3-3. 焦燥
ふて寝してしまった狐を放置して狭いキッチンで洗い物をしていると、部屋の中からテレビの音が聞こえてくる。何となくほっとして、水に浸しておいたお茶碗を洗い始める。今まで長いこと自分が使った分の食器だけしか洗っていなかったから、二人分の食器を洗うのはまだ違和感があって何だか変な感じだ。だけど、不思議と嫌ではない。会社で誰かのために何かをするのは仕事だからという大義名分があるけど、あいつが使った食器を洗ったって私には一銭の得にもならないのに、どうしてなんだろう。
(ダメだよなあ……これは)
人のことなんて考えてられるほど金銭的にも年齢的にも余裕なんてないはずなのに、私って何やってんだろう。頭では分かっていても、部屋に自分以外の誰かがいるこの感覚はずいぶんと久しぶりで、部屋の奥から聞こえてくる微かなテレビの音が実家にいた頃をふと思い出させた。自分が今までずっと独りだったことを、私はあいつとの生活で初めて知ったような気がする。一人で生活していた頃はそんなふうに思ったこともなかったのに。
「あんた、まだ帰んなくていいの?」
洗い物を済ませ、部屋に戻りながら声をかける。
「んー、これ終わってから」
あいつは私をちらりとも見ず、こたつで横になったままテレビを見ていた。
(こうして見ると、本当に普通の人間なんだけどな……)
あの時こいつが見せた私の記憶、あれは本当にあったことなのかと、最近少し自信がなくなってきている。もしかしたらあれは全部ただの夢で、私はただの人間の男を飼っているだけなのかもしれない。まあ、仮にそうだったとしてもこの状況は何ら変わらないのだ。
ひとつため息をついて、床に転がっていたバッグを拾い上げていつものように壁に掛けようとした時、中からころりと何かが落ちた。青山さんにもらったお菓子の箱だ。箱は床を転がり、こたつで寝そべっている狐の頭の横で止まった。
「お? なにこれ。会社で食わなかった分?」
目ざとくそれを見つけた狐は、手を伸ばしてひょいとお菓子を拾い上げる。
「あっ」
「もーらい」
まだ開封していない箱を遠慮なく開けられ、中から個包装の袋を引っ張り出そうとしているのをあわてて制止した。
「ちょっ、返して! 勝手に食べないでよ」
「なんだよ、いーじゃんこのくらい。また今度コンビニで買ってくるから」
「そういうことじゃないの! いいから返してよ!」
私、なんでこんなムキになってるんだろう。あいつも何か感じたのか、ふと黙り込んで私を見上げている。テレビの音がやけに遠くから聞こえてくるような気がした。
「……もしかしてこれ、さっき言ってた青山さんにもらったやつ?」
背中が熱い。指をぎゅっと握りしめて、なるべく狐の目を見ないようにしながら答えた。
「そうだよ」
「ふーん……」
あいつは指先でお菓子の箱を何度かぷらぷらと小さく振ると、テーブルの上にぽんと置いた。ゆっくりと身体を起こしてこたつ布団から出て、その場に座り直している。
「そんなに大事? そいつにもらったお菓子。こんなもん、どこにでも売ってるのに」
「ちっ、ちが……」
何を思っているのか、狐はお菓子の箱を見ている。何となくそれ以上この空気に耐えられそうもなくて、狐の隣に膝をつくとお菓子の箱をさっと取り上げた。また立ち上がって、さっさと向こうへ行こうとしたその時、不意に狐がこっちを向いた。私がそっちを見るより先に、両手の手首を力任せに掴まれ、そのまま背後の壁に押しつけられる。床に強かに尻もちをついてしまい、背中に鈍い痛みが走る。
「いたっ……ちょっと、何す」
非難に満ちた目で見上げても、狐と私の目が合うことはなかった。
唇を塞がれていたからだ。
視界いっぱいに狐の顔が映り、文句を言おうとしていた唇は狐の唇で力づくで塞がれている。
何が起こったのか理解できず、痺れたように頭の奥から感覚が消えていく。
私の手首を壁に押さえつけていた狐の手から微かに力が抜けて、少しかさついた指先が私の手首を滑るその感覚にはっとする。無我夢中で両手を振り解き、狐の胸をぐいと押して身体を離す。不機嫌そうな目で私を見ている狐の頬を力任せにひっぱたいた。
「――何すんのよっ!」
はあはあと荒く呼吸を繰り返しても、心臓が胸を突き破って飛び出しそうだった。息を吐く度に上下している自分の肩が何だか大げさだとは思ったけど、そのくらいしないとまともに息ができない。
狐はすぐには何も言わなかった。片側の頬だけがみるみるうちに赤くなっていく。
「分かったか、これで。男なんて下心しかないんだから気を付けろよ」
「は……?」
金色の髪がさらりと揺れて、その隙間からこっちを見る目は今まで見たことがないほど冷たい色をしている。背筋がひやりとして、異常な速さで動く心臓が一瞬縮み上がるような気がした。
「何とも思ってない女に思わせぶりな態度とって、何の得があるんだよ?」
言いながら、狐はテーブルの上に置かれたお菓子の箱を顎でしゃくって示す。
「思わせぶりって、別に……お菓子なんて誰だってくれるでしょ」
「まだ分かんねーの? ったく、そんなだからお前モテないんだよ」
狐の指先が私の額をぴんと軽く弾いた。
「いたっ」
「ちょっと押せばどうにかなりそうだって思われてんだよ、お前。ボケっとしてるから」
「……え?」
額を押さえながら、狐の目をじっと見る。相変わらずこの上なく不機嫌そうに私を見下ろしているその目は、私の目と合った途端ふいと逸らされてしまう。
「なんでお前、分かんないの?」
「何が」
「好きでもなんでもない男にあっさりこんなことされて、この時点でもう救いようがないって言ってんの。俺だから良かったけど、普通これだけで済むとか本気で思ってないよな?」
頬が熱い。頬だけじゃない、身体の奥から今まで感じたことのない熱が沸き起こってきて、私の意識はその中に閉じ込められてしまった。いつもなら文句のひとつも言えたはずなのに、言葉ひとつ口にすることができない。唇をわずかに開けるとそれが小刻みに震えていることに気が付いて、あわてて閉じる。
狐は私を見ようとしないまま、すっと立ち上がった。
「……気分悪い。帰る」
座ったままぼんやりと見上げても、狐はやっぱりこっちを見ない。こたつの横に脱ぎ捨ててあった上着を拾って羽織ると、足早に玄関へ向かいドアを開けて出て行った。まるでドアの閉まる音が呪縛を解いたように、それまで強張っていた全身から力が抜けていく。
そろそろと手を上げ、唇に指先で触れる。熱い。そこだけ自分の身体ではないみたいだ。ここにさっき力任せに押しつけられたあいつの熱を思い出して、また身体の奥であの熱が渦巻き始める。あの夜の触れるだけのキスとは違い、さっきのキスはいつまで経ってもその感覚が唇から消えない。あまりに強引で自分本位な感触がいつまでも私の意識を翻弄し続け、私はただ途方に暮れるしかなかった。
「……何なの」
ぽつりと呟いた独り言は、誰もいない部屋の空気に静かに溶けていく。
あいつに言われた言葉をゆっくりと頭の中で反芻する。
『なんでお前、分かんないの?』
あの夜も言われたような気がする。
『なんで分かってくんないの? どうすれば分かってくれんの?』
あれからいつも考えてる。私のどんな態度が、どんな言葉が、あいつにそんなことを言わせたのかって。あいつは私にどんな態度を期待しているんだろう、どんな言葉を求めているんだろう。それに応えたら、あいつは満足するんだろうか。そんなの私に分かるはずもない、私はあいつじゃないんだから。あいつが私に何を求めているのかなんて、私一人でいくら考えたところで見つけられるわけがないのだ。察しろと言われても、そんなことができるほど私たちの関係は親密なものではない。
そうだ、私はあいつのことを何も知らない。名前だって知らないんだから。過去に何があったか、あいつが私に教えてくれたのはただそれだけだ。それ以上は聞けない、踏み込めない。だって私とあいつにはそれ以外には何もない。赤の他人、それ以上に私とあいつは他人なのだ。
膝を抱えて、その上に顔を伏せる。視界が真っ暗になり、少しだけほっとして目を閉じた。
「……私に、どうしろって言うの」
そんなことさえ聞けない。私たちの関係はそれほど希薄なものだってことくらい、分かってる。




