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狐の恩返し  作者: 養生
第4章 今だけ
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4-3. なかったこと

 昔からよく人間の女に言われてた、悩みがなさそうだねとか、あんまり考え込まないタイプだよねとか。いつも深刻な顔を見せない俺と一緒にいるとこっちも気が楽になると。そう言われる度、こいつはなんて薄っぺらい女なんだろうと心の中で軽蔑しつつも、貼りつけたような笑顔で誤魔化していた。悩みのない奴なんているはずがないだろ。みんなそれを他人に悟られないよう、必死に取り繕っているだけだ。

 その点については俺は自信を持っている。昔のことをふと思い出したり、今の自分のしていることをふと客観視してしまったり、努めて何も考えないように生きていてもそういう時はどうしてもある。それでもそれを顔に出さず、悩みなんてありませんって顔を装うことは昔から得意だった。


 別に、険悪な何かが俺と悠子の間にあったというわけではない。あの日は結局、悠子が俺を拾った本当の理由についてはうやむやのまま話を切り上げてしまったからだ。

『……ま、どうでもいいか。そんなこと』

『え……あの』

『ごめんごめん、ちょっと気になっただけだって。今はどうだっていいよな、そんなこと』

 何か言いたそうな顔をしていた悠子を見ないふりして、俺はそのまま帰ってしまった。

 深刻になりたくなかった。悠子とはそういう雰囲気になりたくない。だから、今のこの気持ちも悟られるわけにはいかないのだ。


 どうして俺、こんなにショック受けてんだろう。


 もし本当に悠子が過去の罪滅ぼしみたいな気持ちで俺の面倒をみているのだとしても、これから変わっていけばいいだけの話だ。俺との関係を大切にしたいと思ってると、悠子ははっきり言ってくれたし、実際そのつもりだってことも分かってる。拾った動機が俺ではなく俺を通して見た過去に対する負い目だったとしても、最初のきっかけがそうだったってだけで、今はちゃんと俺を見てくれているなら何の問題もない。

 そう思いたかったけど、それでもこんなに不安になっているのは、きっと今の悠子も俺を見ていないと分かっているからなのかもしれない。自分が俺を好きかどうかも分からない、なんて言ってしまうくらいには、悠子の気持ちは不安定で頼りない。そんな言い方をする奴が俺をちゃんと見ているかなんて、問いただすまでもない。


 *


「あれ、なんかこれキャラメルっぽい匂いがする」

「分かる? 季節限定のキャラメルラテなんだ。いつものやつよりちょっと高かったけど、あんた好きそうだと思って」

「うん、好き。これから毎日これにしてよ」

「高いって言ったでしょ、週に一回ね」

「ええ……」

 だから今日も、俺と悠子はいつもどおりだった。悠子があの時のことをどう思ってるかは分からないけど、いつもと変わらない態度で接してくれることが今の俺には有難い。

 これでいいんだ。こんなことを気にしているのは俺だけで、そして今だけなんだ。悠子がちゃんと俺のことを見てくれるように、これから時間をかけていけばいい、ただそれだけのことなんだから。

 それまでテレビで流れていたバラエティ番組が終わり、ふと時計を見るとそろそろ帰る時間だ。マグカップの底に少しだけ残っているラテをぐいと流し込み、こたつからもそもそと立ち上がる。

「んじゃ俺、そろそろ帰る」

「え、あ……もうそんな時間?」

 まるでたった今気が付いたみたいに、悠子は壁の時計を見上げている。いつもこたつでうとうとしている俺に早く帰れと悠子の方から言ってくるのに、珍しいこともあるもんだ。

「うん。じゃあね」

 床に丸めて置いてあった上着を適当に広げて羽織りながら玄関に向かう。ドアの前で壁に手をついて靴を履いていると、上着の裾がくいと後ろに引っ張られたような感覚で小さくよろめいた。後ろを振り向くと、悠子がこっちをじっと見上げている。

「ん?」

 靴を履いてから悠子の方に向き直る。悠子は小さな声でぽつりと言った。

「あの、今日は……しないのかな、って」

「え? 何を」

「その……」

 それっきり黙ってしまった。

 何だろう、今日何かの約束とかしてた覚えはないんだけど。

「なんか約束とかしてたっけ? 買い物とか」

「そうじゃなくて、だから、あの……」

「なんだよ」

「き……キス。しなくていいの、って」

「え」

 よっぽど間の抜けた顔をしていたんだろう、悠子の頬がこれ以上ないほど真っ赤になり、急に怒り出した。

「か、勘違いしないでよ! 努力はするって言ったし、それに、キスくらいは普通にできるようになれって言ったのはあんたでしょ」

「あ、ああ……言ったっけ」

 まだ事態が飲み込めず、ぽかんとして悠子を見下ろすことしかできない。

 あの時はあんなに嫌がってたのに、どうやら慣れる努力をする気になってくれたらしい。俺としては喜ばしいことのはずなのに、何故か気分が全く高揚してこない。これは一体どうしたことだろう。据え膳食わぬは男の恥と言うし、女に恥かかせるほど無粋ではないつもりなのに、こんなことは俺のこれまでの生涯を振り返っても例を見ない現象だ。

 いつまで経っても突っ立ったままの俺を、悠子は少し不満そうに見上げている。

「別に、しなくていいならいいけど」

「あ、いや……する」

 あわてて取り繕うように悠子の頬に手で触れた。熱い。

「……」

 少しだけ顔を寄せると、悠子はそっと目を閉じた。


 だめだ、できない。

 あと数センチもないところに悠子の唇があって、悠子は抵抗もせずこうして目を閉じて待っているのに。あと少しだけ近づく、それだけなのに、俺の身体は金縛りにあったようにぴくりとも動かなかった。

 首の後ろがひんやりと冷たくて、感覚がまるでない。悠子に触れているのに、あの時感じた耳障りな鼓動も、抑え難い衝動も、熱も、何もない。


「悪い。……また今度な」


 そっと顔を離す。悠子の目がゆっくりと開き、俺を見つめるその瞳の色はどこか精彩を欠いていた。

「……うん」

「おやすみ」

 悠子に背を向け、逃げるようにドアを開けて外へ出た。ドアを閉める間際、なるべく部屋の中を見ないようにして。


 こんなことは初めてだった。

 疲れているとか眠いとか、そうでなくても何となく気が乗らないとか、そういう理由で女からの誘いを断ったことは何度かあるけど、キスくらいなら断ったことはない。挨拶や握手みたいなもんだと思っていたし、そこに大した意味なんてないと思っていたから、どんなに頭が空っぽの状態でもできた。

 それなのにどうして、さっきの俺は何もできなかったんだろう。

 まさか、気持ちがないとできないとか、悠子みたいなことを言うつもりはない。そんなものなくたって今まで普通にできたことだ。

「……」

 白いため息が霧散し、鼻の奥で微かに残るキャラメルの匂いに胸がちくりと痛む。

 せっかく勇気を出してくれた悠子を傷つけたかもしれない、それよりも、こんなに動揺している自分のことで頭がいっぱいになっている。今度会う時、きっと悠子はいつもどおりの態度でいてくれるだろう。さっきあったことなんて、まるでなかったような顔して。その様子が簡単に想像できて、それがひどく苦しかった。

 気にしてないふりして、何もなかったような顔してたのは、自分のくせに。

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