3-2. 関係
「……ったく、もう」
さっきから複合機からはピーピーとエラー音が鳴りっぱなしだ。どうやら誰かが紙を詰まらせたまま放置して行ったらしく、こういう時は総務の中でも最下層の私が片付けなくてはならないという不文律がある。これまで数え切れないほどこなしてきた作業だからすぐ終わると思っていたのに、今日は変なところでコピー用紙が破れてしまっているようで、複合機の奥の方に挟まった紙の切れ端がなかなか見つからない。原稿カバー、給紙台、排紙台など、開けられるところは片っ端から開けて詰まりの原因を探し回っているのに、目視で確認できるところには見当たらなかった。
もう、本当に嫌だ。子供じゃないんだから、自分が詰まらせた紙くらい自分で取れっての。さっきから後ろを通り過ぎる人たちはこっちを見るものの、誰も手を貸そうとはしてこない。手伝えとは言わないけど、だったら見るな。私だって今日中にやらなきゃいけないことがあるんだから、こんなしょうもないことで時間を無駄にしてられないのに。
「里村さん、大丈夫ですか?」
ふと背後から声をかけられ、振り向くと青山さんがいた。外出から帰ってきたところなのか、鞄を手に提げている。
「あ、はい。大丈夫……」
言い終わらないうちに、青山さんは私のすぐ横に滑り込んできた。私が開け放していたカバーを一旦閉じると、そのすぐ上部分のカバーを慣れた手つきで開く。
「あれっ、こんなとこ開けられたんですね。知らなかった」
この複合機のことはもう知り尽くしていたつもりだったのに、私はそこが開閉できることを初めて知った。青山さんは少しだけ得意げに笑っている。
「前いた会社でも同じやつ使ってたんです。俺しょっちゅう紙詰まらせてたから、こういうのは任せてください」
奥の方に破れた紙片が挟まっているのが見える。青山さんの長い指が端をつまんでゆっくりと引っ張ると、その紙はするりと綺麗に滑り出てきた。カバーを閉めた途端、それまでやかましく鳴り響いていたエラー音がぴたりと止まる。
「あの……すみませんでした。ありがとうございます」
情けない。入社して一年経ってない、しかも自分より若い子に助けられるなんて。青山さんは操作パネルに表示されていたエラーメッセージを消しながら、もう片方の手で紙片をくしゃりと握りつぶした。
「どうせまた、誰かが詰まらせて逃げちゃったんでしょう?」
「え……」
びっくりして見上げると、青山さんは視線だけをこっちに向けている。
「里村さんが何でもやってあげちゃうから、みんな甘えてるんですよ」
今までどちらかと言うと幼い印象の顔立ちだと思っていたのに、私を見下ろすその目はほんの少しだけ呆れたように細められていて、ひどく大人びて見えた。普段の青山さんのイメージとは真逆なその目つきに咄嗟には返事ができなかったけど、何とかぼそぼそと答える。
「でも、他に誰もやらないし……」
「そうですね。俺としてはありえないんですけど、そういうの」
もしかして私、怒られてる?
さっきから明らかに不機嫌そうな声色で話す青山さんの横顔をまじまじと見ていると、青山さんははっとしたように身体ごとこっちを向いた。
「あっ、す、すいません! 別にその、里村さんに非があるとか言いたいんじゃなくて」
やっぱりそうだったか。
「いえ、正直私もそう思ってるんで。気にしないでください」
「だから違うんですよ。そういうことが言いたいんじゃなくて」
青山さんは必死になってフォローしようとしてくれているけど、自分の立場のことで誰かに気を遣わせてしまうことほど心苦しいことも滅多にない。誰かのしたことの後始末をするのは全然嫌じゃないって言ったら嘘になるけど、かと言って心底嫌々ながらやってるわけでもない。どうせ私にはこんなことくらいしかできないのは知ってるし、誰も私を気に留めてなんていないから、誰にも気付かれないように社内の環境を整えるのは地味で根暗な私にぴったりの役割だと思っている。だけど、そういう私の態度は周囲にあまり良い印象を与えていないということもよく分かっている。自己犠牲を美徳だなんて思ってはいないけど、私がそういうつもりで進んで雑務を背負いこんでいるように見ている人もきっと少なくはないんだろう。
「その、昨日里村さんに助けてもらっておいてなんですけど……ちょっと里村さんって、気が利きすぎって言うか」
昨日。ああ、あの社内便のことか。
「あんなの助けたって言わないですよ。総務の仕事だし」
「その割には里村さん以外の総務の人が郵便物捌いてるとこ、見たことないんですけど」
「……たまたまですよ」
見たことないって、一体いつ見られてたんだろう。会社に届いた郵便物を各部署へ捌く作業は一人で黙々とできるから、私にとって業務時間内に一人になれる貴重な時間でもある。ここから営業部の島は距離があるから、青山さんが作業中の私を目にすることはほぼないと思うんだけど。
「あの、これ」
不意に青山さんは床に置いていた鞄を持ち上げると、中から何か小さな箱を取り出した。下のコンビニで売っているチョコレート菓子の箱だった。ぼけっとしている私の前に、その箱が差し出されている。
「え……」
「昨日の、お礼です。これ渡しに来たんです」
そう言う青山さんは何故か私を見ようとせず、不自然にそっぽを向いている。
(渡しに来たって……あ)
そうか。このフロアの出入口はいくつかあるけど、営業部の人たちは営業部の島の近くにあるドアを使うから、こちら側のドアは滅多に通らない。なのにどうして青山さんがこんなところを通りかかったのか、変だなとは思っていたんだけど、どうやら偶然来たってわけではなかったらしい。
「わざわざ、来てくれたんですか」
他に言い方があったとは思うけど、つい思ったとおりに言ってしまった。総務と人事の島があるこちら側のドアはエレベーターから離れていて、ここに用がある人でないと普通は通らない。それなのにわざわざ遠回りしてまで、これを渡しに来てくれただなんて。
「……そうです」
少しぶっきらぼうにそれだけ言うと、青山さんはお菓子の箱を私の手に強引に押しつける。そっと受け取った時、青山さんの指が私の指に当たった。
「あ、あの……ありがとう、ございます」
あわてて箱ごと手を引っ込める。な、なに動揺してんだろ。
「じゃ、失礼します」
青山さんは軽く会釈して背中を向け、足早に行ってしまった。最後まで私とは目を合わせようとしなかった。
お菓子の箱を持ったままぽかんと突っ立っていると、入れ替わるようなタイミングですぐ横のドアから人が入ってきた。あわてて道を開けようと壁に寄った時、その人と目が合う。青山さんと同じ営業三課で営業事務をしている、小池さんだった。緩く巻かれた髪がふわりと揺れて、長いまつ毛の奥の目が舐めるように私を見た……と感じたのは一瞬のことで、次の瞬間には小池さんはぱっと笑っていた。
「お疲れ様で~す」
「……お疲れ様です」
「里村さん、さっき青山と話してましたよね? 珍しいツーショットだなーと思って、びっくりしちゃった」
私は小池さんが苦手だった。別に何かされたとかいうわけではないけど、男性社員と女性社員とで態度が露骨に変わるからだ。髪型もメイクも一見ナチュラルを装ってはいるけど常に隙がなく、しかもそれを男性社員に勘づかれないよう緻密に計算しているのは女から見れば一目瞭然なんだけど、女に対してはそれを隠そうともしない。それに、この値踏みされているような視線、これが彼女を苦手だと思う最大の理由かもしれない。小池さんは中途入社ではないけど青山さんと同い年で、社内にいる時は大抵いつも青山さんの横にいる。前に何度か、今日は珍しく青山さんの横にいないなと思っていたら、他の女性社員が青山さんと喋っているところを少し離れたところからこうやって監視するような目つきでじっと見ていたのを見かけたことがある。ここまで分かりやすい子も珍しいと思うほど、小池さんは青山さんがお気に入りらしい。
どう答えようか考えながら曖昧に笑うと、小池さんの視線が私の持っている箱に移った。
「それ、青山にもらったんですか?」
「え? あ……はい」
「へえ、珍しい。青山ってお菓子とか持ってきたことないのに」
「あの、昨日ちょっと社内便を代わりに発送したから、そのお礼にってもらったんですよ」
「ふーん……」
もはや小池さんは不機嫌な態度を隠そうともせず、長い爪で髪をいじりながら私をじろじろと見ている。ああ、やだな。私みたいな年だけとった地味な女にまで敵意向けてくるなんて、本当に見境ないな。あまりの居心地の悪さに目を逸らすと、小池さんはふふっと鼻で笑った。
「すいませ~ん。昨日あたしが休んでたから、総務まで聞きに来ちゃったんですよねきっと。青山、社内便の出し方も知らないから」
「……いえ」
「総務ってやってることは大したことないのに、ちょっと何かしてあげるといろんな部署から感謝されるからオイシイですよね~」
あまりにもあからさまな悪意を込めた言葉を残して、小池さんは営業部の方へすたすたと歩いて行った。
*
「それで何も言わないで黙ってたのかよ?」
ひととおり話し終えた私に、狐は呆れたように言い放った。
「何て言うかさ、そのとおりだと思うから。私も」
こたつテーブルに頬杖をついて、深々とため息をつく。狐は私の横でうつ伏せの状態でこたつに潜り込んでいて、肩から上だけを外に出している。まるで巨大なかたつむりみたいだ。そう思った時、クッションを胸に抱えた姿勢のままスマホをいじる手を止めてふと私を見上げた。
「そのとおりって、何が」
「何て言うか……」
こうやって一日の終わり、こいつと部屋でだらだら過ごすのはこれで何回目だろう。こいつは毎日ここに来るわけではないけど、こいつを拾った時と比べると最近は確実にその頻度は増えている。だからなのか、会社で少しでも嫌なことがあると、夜こいつに愚痴って発散するのが私の日常になっていた。今までは嫌なことがあってもそれを話す相手もなく、ただ胸にしまってその嫌な気分が薄くなるのをじっと待つしかなかったけど、今はそんなこともなくその日のうちにこいつに話してしまうからずいぶんと気が楽だ。今まで知識としてしか知らなかったけど、嫌なことって誰かに話すと本当に楽になるんだということを、私はこいつとの生活で初めて知った。
「何だかなあって感じ。別に今の仕事嫌いじゃないけど好きでもないし、誰でもできることだし」
やってることは大したことないのに、そう言われて腹は立ったけど否定する気は湧いてこなかった。要するにそういうことなんだろう。私のやってることなんて大したことじゃない、それを自分で認めてしまっているから、自分のしていることにやりがいも愛着も全く持てないのだ。
「嫌なら辞めれば?」
狐はまたスマホの画面に顔を向けて、興味なさそうに言った。
「ヒモが飼い主に言っちゃいけないセリフのナンバーワンですけど。辞めたらあんたの面倒みられなくなっちゃうよ」
「じゃなくてさ、なんか違うなって思ってんなら他の仕事してみればってことだよ」
「他の仕事ねえ」
「興味持てない仕事ずっと続けてんのもしんどいだろ、よく分かんないけど。何かやってみたいこととか好きなこととか、そういうのないの?」
「うーん……」
やってみたいこと、か。
「俺、悠子に嫌な思いしてまで働いてほしくないよ」
マグカップを両手で持って、少しぬるくなり始めているカフェラテを一口だけ飲む。気付かれないようにそっと横目で狐をちらりと盗み見た。
『お前が話したくないなら話さなくていいけど、俺はもっと知りたいって思ってる。お前のこと』
あの日から私とこいつは驚くほど何も変わらなかった。変わったことと言えば私が一人でいる時にあの夜のことを思い出すようになったことくらいで、こいつとの間に何か妙な空気が流れているとかそういったことは全くなく、あの夜の出来事は本当にあったことなのか、もしかしたら私の夢か妄想なんじゃないか、と疑ってすらいる。
今まで肉親以外の男の人と知り合い以上の関係になったことがない私にとって、こういう状況ではどんな態度でこいつに接するべきかなんていくら考えても分かるはずもなかった。私一人が重く考えすぎているのかもしれない、こいつにとっては特に大した意味もなくしたことだったのかもしれない、そう思うと変に意識した態度を前面に押し出すのもこいつに悪い気がして、たどり着いた結論は『今までどおりでいこう』だったのだ。そうだ、大体こいつは今まできっと数え切れないほどの女の人たちと関係を持ってきたんだろうし、そんな奴がキスひとつに特別な意味なんて抱いているわけがない。こいつにとっては挨拶よりも軽いようなものだったはずだ。
(そう思うと、ちょっと悪いこと言ったかな。何から何まで知ってなくてもいいと思う、なんて……突き放すような言い方しちゃったし)
もうこいつはとっくに忘れてるかもしれないけど、あの時自分が言った言葉は今も私の中で渦巻いている。あの時は突然あんなことされたから気が動転して、あいつの言葉に対して少し意固地になっていたような気がする。私のことを知りたいと言ってくれたこいつに、少しは応えてあげるべきなんだろうか。
「悠子って夢とかないの?」
相変わらず狐はスマホをいじりながら、こっちを見ずに話しかけてくる。こいつのこういう態度が、私は何故か嫌いではなかった。むしろ、心地いいとさえ思っている。夢だなんて壮大な話でも、こいつになら肩肘張らずに話せそうな気がする。
「夢ねえ……うーん」
「子供の頃なりたかった職業とか、あるだろ」
「ケーキ屋さん、とか。でもそれってただ単にケーキが好きだったからで、なりたい職業かって聞かれると違う気がする」
「じゃあ、得意だったこととか」
「国語かなあ。あ、そう言えば中学の時ね、作文の授業で作った創作が良くできてるって先生に褒められたことがあるの。高校の頃にいくつか趣味で書いたりもしてたし」
「おっ、いいじゃん。書くの好きなんだ? じゃあそれ仕事にすればきっと楽しいよ」
「……はあ?」
それまで聞かれるままに答えていた私は、狐のあまりに投げやりな提案にため息をついた。
「そんなの無理に決まってるでしょ。あれからもう十年くらいまともな文章なんて書いてないんだから」
「書いてみればいいじゃん、今。そうすればまだ好きなのかもう好きじゃないのか、それくらいは分かるだろ。で、まだ好きだったらそれをまたやってみればいいんだよ」
「バカじゃないの? そんな簡単に好きなことで食べていけるほど世の中甘くないよ」
「じゃあ今の仕事ずっと続けんの? 大して思い入れもない楽しくもない好きでもないこと、この先何十年も続けられるなんて考えの方がよっぽど甘いと思うけど。俺は」
「……どういう意味?」
正直、ものすごく意外だった。さっきから適当なことばっかり言ってると思ってたのに、今の言葉には思い当たるものがいくつもあったからだ。狐の真意を探ろうにも、こっちに背中を向けている奴の表情から何かを読み取ることはできそうもない。
「少しでも好きって気持ちがなきゃ続かないってこと。今は良くても、そのまま続けてたら絶対いつかつまづくよ」
「……」
黙り込んだ私の顔を、ようやく狐は振り向いて見上げた。またあの顔だ、口元は笑っているのに目は笑ってない、何を考えてるのか分からない表情。こいつはいつもこういう笑い方をする。
「働いてない俺が言うことじゃないか」
それまで呆けたように狐の顔を見ていた私は、そこではっと我に返った。どっこいしょ、と言いながら狐は身体を起こし、スマホをすぐ横の床に置いてこたつに座り直す。背中を丸めてテーブルの上に置いてあったあいつのマグカップを片手で引き寄せ、唇をくっつけて少しずつ中身をすすっている。もうほとんど冷めてるはずなのに、こいつはひどい猫舌なのかいつも熱い飲み物を飲む時はこうやって用心深く口に含む。
「でも、どうせなら好きなことして稼げた方がいいだろ」
「そりゃそうだけど、そんなに上手くいかないから、みんな我慢して嫌な仕事でもやってるんだよ」
「やってみてもいないうちから諦めてたら、そりゃ一生できないよ。とりあえず辞めてみればいいんじゃないの、今の仕事」
「無責任なことホイホイ言わないで。私が無職になったらあんたは他の寄生先を見つければそれで済むんだろうけど、私はそういうわけにいかないんだから」
コン、と音がして、狐がマグカップを置いた。
「お前、それ本気で言ってんの?」
空気が変わったような気がする。どうやらさっきのは失言だったようだ。
「……なに」
「言っただろ、俺には悠子しかいないって」
背中を丸めたままの姿勢だけど、狐の目は真っ直ぐに私を見ている。金色の髪の隙間から覗く目に捉えられたまま、私は指一本動かすこともできなかった。
「冗談でもそういうこと言うなよ」
それだけ言うと、狐はまた横になって肩まですっぽりとこたつ布団に埋もれてしまった。
「……風邪引くから、寝ないでよ」
「分かってるよ」
別に、なかったことにしようだなんて思ってはいなかったけど、こいつはあの夜に話したことをもうほとんど覚えていないのかと思っていた。あの時こいつ少し酔ってたし、そんな時に口にした言葉を今も覚えてると思う方がそもそも無理がある。
でも、覚えてたんだ。いつも適当なことばっかり言っててへらへらしてるくせに。
気が向いた時だけふらりと来て、飲み食いだけしてまた帰っていく。また来るかどうかも本当は分からないのに、こいつはいつもまたここへ来る。他にもっと良い環境を与えてくれる飼い主が現れれば、きっとこいつはもうここへは来ないんだろう。悠子しかいない、なんて、口だけだ。こいつはただ、あの神社にい続けられればそれでいいんだから。今の私はただ、気まぐれな野良猫に構っているようなものだ。
きっと、こいつの言葉や態度にいちいち意味なんて探してちゃいけないんだろう。だって私たちは最初からそういう関係だったのだから。




