4-1. 好き
人肌に触れた回数は数え切れない。気持ちがなくても触れるだけでそこに今までなかった情みたいなものが湧いたという経験はあるし、それを否定する気もない。だけど、触れる前から相手に対して他の奴にはない特別な何かを感じるようになっていて、いざそいつに触れたらどんな気持ちになるのか、それはまだ知らなかった。
悠子に触れたのはこれが初めてではないけど、これまでの俺と今の俺とでは悠子に対して抱いている気持ちが明らかに違う。だから、知らなかった。特別な誰かに触れると、こんなにも満たされた気持ちになるのだと。それなのにもっと、もっと触れたくてたまらなくて、もどかしくてどうしようもなくなる。満たされる安らぎと、満たされない渇望。こんなふうに相反する気持ちが同時に自分の中で生まれることがあるのだと、悠子に触れるまで知らなかった。
俺の中にも世の中にもきっとまだ俺の知らない感情が山ほどあって、俺は死ぬまでにその全てを余すことなく知り尽くすなんて絶対にできないのだろう。自分の中の知らなかった気持ちに触れる度にその事実を目の当たりにさせられて、俺はただ戸惑うことしかできなくて、それでも知りたいと思わずにはいられない。今はまだ名前のつけられないこの気持ちを何と呼べばいいのか、それを悠子は知っているのだろうか。
腕をそっと開いて、それまでずっとそこに閉じ込めていた悠子を解放した。もう自由に動けるはずなのに、悠子は身じろぎひとつしない。ただうつむいたまま、俺の胸に額を押しつけている。両肩に手を置いて身体を離すと、悠子はやっと俺の顔を見上げた。その目は戸惑ったように揺れていて、その瞳の中に閉じ込められた途端、腹の奥から抗い難い衝動が湧き上がってくるのを感じた。人間はよく、肉欲を不純で汚らわしいもののように言い表すことが多いけど、俺はここまで本能に忠実で純粋な欲は他にないと思ってる。その証拠に今の俺の中にあるのは実にシンプルで、一切の混じり気がない澄んだ欲望だった。
悠子が、欲しい。
顔を寄せると、悠子の目がひときわ大きく見開かれる。目を閉じて触れようとした時、ぎゅっと思いきり鼻を手で押さえつけられた。
「ち、ちょっ、待って! ストップ!」
「ん?」
仕方なく少し顔を離す。悠子の顔はこれ以上ないほど紅潮している。
「その……まだ、分からなくて。こういうこと、していいのか」
「……え?」
何を言われたのか分からず、ぽかんとして悠子を見つめる。そんな俺の視線から逃げるように、悠子は落ち着きなく視線をきょろきょろとさまよわせていた。
「あんたとは一緒にいたいって思ってるよ。でも、それがこういうことなのかって聞かれると、正直……自信持って答えられないの」
「なに、こういうことって」
悠子は答えなかった。でも、その茹でダコみたいに真っ赤な顔を見れば何を言おうとしていたのかなんて簡単に分かる。どうやら俺は、こいつの男に対する免疫のなさを見くびっていたらしい。そういう女の相手をしたことは今までにも何度かあったけど、ここまで筋金入りなのは初めてかもしれない。言いたいことは分かるし、俺だって無理やり事に及ぼうだなんて思ってないけど、いくらなんでも悠子は固すぎると思う。
「まさかとは思うけどお前、好きになる、告白する、両想いになる、付き合う、みたいに段階を踏んでいきたいとか言わないよな?」
「そうじゃないけど……でも、本当に好きな人とするもんじゃないの? こういうことって」
ああ、出た。『本当に好きな人と』今まで一体、何度この言葉を聞かされてきたんだろう。悠子みたいに男慣れしないまま大人になった女はいつも決まってやたらとそれに拘り、何かの常套句みたいにその言葉を口にして、それを盾に最初の接触を頑なに拒もうとする。
俺はその言葉があまり好きではなかった。『本当に』好きってなんだよ。本当じゃない好きもあるのか? そもそも、好きってどういう意味だ。その言葉はひとつだけど、そこには実に多種多様な意味が含まれていることを俺はちゃんと知っていて、だからその言葉を振りかざされるとこっちとしてはどうすることもできなくなってしまう。
「悠子は俺のこと好きじゃないの? さっきの流れで俺はそう解釈してんだけど」
少し卑怯な聞き方であることは自覚しつつもそう聞いてみる。
「……自分でも、よく分かんない。そうかもしれないし、そうじゃないのかも」
答えになっていない答えが返ってきて、俺もそれ以上は何も聞けなくなってしまう。悠子は俺を真っ直ぐに見上げた。
「あんたはどうなの? 私のこと、どう思ってるの」
「え? そりゃあ……好き、だ、よ?」
唐突に聞かれて咄嗟に出た俺の声は明らかに棒読みで、悠子は少しほっとしたようにため息をつく。
「明らかに好きじゃないでしょ、それ」
「いや、好きだって」
「自信持って言える? 本当に」
軌道修正しない限り、このままこの無意味な押し問答が続くことは容易に想像できる。頭の中で何かがぷつんと切れた。
「だあ~ったく、まどろっこしい! お前なあ、処女こじらすのもいい加減にしろよ、んなもんどうだっていいんだよ! 今は分かんなくたってヤることやった後で初めて分かることだってあんだよ! なにガキみてーなこと言ってんだ!」
「なっ……やっぱりそういうことしか考えてないんじゃない! だから分かんないって言ってんのよ!」
それ見たことかと言わんばかりの表情で、悠子は俺から離れた。もう今更取り繕っても意味がない、俺は待つのをやめた。
「うるせー! 好きだのなんだの惚れた腫れただの、人間の女はそういうど――でもいいことにやたら拘るから面倒くせーんだよ! 分かんないならつべこべ言ってないで一回ヤりゃあいいんだっつーの! 考えるな! 感じろ!」
俺から逃げようとする悠子の手首を掴み、力任せに引き寄せる。当然、悠子は渾身の力で抵抗した。
「いっ、嫌だってば!」
「嫌なら最初っからそう言ってればいいだろ! 分からないとかそうかもしれないとか、変に期待持たせるような言い方するな!」
「だから、そうじゃないんだってば! いいから、聞いてよ!」
どうせ俺に腕力で敵うわけがないと高を括っていたら、悠子の平手打ちがまともに左頬に飛んできた。
「いてっ」
肩で息をしながら、悠子は俺を非難するような目で見上げている。
「……違うんだよ。あんたとのこと、そんな簡単に答えが出せるとは思えないの。でも、だからって無理やり決めつけたくもない」
ビンタされた頬が熱を帯びてくるのが分かる。
「何言ってんのか全然分かんない。もっと分かりやすく言ってよ、俺にも分かるように」
「あんたとのこと、大切にしたいと思ってる。だから、適当なことはできない」
言い直された言葉もやっぱりよく分からない。何だかもう面倒くさくなってきてそっぽ向くと、悠子もそれを察知したようだった。
「ごめんね、重くて。でも私……」
「わーかったよ」
もうこれ以上は言い合ったところで時間の無駄だろう。諦めて、悠子の髪をくしゃくしゃと撫で回す。
「ひゃっ……なに」
悠子はあわてて髪を手で押さえた。少しだけばつの悪そうなその目を見れば、少しは俺に対して悪いことをしてると思ってくれてるのはちゃんと分かる。
「悪かったって、そんな顔すんな」
「……ごめん」
「とりあえず今は保留、ってことでいいか?」
小さく頷いた頭をぽんぽんと軽く叩いて、そっと手を離す。悠子の細い髪がさらりと指の間をすり抜けていった。
まあ、最初からそんなにすんなり事が運ぶとは思ってないし、長期戦は覚悟の上だ。かと言って本当に悠子の気持ちが固まるまでおあずけ食らったままでいる気は毛頭ない。この飼い主が長年こじらせた処女をその気にさせることも俺の役割だと思えば、多少の待てはできないといけないだろう。
「へっ……くしっ!」
「うわっ、きたねーな。飛ばすなよ」
「うるさいな」
鼻をするる悠子の頬はほのかに赤い。これ以上この寒い中で立ち話してたら、二人とも風邪を引くかもしれない。ふと、悠子の肩に掛かっている会社用のバッグに目が留まった。
「そう言えばお前、メシまだ食ってないの?」
「え? うん」
「じゃあさ、今日は久しぶりに外で食おうよ。悠子んとこ行く日じゃないから、部屋に帰ってもどうせ何もないんだろ」
「またあんた、人の金だと思って……」
「たまにはいいじゃん。なっ? 俺ラーメン食いたい」
「はあ……分かったわよ」
「よし、んじゃ行くか」
境内の外に向かいながら、悠子の右手をぎゅっと握った。想像していたよりずっと冷え切っている指先が、微かにびくりと震えたのが分かる。振り向くと、悠子は驚いたように目を大きくして俺を見上げていた。
「……んだよ。手え繋ぐくらいならいいだろ、ほら」
「あっ」
何だか妙に気恥ずかしい。前に向き直りながら手を引くと、悠子は抵抗することもなくそのままついてきた。悠子の小さな手は俺の手のひらの中にすっぽりと収まってしまう。この感覚、前にも感じたことがある気がする。
ああ、そうだ。ここで悠子に拾われたあの時、こいつと握手なんかしてたっけ。ほんの数か月前のことなのに、何だかずいぶんと前のことみたいだ。あの時と今を比べても俺たちの関係にさほど変化はないし、相変わらず悠子のことはほとんど何も知らないけど、今になって思うとあれは不思議な巡りあわせだった。悠子がこの神社へ立ち入らなければ、俺は今もここで一人閉じこもっていただろう。どうして悠子はここへ入ってこられたんだろうとか、どうして悠子だったんだろうとか、その意味を考えたことがなかったわけではないけど、それが分かったところで何かが変わるわけでもない。あの日あの時この場所で悠子と出会って、今こうして俺と悠子の関係は続いている、確かなことはそれだけで、それでいいと思っているから。
俺の手のひらの中で少しずつ温められていく悠子の指先が、次第に俺の体温と同じ温度になっていくのを感じる。いつかそこに俺と悠子の境界がなくなってしまうんじゃないかと思うほど、悠子の手は俺の手にしっくりと馴染んでいる。そう思うのは俺だけなのかな。悠子も同じように思ってたらいいんだけど。
「……」
気付かれないようにそっと、隣を歩く悠子を見下ろす。前を向いて歩く悠子と俺の目が合うことはなく、そっとため息をついた。
好きって、なんだよ。
そんなこと誰かに対して思ったこと、今までない。
人間の女とはいつもただやることやってそれだけの関係だったし、向こうが俺をどう思ってたかは知らないけど、少なくとも俺はあいつらに対してそれ以外を求めるような感情を持ったことはなかった。そもそもそれは、その行為の延長線上にあるべきものだったんだろうか。別にそんなものなくたって、お互い納得していればそれでいいはずだと思っていたけど、そうではない奴も一人か二人はいたのかもしれない。仮にそうだったとしても、もう今の俺にそれを知る術はないのだ。
『後になって後悔したかもしれないけど、「あなたしかいない」って思ってた時は確かにあったはずでしょ。あんたといて幸せだった時は確かにあったんだよ。それでもあんたは、その人たちがみんな不幸だったって、そう思うの?』
さっき悠子に言われた言葉はきっと、俺の中から一生消えることはないだろう。
俺がずっと見落としていたことを、ずっと見ようとしないで生きてきた俺を、まだ知り合って数か月しか経っていない悠子は見つけてくれて、それを教えてくれた。
俺の中にも世の中にもきっとまだ俺の知らない感情が山ほどあって、俺は死ぬまでにその全てを余すことなく知り尽くすなんて絶対にできないのだろう。でもきっと悠子となら、俺一人でそれを探すより、ひとつでも多くのことを知ることができるような気がする。
今はまだ名前のつけられないこの気持ちを何と呼べばいいのか、きっと悠子となら見つけられる。何故かは分からないけど、はっきりとそう確信している自分がいた。




