4-2. 空虚
とりあえず一旦保留にするとは言ったものの、いつまでこの状況が続くのかは全くもって不明なままだ。今更だとは分かってるけど、そもそもこんな狭い部屋に男と女が二人っきりでいるのに何もするなって、それはどう考えても不自然極まりない。いわゆる清い交際というものを今まで一度も経験したことのない俺には、これから悠子にどう接していけばいいのか、その正解が全く分からない。今までどおりでいいんだろうとは思うけど、あんなことがあった後で今までどおりってのはいくら何でも無理がある。俺と悠子の関係は表向きには何の変化もないけど、出会った頃とは明らかに違ったものになっている。でも、どこがどう変わったのか、その明確な答えは言葉にできないほどあやふやで曖昧で、それも悠子にどう接したらいいのか分からない理由のひとつでもある。
背中を丸めてこたつに座り、テレビの画面に映し出されているバラエティ番組をぼんやりと眺めていても、さっきから内容はさっぱり頭に入ってこない。全身の神経が背中に集中している。背後には少し離れたところに部屋と廊下を隔てるドアがあり、そのすぐ向こうには狭いキッチンがある。そこでさっきからお湯を沸かしている悠子の気配が俺の背中にまで伝わってきて、そのせいでさっぱりテレビに集中できないのだ。
俺、なんでこんなに意識してんだろ。
認めたくはなかったけど、自分でも無視できないほど今の俺は悠子を意識している。やっぱりもう少し日を置いてから来た方が良かったのかもしれない。本当はそのつもりだったけど、だからと言って変に日数を空けるのもあからさまに意識してますよって言ってるみたいで何だか癪だし、などというつまらない見栄を張って結局俺は三日後の夜にまたここへ来てしまったのだ。
「はい」
テーブルにことんとマグカップが置かれる。視線だけをそっちに向けると、今日はミルクティーが湯気を立ち昇らせていた。料理の腕は大雑把で下手すりゃ丸一ヶ月続けて同じ献立でも意に介さない悠子だけど、何故か食後の飲み物だけは二日以上続けて同じものを出したことがない。しかも、一緒に生活するようになったばかりの頃に一度だけひどく苦いコーヒーを出されたことがあって、俺が苦いと言ってからは二度とそのコーヒーが出されたことはなく、代わりに悠子は毎回甘い飲み物を出してくれるようになった。食に執着しないくせに変なところで拘りがあったり、いつもは俺の意見なんてまるで聞かない割に小さいことはよく覚えてくれていたり、悠子のそういうところは今でもよく理解できないでいる。
「……ありがと」
マグカップの取っ手を指に引っ掛けて、そっと自分の方へ引き寄せる。悠子は自分のカップを持って、俺から離れたところに座った。
「……」
「……」
気まずい。すぐ目の前のテレビの音が、遥か遠くから聞こえてくるようだ。
さっき一緒にメシ食ってた時も気まずいことは気まずかったけど、悠子が気を遣って今日会社であったことなんかを喋っていてくれたからまだマシだった。もう話すネタも尽きたのか、悠子は何も喋ろうとしない。今までこの時間って、どうしてたんだっけ? 特に何も話さず、ただテレビ見て時々笑ってるか、寝っ転がってスマホいじってるか、普通にこたつで横になって寝てるか、そのくらいしか記憶がない。それでもその時間をこんなに気まずいと思ったことは今までなかったはずだ。悠子の部屋は気を遣わなくていいからすごく落ち着くし、悠子もあんまりべらべら喋るタイプではないから、二人でいても変に気を遣うとか沈黙が気まずいとかそういう空気になったことは一度もなく、ただぼんやりと何も考えずに過ごしていても全く問題はなかった。それが俺と悠子の普通だった。だけどもう、その普通がどんなものだったのか、どんなに思い出そうとしても思い出せなくなってしまっている。ついこの間まで何度も繰り返してきたことだったはずなのに。
「あの、さ」
テレビの画面から目を逸らさず、声だけで悠子に話しかけてみる。悠子も違う角度からテレビを見ているはずだけど、この狭い部屋の中じゃどこにいたって視界に俺が入ってしまうだろう。悠子に少しでも見られているのかと思うと手のひらに変な汗が滲んできて、さっきから心臓の音が落ち着かない。
「な、なに?」
悠子の声は少し上擦っていた。言葉で『意識してます』って言う方がまだ分かりづらいと思うほど、その声は明らかに俺を意識している。
「……えっと」
しまった、何言うか考えてない。なんで話しかけたんだ、俺のバカ。
いや、言いたいこととか聞きたいことはいくらでもあるんだけど、それを口にするにはあまりに意識しすぎている。でも、いつかは言わないといけないし、聞かないといけないことなんだろう。ずっとこのままでいられるはずがないのだから。
ぎりぎりと音がしそうなほどぎこちない動きで、ゆっくりと悠子の方に顔を向けた。どうせもう意識しまくってることなんてバレてるだろうし、今更取り繕っても仕方ない。目が合うと、悠子はひどく居心地悪そうに俺から目を逸らした。その態度に胸の奥がちくりと痛む。
なんだよ、せっかく顔見たのに。目逸らすんじゃねーよ。
自分があまり気が長い方ではなく、むしろその逆でせっかちな性分だって自覚はある。昔、神様にもよく言われた。そもそも悠子の気持ちが整うまで待つとか、そんな悠長なことができるほど俺は辛抱強くない。
悠子がこっちを見ていないのを確認しつつ、静かに悠子との距離を詰めた。
「悠子」
耳元でわざと少し大きな声で言ってやる。思ったとおり、悠子はビクッと肩を震わせてこっちを向いた。
「なっ、なに!」
至近距離でまともに目が合ってしまう。もう後には引けない。ごくりと生唾を飲み込む音が、まるで部屋中に響いたように大きく聞こえた。
「俺、いつまで待ってればいいの?」
「は……? な、何を」
ここまできて白を切るつもりか。さすがにその態度に少しイラっとして、こたつ布団をぎゅっと握りしめている悠子の右手に自分の手を重ねた。悠子はすぐにその手を払いのけようとしたけど、そんな反応が返ってくることは想定内だ。その手を握りしめて動きを封じると、肩と肩が密着する。悠子の髪が俺の頬を掠めてはらりと落ちた。
「ちょっ、ちょっと……」
悠子は座ったままこたつを出て、ずるずると後ずさりした。それを追いかけるように俺も悠子との距離を詰めたままこたつを出る。すぐに悠子の背中は後ろの壁にぶつかり、逃げ場を失った悠子は困惑しきった表情で俺を見上げていた。なんかこの状況、前にも同じようなことがあった気がする。追い詰められて縋るような視線を俺に向ける悠子の目は、俺の中の嗜虐心をひどく刺激し、それを抑えつけるのに必死だった。
「待ってられる時間にも限界があるんだけど」
「ま、まだ三日しか経ってないでしょ」
「もう三日も経ったんだよ」
そっと手を伸ばして悠子の頬に触れても、悠子は今度は払いのけようとしなかった。
「それに、嫌なら部屋に入れなきゃいいだけの話だろ。考える時間もタイミングも、俺はもう充分あげたよ」
「……」
「嫌なら抵抗しろって言ってるの、分かんない?」
悠子は何も言わず、身じろぎひとつしない。でもやっぱりその目は俺を見てなくて、俺の顔より少し下を向いてしまっている。ふと、その唇がわずかに開いた。
「ど……努力は、する」
「なんだよ、努力って」
「だ、だから……段階を踏んでくれれば、その」
「ん? ああ、俺もいきなり最後までやろうとは思ってないよ。ここまで悠子が嫌がってんだから、下手したら犯罪になっちゃうしさ」
「なっ」
「せめて、キスくらいは普通にできるようになってもらいたいんだけど」
頬に触れていた指をゆっくりと下に滑らせて、顎をそっと上向かせる。どうやら観念したのか抵抗はしないものの、悠子は表情も全身もガチガチに固まっていて、見てるこっちが可哀想になるくらいだ。
「力抜けって。取って食ったりしねーから」
何だかものすごく悪いことをしようとしている気がして、さっきまで昂っていた気持ちが少しだけ冷めてしまった。
「あのさ、悠子」
「……なに」
「肌って、人が思ってる以上にいろんなことを教えてくれるんだよ。例えばさ、嫌いな奴に触られたら気持ち悪いだろ? 言葉とか理屈じゃなくて、生理的にダメな奴ってどうしてもいるじゃん。自分にとって誰がそういう奴なのか、誰がそうじゃないのか、知りたいなら触ってみるのが一番手っ取り早い」
俺の言わんとしていることを汲み取ろうとしているのか、悠子はやっと俺の目を見た。
「もしかしたら悠子にとって、俺はそういう生理的にダメな奴かもしれない。まずはそれだけでも知っておくのは、悠子にとっても俺にとっても大事なことだと思うよ」
「……」
「それに、初めてするわけじゃないだろ。大丈夫」
「あんたが無理やりしたんじゃない」
憎まれ口を叩けるだけの余裕は出てきたらしい。少しだけほっとして、ため息が漏れた。
「はいはい、悪かったよ。それじゃ、合意の上でするのはこれが初めてな」
「わ、私はまだ同意してない」
「ああ? ったく、往生際が悪いな。もういいから、目え閉じろ」
悠子はなかなか目を瞑ろうとしない。このまま無理やり口を塞いでやることもできたけど、あともう少しくらいは待ってやるか。そう思った時、消え入りそうな声で悠子が呟いた。
「……怖い」
わずかに伏せた悠子のまつ毛が、小刻みに震えている。
「何が」
「自分がどう思ってるかもまだ分かんないのに、触ったらあんたに気持ちが傾くかもしれない。それが、怖い」
「そうなったらそれでいいだろ」
「良くないよ。あんたとは、それだけの関係になりたくない」
きっと俺が思っているよりもずっと、悠子は俺との関係を大切に思ってくれているんだろう。それはこの間も言われたけど、俺がその意味をちゃんと理解していたかどうかは自分でも自信がない。でもそれを認めるのは癪だから、わざと目を伏せて少し大げさなため息をついてみせる。
「あのさ、俺の言ったことちゃんと聞いてた?」
悠子は瞬きをして俺を見た。
「嫌いな奴に触られたら気持ち悪い。それって言い換えれば、触られて気持ちが傾くってことは好きってことだろ? 何の問題があるんだよ」
「でも」
「俺と悠子は、それだけの関係になんて絶対にならないよ。俺が保証する」
「……どうして、そんなこと分かるの?」
「前にした時、俺は全然嫌じゃなかったから」
そっと顔を寄せた。あと少しでも近づいたら、唇が触れてしまいそうな距離だ。
「後は、悠子の気持ちだけだよ」
まだ震えているそのまつ毛が伏せられ、悠子は目を閉じた。もう大丈夫かな。ここまできておいて、今度は俺の方が腰が引けている。変なところで長いこと寸止めされ続けていたせいか、悠子の震えが伝わってきたのか、俺まで緊張してきた。たかがキスくらいでこんなに緊張するなんて初めてだ。
どうしたんだろう、俺。
悠子の微かな吐息が唇に触れて、そのあまりの熱に目まいがした。頭の奥がぼうっとして、何かを思考する力が徐々に奪われていく。長いまつ毛も、少し上気した肌も、微かに開いた唇も、それは見慣れた悠子のはずなのに、目に映るその全てがひどく扇情的で、俺は目を閉じて視界を遮断した。そうしないと頭がおかしくなりそうだったから。
視界が真っ暗になった瞬間、唇が悠子に触れた。
悠子に触れたのはこれが初めてではない。でも、今までのキスは正直言うとその時の感触はもうとっくに覚えていない。だから今触れる直前まで頭の中でその感触はどんなものかと想像していたけど、実際に触れた悠子の唇は俺が想像していたよりもずっと滑らかで、柔らかくて、ひどく熱い。何も見えない分、全身の感覚が唇に集中しているみたいだ。後頭部から首にかけて痺れたように感覚が消えていき、その代わりに唇に触れている感触だけがひどく生々しくて、俺はぴくりとも動けないまま固まっていた。こんなことは初めてで、次にどうすればいいのかすら分からない自分に愕然としてしまう。
……なんだ、これ。
さっきから心臓の音がひどく耳障りだった。まるで心臓が耳の中にあるんじゃないかと錯覚するほどうるさい。悠子から甘い匂いが湯気のように立ち昇ってくる。悠子の使っている整髪料の匂いと、悠子の体臭が混ざった、初めて嗅ぐ匂い。その匂いは俺を閉じ込めて決して逃がそうとしない。あまりに抗い難い衝動がどこかとても深いところから湧き上がってきて、このままではヤバいと思った。
「う……」
微かなうめき声にはっと我に返り、あわてて目を開ける。悠子はまだ目を閉じていたけど、その眉間にはしわが寄っている。そっと唇を離して解放してやると、悠子はずっと止めていたのであろう息を吐き出した。
「……ぷはっ」
その仕草に何だかすごくほっとして、それを隠すように悠子の鼻を指でつまんでやる。
「こら、息止めるな。鼻で呼吸すんだよ」
「な、長いんだってば! もう……」
さっきよりも真っ赤な顔をして、いつもどおりの口調で返された。その表情からはさっきまでの固さは抜けていて、いくらか緊張がほぐれているのが分かる。それが分かった途端、俺の身体からも余計な力がゆっくりと抜けていくのを感じた。
さっきのは一体、何だったんだろう。人間の女と肌や唇を重ねたことなんて数え切れないほど経験してきたはずなのに、さっきの俺はまるで何もかもが初体験の童貞みたいな精神状態だった。そりゃ誰にだって初めてはあるし、もちろん俺にだってあった。でもそれは気が遠くなるほど昔のことで、当時の自分がどんな気持ちだったかなんて思い出そうとしてもその断片すら見つけることができないほどだ。それなのにさっき悠子に触れようとした時、その全てがはっきりと鮮明に蘇ってきて、俺はただびっくりしてどうすることもできなかったのだ。気恥ずかしいとか照れくさいとかそんな次元の程度ではなく、頭がどうにかなってしまうのかと思うくらい動揺していたさっきの自分自身の余韻が、まだ胸の中で波のようにざわざわと寄せては返してくる。
どうせ悠子は今、自分のことでいっぱいいっぱいだろうし、この俺の動揺になんて気付く余裕もないだろう。それだけが救いだった。
「で、どうだった? 嫌だった?」
鼻から指を離して確認してやると、悠子は困ったように視線を落とした。
「……よく、分かんない」
「嫌かそうじゃないかくらいは分かるだろ」
頭の中でさっきのことを反芻しているのか、悠子は何も言わない。
「分かんないなら、分かるまでやるか」
「えっ、や……」
まだ胸の動悸は収まらない。余裕がないのは俺も同じだと気付いていたけど、それ以上にもっと悠子に触れたくてたまらなくて、もう一度そこに触れようと手を伸ばす。悠子はその手を両手で押さえて抵抗しようとしたけど、もう遅い。
まさに悠子に触れるその瞬間、ヴーッ、ヴーッ……と、規則的な振動音が突如響いてきた。弾かれたように顔を離すと、悠子の視線がこたつの方を向いていることに気付く。
「で、電話」
「……チッ」
わざと聞こえるように舌打ちして、悠子から離れる。悠子はあたふたと俺から逃げるように立ち上がり、こたつテーブルに歩み寄ってそこに置いてあった自分の端末を手に取った。
「はいはい、お母さん? どうしたの」
どうやら悠子の母親からのようだ。まさか娘が電話の向こうで今しがたどこの馬の骨かも分からない男とやましいことをしようとしていたなどと知りたくもないだろう、俺は気配を消してこたつに潜り込んだ。悠子はもうすっかりいつもどおりの調子で、電話に向かって受け答えしている。
つけっぱなしになっていたテレビをぼんやり眺めていると、ふとテレビ台の隅に置いてある小さな卓上カレンダーに目が留まった。明後日は土曜日だから、悠子はまた実家に戻るんだろう。それで俺はまた留守番だ。もう何度繰り返したか分からないこのサイクルに、ついため息が出てしまう。
また二日も会えないのか。いや、週が明けてもすぐにまたここへ来られるわけではない。なるべく連続して頻繁に来ないようにしてるから、最低でも三日間は会えない。
「……うん、分かった。はい、はーい。また土曜にね」
電話が終わったらしい。立ったまま端末の画面を操作している悠子を見上げて、つい不満を口にしてしまった。
「何も毎週帰んなくてもいいんじゃねえの? 月イチとか隔週とかでもいいだろ」
「言ったでしょ、節約のためだって」
「その間ここに俺がいて電気だの水道だの使ってたら節約になってないじゃん」
「まあ、そうだけど」
悠子は何か思案するように、手に持った端末をじっと見つめている。
「何て言うかさ……ほっとけないんだよね、お母さんのこと。お父さんが死んでから」
「……」
「一緒に住めたらいいのかもしれないけど、なんかそれはちょっと違う気がして。それにほら、私はやっぱりこの町にいたいし」
「だったらもっと距離置いてもいいと思うけど。これじゃ一緒に住んでるのと変わんないだろ」
「うん、私もそう思ってるよ。でも……私あの時、何もできなかったから」
あの時。おそらくそれは、悠子のあの記憶のことを言ってるんだろう。あの家を売却する話を進めている最中に病死した父親のこと。悲しむ暇も与えられなかった母親のこと。あれ以来そのことについて詳しい話は聞いてないけど、その当時の悠子が何もできなかった自分を責めたであろうことは容易に想像がつく。こいつはそういう奴だから。
「自己満足だって分かってるの。お母さんはもう一人でも平気だろうし、ただ毎週顔見せるくらいであの時のことが全部チャラになるなんて思ってない。でも、だからって何もしないのは、なんか違うって言うか」
『あんたのこと、ほっとけないの』
あの時も悠子はそう言ってた。あれは偶然だったんだろうか。
一度心に引っ掛かってしまうともう、見て見ぬふりはできない。
「なあ、悠子」
「なに?」
聞いていいことじゃないのかもしれない。聞いたところでどうにもならないことも分かってる。だけど、今の俺は聞かずにはいられなかった。
「どうして俺のこと、拾ってくれたの」
戸惑ったように悠子の瞳が揺れている。聞き分けのない、躾のなっていない犬を見る目のようだ、と思った。
「居場所のない俺が可哀想だったから、って俺は思ってたけど、そうじゃないの?」
「それは……」
「ここにおいでって俺に言った時、どんな気持ちだった? 昔のこと思い出してた?」
「……何言ってるの?」
悠子は俺の隣にしゃがみ込んで、困ったように俺の顔を覗き込んだ。
「俺を拾えば、俺の面倒をみれば、あの時何もできなかった自分を許せると思ってたの?」
凍りついたように悠子の表情が固まる。それを見て悠子の答えはもう分かってしまったけど、俺は黙って返事を待った。
頼むから、違うって言って。
そんなんじゃないよバカって、笑い飛ばして。
祈るような想いで悠子の目を見つめても、そこに俺はちゃんと映っているんだろうか、それだけが気がかりで不安でたまらなくて、確かめたくてもどうすることもできない。
悠子はとても小さなため息をついて、俺から目を逸らした。
「そうかもしれない」
俺を今まで飼ってきた人間の女たちはみんな、同じだと思っていた。
俺が本当は誰かなんて、どうだっていい。
あいつらは俺を通して、自分の記憶の中にいる誰かを見ているだけだ。
その誰かと同じ名前を名乗る俺の世話を焼くことで、自分の心を満たしているだけだ。
でも、悠子だけは違った。俺の過去に何があったかを聞いてくれたし、それを知った上で俺を拾ってくれた。だから俺にとって、悠子は特別だった。記憶の中の誰かじゃなくて、今ここにいるこの俺を見てくれてるって、ずっとそう思ってた。
そうじゃなかったんだ。そう思ってるのは、俺だけだったんだ。
些細なことだったかもしれない。今となってはどうだっていいことなのかもしれない。なのにどうして、こんなに気になってるんだろう。過去のことは今になっていくら考えたってどうしようもないって、いつか自分で悠子に言ったくせに。
自分が誰かの代わりにされている、そんなのもう慣れっこだったのに、今はそれがこんなにつらい。今まで誰とも真摯に向き合わず、いい加減な関係ばかり繰り返してきた罰が当たったんだろうか。
自分が特別だと思っている人が、自分を通して他の誰かを見ている。確かに見つめ合っているはずなのに、俺と悠子の視線はいつまでも交わることがない。悠子は俺を見ていないんだ。




