいつは不意に聞いてきた。
「煙草吸うんですね。吸わなさそうなのに」
「はは、よく言われますよ」
俺の方を見ず、まるで鼻で笑うようにそう言いながらジャケットの内ポケットから煙草を取り出した。そいつから人一人分の距離を置き、そいつが慣れた手つきで火をつけるその仕草を、俺はなるべく視界に入れないようにした。やがて紫煙が横から流れてくると、ついほっとため息をついてしまう。それでも煙の臭いはやっぱりダメで、さり気なく風下からわずかに後ずさる。
俺の斜め前にそいつの横顔があって、ついまじまじと見てしまう。煙草を咥えて噴水をぼんやりと見ている眼鏡の奥のその目からは、何を考えているのか全く読み取れなかった。ぱっと見は大きな目をしてるから幼くてはつらつとした印象を受けるけど、こうしてよく見るとこいつの目には生気がまるでない。そう感じるのは俺だけなんだろうか。
俺の視線に気付いているのかいないのか、そいつは煙草を口から離すと、吸い殻入れに灰を軽く落としながら煙を吐き出した。
「最近どこ行っても煙草吸える場所が本当に少ないんで、ここにはよく来るんです。会社から少し離れてるから知り合いも来ないし」
言いながら煙草をトントンと指で軽く叩いて灰を落とすその仕草は、ひどく手馴れている。そいつの幼い顔立ちにそぐわない手つきに俺は違和感を感じた。
「会社の中は禁煙なんですか?」
「いえ、喫煙所はありますよ。でも近寄りません。臭いがつくの嫌なんで」
「……」
黙り込んだ俺を見上げて、そいつは何故かふと微笑んだ。そう思ったのも一瞬のことで、すぐにまつ毛を伏せて煙草を咥えている。
「周りから吸わないと思われてるから、会社では吸わないようにしてるんです。こうやって外回りできる営業じゃなかったら今頃、ニコチン不足で倒れてたかも」
「大変ですね。毎日そんなんじゃ、疲れるんじゃないですか」
「疲れるけど、自分のためにしてることですから」
「はあ……?」
「芸能人じゃないけど、自分に対する周りからのイメージってあるじゃないですか。周りが求める自分、みたいな。そういうのって、あんまりないがしろにしてると損するのは自分だと思うんですよね」
何を言い出したんだ、突然。ぽかんとしてそいつを見ても、相変わらず何を考えているのか分からない目でどこかを見ている。どう答えるべきか分からず、曖昧に返した。
「そうですかね」
「そう思いませんか?」
「いえ……周りがどう思っても、自分の好きなようにしてた方がいいんじゃないですか。その方が楽だし」
結局、思ったことを口にしてしまっていた。するとそいつはどこか満足そうに笑って言った。
「それはそうですよ。でも、好きなように振る舞ってもしガッカリされたらそれは、結局周りからの評価を自分で落としてることになるじゃないですか。せっかく周りが高く評価してくれてるのに、そんなもったいないことするなんてバカらしいってことです」
きっとこいつは今、自分が俺にどう見られているのかとっくに分かっているんだろう。駅で会った時とは明らかに違う、何かを取り繕おうとする感じが全くないその喋り方は、俺でなくてもすぐに気付くほどあからさまな悪意を孕んでいる。そんな態度を取られる原因となることは身に覚えがないけど、つい俺も毒気を含んだ言葉を返したくなってしまい、いけないと分かってはいたけどそれを抑えることはできそうもなかった。
「立って息してるだけで周りが高く評価してくれる人の考え方ですよ、それは」
「そうですね」
悪びれる素振りなど欠片も見せず、そいつはさらりと言い放った。
指で挟んだ煙草から煙をくゆらせ、口元だけで笑って俺を真正面から見ている。その目は明らかに俺を蔑んでいる。人間にこういう目で見られることには慣れていたし、自分がそういう存在だということは自覚している。でもこいつの目に込められている俺への軽蔑の感情は、今までに他の人間たちから向けられてきたそれの比ではなかった。
……何なんだ、こいつは?
確かに俺は見た目も中身も生き方も決して人に褒められるようなものではないけど、会ったばかりのこいつにここまで侮辱した態度を取られる覚えはないしそんな筋合いもない。
そいつの中に何か底知れぬ闇があるような気がして、俺は何も言えなかった。
「それでも、何の努力もせず、ありのままの自分で振る舞っても、離れないでいてくれる誰かがいるような人と比べたら、俺みたいなのの方がまだ良心的だと思いますけどね」
「……」
「誰かに寄りかかって生きるなんて、俺にはとてもできませんよ。自分に相当な自信がある人でなきゃできないことじゃないですか」
誰かに寄りかかって生きる。それは、悠子に寄りかかって生きている今の俺のことだろうか。こいつにそんなことは一言も言ってないはずなのに、見た目だけで俺が悠子に寄りかかっていると判断されたんだろうか。無理もないし、そんなことは昔からよくあった。無意識のうちに自分の髪を手で触っている自分に気付く。
『その色がいちばん似合ってるよ、やっぱり』
こんな色をした髪の男と一緒にいたら、俺だけじゃなく悠子だって周りから色眼鏡で見られることは分かってたはずだ。それなのに悠子は、そのままの色でいいと言ってくれた。何色にも染めたりしないで、ありのままの色をした俺でいていいと、そんなことを言ってくれた人間は悠子が初めてだった。
だからきっと俺は勘違いしてしまったんだろう。悠子が、他の誰でもなく俺をちゃんと見ててくれているって。
「おっと、もうこんな時間か」
そいつは突然わざとらしく腕時計に目をやると、吸い殻入れに煙草をねじ込んだ。
「すいません、それじゃ俺はそろそろ失礼します」
「……どうも、ありがとうございました」
形だけの感謝の言葉を口にしても、そいつは顔色ひとつ変えずに小さく会釈する。そのままくるりと公園の出入り口に向かい、行ってしまうかと思ったその時、そいつの足がぴたりと止まった。
「ああ、最後にひとつだけ。その同居人さんの社員証、あんまりむやみに誰かに見せない方がいいですよ。男と住んでるなんて会社に知られて、彼女にいいことなんてひとつもないでしょう」
「ああ……はい、そうですね」
「俺は何も見なかったことにしますよ。それじゃ」
今度こそ、そいつは公園から出て行った。その姿が見えなくなるまで、俺はじっと動かなかった。
感じ悪い男だな。胸糞悪いとまではいかないけど、腹の奥が粟立つような不快な感じがまだ収まらない。あんなのに囲まれて毎日神経すり減らしながら働いてるのか、悠子は。そりゃストレスも溜まるだろう。今度仕事の愚痴を言ってきたら、もう少し親身になって聞いてやった方がいいかもしれない。
端末を取り出して、悠子の番号を呼び出して通話ボタンを押す。一秒でも早く、悠子の声が聞きたかった。




