3-4. 懸想
『間もなく、一番線に電車が参ります。黄色い線の内側に下がって……』
もう何百回聞いたか分からない地下鉄のアナウンスは、もはや注意を促すという役割を失っている。いつもどおりの帰宅時間、会社の最寄り駅で改札を通り抜け、地下へ下りるエスカレーターでぼんやりとしていると、ちょうど私が乗る電車が到着したようだ。周りの人たちは足早にエスカレーターを駆け下りていくけど、何だか今日は急ぐ気になれない。私がようやくホームに下りた時にはもう電車のドアは閉じられていた。そのまま私一人をぽつんと取り残し、電車はホームから去って行った。
いつもと同じ電車の乗車位置に立って、ひとつため息をつく。今日あいつが来るかどうかは分からないけど、何となくあの部屋に帰るのは気が重い。
『なんでお前、分かんないの?』
つい昨日のことだ。いくら何でも覚えてないという言い訳ができるような時間は経っていない。今度あいつに会った時、私はどんな顔をすればいいんだろう。今度こそ『今までどおりでいこう』が通用する事態ではないことは私だって分かってる。私に対して明らかに不満を露わにしていたあいつの顔が、あの夜から頭を離れない。だけどそこにあったであろう意味がどうしても分からなくて、私にはどうすることもできない。
「あれ、里村さん?」
不意に横から影が差した。隣を見上げると、黒いセルフレームの眼鏡をかけた背の高い男の人が立っている。どこかで見たことがあるような気はするけど、ぱっと頭に浮かんでこない。
「えっと……どちら様で」
「ええ? 俺です、青山ですよ!」
「え……あ、青山さん?」
びっくりして瞬きを繰り返し、まじまじとその顔を見てしまう。眼鏡かけてるとこ初めて見たな。あまりにも不躾な視線だったのか、青山さんは困ったように笑って軽く頭を下げた。
「お疲れ様です。今帰りですか?」
「あ、はい。青山さんもですか?」
「はい、今日は久しぶりに一日社内だったんで。里村さんっていつもこの時間に帰るんですか?」
「そうですね、大体いつもこのくらいです」
「そっか。会社の外で会うのって初めてですよね」
「営業の人たちは直帰が多いし、社内にいてもやることが多いから仕方ないですよ。そのへん私ら総務は楽なもんです」
「そんなことないですよ。だって丸一日ずっと会社にこもって仕事してるんですよね? しかも毎日。俺だったら無理ですよ、もう今日一日だけで限界でした。いつもだったら外で息抜きできるから、上手くやれば合法的にサボれるのに」
言いながら、青山さんは首を左右に曲げてみせる。その拍子に、いつもはきちんと締めているネクタイが少し緩めてあるのが緩く巻かれたマフラーの隙間から見えた。心なしか、その表情もいつものようなはつらつとしたものではなく、どこか疲れたような気だるげな雰囲気を纏っている。眼鏡のせいでそう見えるだけなのかもしれないけど、目が少し眠たそうだ。一日社内にこもってるだけでこうなるなら、私は普段どんな顔をしてるんだろう。自分の顔なんて見慣れてるから気付ていないだけで、もしかしたら自分で思うよりもっとひどい顔で仕事をしているのかもしれない。
「なんか、だいぶお疲れみたいですね」
つい苦笑してしまう。すると青山さんは少し不満げに私を見下ろした。
「あーもう、それ言われたの今日だけで四回目ですよ。そんな疲れて見えますかね? 眼鏡のせいなのかな……」
「実際疲れてるんじゃないですか」
「疲れてないってわけじゃないけど、いつもと同じですよ。もう毎日帰ったら飯、風呂、寝る、そんだけです。まあ、ちょっと生活に潤いが足りてないかなーとは思いますけど」
青山さんがどこまで本当のことを言っているのかは分からないけど、ちょっと意外だった。これだけ若くて綺麗な顔をしてるのに。
「もったいないですよ、青山さん。まだ若いのにそんなこと言ってちゃ」
一応そう返してはみたものの、まあどうせ嘘なんだろうな。もし本当だったとしてもそれはたまたま今は特定の相手がいないってだけで、きっと普段は引く手数多なんだろう。私とはあまりに無縁の世界の話で、その苦労を推し量ることすら私にはできそうもない。自分より遥かにカースト上位にいる人にまでお世辞を並べている自分がひどく滑稽だった。
「本当にそう思うなら、里村さんが相手してくださいよ」
「え?」
『間もなく、一番線に電車が参ります……』
線路の向こうから強い風が吹いてくる。髪を手で押さえた時、青山さんと真正面から目が合った。眼鏡の奥のその瞳が揺れて見える。
「あの、俺……こんなこと言ったら多分すっげードン引きされると思うけど、その……ずっと前から里村さんのこと、いいなって思ってて」
その声はホームの雑踏に紛れて消え行ってしまいそうだった。それでも確かに耳に届いた青山さんの言葉に、私はただぽかんとしていた。私を見据える青山さんの頬には、明らかに寒さのせいだけではない赤みが差している。
「もう覚えてないと思うけど、俺が入社してすぐに入退室カード作った時、里村さんがやってくれましたよね。俺あの時めちゃくちゃ緊張してて、本当にこれからちゃんとやっていけんのかなとか、すごい不安だったんですけど……でも里村さん、ずっとニコニコしててくれて。何て言うか、とにかく救われた気分だったんですよ」
まくしたてるように話す青山さんは今まで私が抱いていた青山さんのイメージとはあまりにかけ離れていて、目の前で起こっていることの全てが何かの冗談みたいだった。あんな前のこと、てっきり既に忘れてると思ってた。いや、普通忘れるだろう。もし私がとんでもない美人だったら話は別だけど、あんな一分足らずで終わった手続きで対面した相手のことなんて、半年も経った今でも覚えてる方が変だ。
「営業に入ってからは全然話す機会なくて、でもずっと話したいって思ってて……それで」
「……」
「あ、あの」
強い風が吹きつけてきて、数秒後に電車がホームへ進入してきた。初めて見る青山さんの真剣な眼差しに、私は縛りつけられたように身動きひとつ取れない。ただ、青山さんの眼鏡のレンズに映る電車の明かりが流れていくのをぼんやりと眺めていた。
「里村さんが良ければ、その……来週とかで暇な時に、何か食べに行ってくれませんか。二人で」
こういう時、どう答えたらいいんだろう。生まれて初めて経験する場面に突然遭遇した私には、冷静に状況を分析し適切な回答を導き出すことなど不可能だった。
「……えっと」
「あっ、あの、いいです!」
「え?」
いつの間にか停止していた電車のドアが勢いよく開き、人がどかどかと降りてくる。私と青山さんはあわてて壁に寄って道をあけたけど、壁に背中をつけた時、乗降客の一人の肩が青山さんにぶつかって、軽くよろけた青山さんの片手が私の顔のすぐ後ろの壁についた。至近距離に青山さんの眼鏡が迫り、さっきからずっと赤いその頬がますます紅潮する。
「すっ、すいません」
青山さんはすぐ離れようとしたみたいだったけど、人でごった返している乗降口付近では身動きが取れない。私と青山さんはしばらくその距離のまま固まったように動けなかった。
「……」
ち、近い。近すぎる。青山さんの息遣いが私の唇に伝わってくる。ちょっと身じろぎしただけで触れてしまいそうだ。下を向いてるから見えないけど、さっきから青山さんの視線を痛いほど感じる。たったそれだけのことなのに、恥ずかしさで顔が燃えるようだった。どうしよう、いつものことだけど化粧直ししてないから鼻の毛穴がヤバいのに。あ、そう言えばさっきトイレで鏡見た時、眉毛が半分くらい消えてたような気がする。それだけじゃない、今朝は小雨が降ってたから朝から前髪が少しうねってる。どうしてよりによってこんな日に。
昨日あいつにキスされた時は、そんなこと考えてもいなかったのに。
「……電車、乗らないんですか」
はっと我に返った。青山さんの顔がそっと離れていき、いつの間にか混雑の落ち着いた乗降口の前に立っているのは私と青山さんだけだった。
「あ……あの」
「俺、隣のドアから乗ります」
「えっ、あ……」
流れていた発車メロディが止まる。青山さんは私の背中を押して電車に乗せると、ひとつ隣のドアに向かって駆けて行った。去り際、耳元に小声で言葉を残して。
「返事、待ってますから」
*
何かを考えていたわけではない。本当に、何も考えていなかった。身体に染みついた習慣というのは恐ろしいもので、ただただぼーっとしていてもいつの間にか私はいつものように自宅の最寄り駅に降り立っていた。駅を出て、アパートへの道をとぼとぼと歩く。自分の身に起こっていることなのに、何故かひどく他人事みたいで現実味がない。
いいなって思ってた? あの青山さんが、私のことを。
それは昨日まで、地球がひっくり返ったって起こるはずがないことだった。自分で何か努力をしていれば少しは現実として受け止めることもできたかもしれない。例えばもう少し痩せるとか、メイクや髪型の研究とか、人前で愛想よく振る舞うとか、そういう努力をした末での出来事ならまだ納得できた。だけど、私は何もしていない。ただ毎日同じことを繰り返しているだけで、人に好かれる努力なんてひとつもしていないのに。青山さんは一体、私の何をいいと思ったんだろう。
信号待ちをしている間、何気なく視線を向けた先のコンビニから見慣れた顔が出てきた。
(あ……)
狐だ。昨日と全く同じ格好のまま、手に小さなビニール袋を提げている。夜目にも明らかに人の目を惹きつけている金色の髪と透き通るような白い肌。こうして遠くから見るとあいつは、結構端正な顔立ちをしている。近くで見ると残念っていうわけじゃなくて、今まであいつの顔をちゃんと見てなかったような気がする。キツそうな顔だから近寄りがたいのは出会った時から変わってないけど。
信号が青になった瞬間、あいつは私に気が付いた。
無視されるかな、そう思ったけど、あいつは真っ直ぐこっちに向かって歩いてくる。
「お疲れ」
横断歩道を渡り切ったところで合流し、無表情で労いの言葉をかけられた。まともに目が見られなくて、斜め下に視線をさまよわせてぼそぼそと呟く。
「今日もうち来るの?」
「迷惑なら行かないよ。今日はこれ買いに来ただけだし」
言いながら狐は持っていたビニール袋を私に差し出した。
「え、なに?」
「昨日の」
受け取って中を覗くと、昨日青山さんにもらったのと同じあのお菓子が入っている。
「あれから、考えたんだけどさ」
どちらからともなく、アパートへの道をゆっくりと歩き出す。狐は両手を上着のポケットに突っ込んで、寒そうに肩をすくめてどこか遠くを見るような目をしていた。
「悠子が誰とどうこうなるのも、悠子の自由だよな。気を付けろだの何だの、俺が言うことじゃなかった」
「あれは……別に」
いきなりそんなこと言われたって、どう答えたらいいのか分からない。妙な空気になってしまった。このままこいつと部屋に行って大丈夫なんだろうか、ふと今になって気付く。また昨日みたいなことになったら。
「少しは俺の言ったこと、分かってくれたっぽいな」
「は、はあ? 何が」
ドキリとして顔を上げると、いつの間にか狐は私の顔を見ていた。意味ありげにニヤニヤと笑うその目は、まるで今私が思っていたことを見透かしているかのようだ。
「心配しなくていいよ、今日は行かない。アパートまで送ったらそのまま帰るよ」
「だっ、だから……私は何も」
顔が熱くなってきて、赤くなっていることなんて鏡を見るまでもなく分かる。不意に狐の手のひらが、ぺたりと頬に触れた。その冷たい感触に思わず声が出る。
「ひゃっ」
「お前なあ、そういう顔誰にでも見せてんじゃねえって。青山さんだけにしとけよ」
「……」
「なに、何かあった?」
きっと『何かありました』って顔に書いてあるんだろう。今まで自分はあまり顔に出ないタイプだと思っていたけど、ついさっき人生で初めて経験したことを顔に出さずにいられるほどではなかったらしい。
「えっと……」
言っていいものか、しばし悩む。昨日の今日でまさか青山さんに好意を示されるとは思ってなかったけど、ここまできて言わないというのは明らかに不自然だ。
「言いにくいなら、記憶読み取っていい?」
「えっ、あ、ダメ! や、やめてよ」
あわてて狐の手を頬から引き剥がすと、狐はやれやれと言いたそうな目でため息をついた。
「じゃあ言えよ。何かされたのか?」
「……何か食べに行きませんかって、言われた。来週」
「サシで?」
「……うん」
返事がない。狐の顔を見ることができず、私たちはただ黙々と歩いていた。嫌な沈黙が重苦しく私たちの間に圧しかかり、息遣いひとつあいつに聞かれるのさえ怖かった。
「……ふーん、いいんじゃないの」
どれだけそうして歩いていただろう。夜の空気に溶けるように微かな声で、あいつが呟いた。
「良かったじゃん、行ってきなよ。これで処女卒業できるかもしれないし」
それは決して茶化しているような言い方ではなく、ひどく真剣な色を帯びた声で、思わず隣を見上げてしまう。狐は私を見ようとせず、いつもどおりの冷めた目で前を向いている。
「もし万が一そうなったら、もうあんたの面倒みられなくなっちゃうよ」
「そうだな」
「いいの? それでも」
「いいも何も、最初からそういう約束だったろ。悠子にいい人が見つかったら出て行ってもらうって、そう言ってたのお前じゃん」
どうして、そんな突き放すような言い方するの。
いつも誰にも興味なさそうな顔してるくせに、いきなりキスしたかと思えば、今度はそういう言い方で突き放して、こいつの考えていることがさっぱり分からない。こいつは何を考えているんだろう、こいつは私にどうしてほしいんだろう。あまりに一貫性のないこいつの言動に私は振り回されっぱなしで、それはひとつひとつは小さなものでも確かな不満になって私の中に降り積もっている。
「悠子しかいないって、あんた言ってたでしょ」
それを口にするのはひどく抵抗があったけど、今言わないといけないような気がした。ずっとその言葉の真意を聞きたくて、でもずっと聞けなかったのだ。それなのに狐は大げさに驚いたような顔で笑って言った。
「え、なに本気で言ってると思ってたの? リップサービスだよ、飼われてるんだからそのくらいは言うって」
それが本当かどうかなんて、きっと私には分からないのだろう。でも、今こいつがそういう言い方で答えたということが、こいつの答えなんだろう。
「……あんた、言ってることがめちゃくちゃなのよ」
胸の奥底から暗いものが浮かび上がってくる。すっかり冷えた指先をぎゅっと握りしめた時、さっき受け取ったビニール袋の持ち手がくしゃりと音を立てた。
「私にどうしろって言うの? どうすれば満足なのよ!」
落ち着いて聞こうと思ってたのに、やっぱりダメだった。つい声を荒げていた自分に自分で驚いてしまう。縋るような思いで見上げると、狐は戸惑ったような顔で私を見ている。
どうして、そんな顔するの。そんな顔させたいわけじゃないよ。私はただ、あんたが何を考えてるのか聞きたいだけなのに。
ふわ、と頭に狐の手が触れた。大きな手のひらがゆっくりと優しく私の髪を撫でている。
その優しい手つきとは対照的に、私を見つめる狐の目はあまりにいつもどおりだった。
「悠子は悠子のしたいようにすればいいだろ。俺に何て言われようと、自分の思うとおりにすりゃいい。なんでいちいち俺に聞くんだよ」
「……」
するりと狐の指が離れていく。私の髪が名残惜しそうにその指先を滑り落ちる。狐は私から顔を逸らした。
「……俺には、関係ない」
私は、何を勘違いしていたんだろう。こいつが私に何かを求めてたんじゃなくて、私がこいつに何かを求めてたんだ。こいつは最初から私に何も求めてない。それなのにこいつの態度や言葉の裏に何かがあるはずだと思い込んで、それを必死になって見つけようとしていた。そこには何もなかったのに。
「そうだね。あんたには、関係ない」
息がほのかに白く立ち昇る。
「私のしたいようにするよ」
狐の返事を待つことなく、少し先に見えるアパートに向かって歩き出す。狐は追いかけてこなかった。




