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狐の恩返し  作者: 養生
第3章 心の在り処
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3-1. 青山さん

 キス、された。


 あれからというもの、四六時中とまではいかないけど、突然何の前触れもなくあの時のことが脳裏をよぎるようになってしまい、私はほとほと困り果てていた。通勤電車の中、会社で会議資料を印刷している時、休憩時間にぼんやりコーヒーを飲んでいる時、帰り道で特に買うものもないのにぶらぶらと靴やバッグを眺めている時、そんなふうに一人でぼーっとしている間が日々の生活の中にはいくつもあって、その瞬間にそれは突然やってくるのだ。


『ひねくれ者』


 あの時のあいつの表情や唇に触れたあいつの感触は、実を言うともうほとんど覚えていない。思い出そうとしてもそれは薄い靄がかかったようにはっきりと見えなくて、本当に触れられたのかさえ怪しいくらいなのだ。なのに、あの時あいつが言ったことだけは、何故かはっきりと覚えている。

 私のことをひねくれ者だとあいつは言った。あいつの言っていることが全然分からないと言った私に、あいつはそう言った。それはつまり、本当は分かってるんだろうと、そういう意味だったのだろうか。


『自分がそばにいたいと思える奴なら、そいつのものになるのは幸せなことだろ』


 あいつは何が言いたかったんだろう。私は今でも、あの時のあいつの真意を図りかねている。言葉のとおり受け取るなら、あいつは私のそばにいたいと思っている、ということなんだろう。でもそれは私に生活の面倒をみてもらえないと困るという意味であって、じゃあどうしてその流れで私にキスをする必要があったんだろうか。

(いや、そもそもキスって何か意味がないとしないもんなの? 何の意味も理由もなく、ただの挨拶みたいにしてる人だってたくさんいるし……でもあの状況で挨拶のキスって不自然だし、何か意味はあったと思うんだけど……)

 考えれば考えるほど疑問の糸は複雑に絡まり、もはや私一人で解くことは到底不可能な状態になってしまっている。

 ああもう。一体どういうつもりなのか知らないけど、本当にこういうのはやめてほしい。三十路を目前に控えても未だ恋愛経験ゼロな高齢処女の妄想力を甘く見過ぎなんだ、あいつは。もっとちゃんとしたシチュエーションで迎えたかった私のファーストキスをまさかあんなわけの分からない状況であっさり持っていかれる羽目になるなんて、全くもって想定していなかった。しかも、好きでもなんでもない男に。


 ダメだ、また頭の中があの時のことで埋め尽くされそうになってる。誰かと話してる間や電話応対中はこんなことないのに、どうも今みたいに一人で淡々と入力作業をしていると頭を使わないせいか余計なことを延々と考えてしまうようだ。少し頭冷やしてこよう。

 席を立ってトイレにでも行こうとふらふら歩いていると、向かい側から真っ直ぐこっちに歩いてくる人と目が合った。こっちには総務と人事しかないから、うちに用事かな。そう思ったのとほとんど同時に、その人は私の方へ小走りに駆け寄ってきた。

(あれ、珍しい)

 青山さんだった。去年の夏頃に中途で入ったばかりの男の子で、確か営業三課に回されたんだっけ。社員証や入退室カードの発行手続きは私が担当しているから、入社して間もない頃に一度だけ顔を合わせたことがある。まだ若くて幼い印象があるけど整った顔立ちとぱっちりした目がとにかく目立っていて、全体朝礼で入社の挨拶をした日のうちにあっという間に女性社員たちの噂の的になっていたのをよく覚えてる。女子トイレで私より遥かに若い後輩の子たちが青山さんの噂で盛り上がっているところを何度か見かけたことがあり、彼女たちによると何とかいう人気の男性アイドルグループのメンバーの一人にそっくりらしい。こんな少女漫画みたいなモテ方をする男の人を現実で見たのは初めてだったけど、私みたいなとうの立った女には無縁の世界の出来事で、ただ傍観しつつも少しだけ羨ましいな、なんて思っていたりする。あんなふうに男の子の話で素直に盛り上がったりできる彼女たちは、ただそれだけで眩しくキラキラしていたから。あんなふうに輝いていた時期なんて私の人生には一度だってなかったのに。


「里村さん」


 え。

 びっくりして立ち止まると、青山さんは私の前で止まってにこっと笑った。入社間もない頃には緊張していたのかほとんど笑った顔を見た覚えがなかったけど、この半年間でだいぶ慣れたのか、営業スマイルもすっかり板についている。

(私の名前、知ってたのか)

 そう思ったけど、ふと自分の首に下げている社員証のネックストラップが視界の端に映って納得した。きっと入社したばかりの頃はまず会社にいる人の名前を覚えるのに苦労したんだろう、私もそうだったからよく分かる。私はその中で、名前を知らない、もしくは覚えてない人に出くわした時、相手に気付かれないよう瞬時にその人の社員証の名前を盗み見る技術を独自に会得した。青山さんもきっとその技術をマスターしていて、さっきも私がよそ見をしている隙をついて社員証から私の名前を確認したのだろう。社員証を見たことが相手にバレていなければ、向こうは自分の名前を知ってもらえている、もしくは覚えてもらえていると勘違いして、こちらに対する心証も良くなるというわけだ。私みたいに総務で雑用に徹しているような下っ端でもできることを、営業で日々いろんな人に会う青山さんができないということはまずありえないし、そもそも営業が人の名前を覚えられないというのは致命的だ。

 ほんの少しでも心の隅で浮足立っていた自分を意識から消し去り、軽く会釈して微笑んでみせる。

「お疲れ様です」

 すると青山さんも軽く頭を下げながら、手に持っていた茶封筒を少し持ち上げて示した。

「お疲れ様です。あの、これ……」

「?」

「神戸支店に送りたいんですけど、なんか社内便って発送する曜日が決まってるとか聞いて」

「ああ、そうですね。火曜と金曜にまとめて出してますよ」

「金曜? あっちゃー……今日って水曜でしたっけ」

「はい。あ、もしかして急ぎですか?」

 今まで何度このやりとりを繰り返してきたか分からない。営業に限らずどこの部署でも郵便物の発送や受け取りは事務の子が担当していることが多く、おそらくこの会社の男性社員は全員郵便物や宅配便の発送方法など知らないだろうと断言してもいいと思っている。ましてや社内便の運用ルールなんてごく一部の女性社員しか把握していなくて、そもそもそんなものがあることすら知らない社員の方が多いような気がする。業務の都合で急ぎで各支店へ書類を送らなければならなくなった時、大抵の人はとりあえず総務に来て、そこでいちばん下っ端の私に声をかけて聞いてくるのだ。だからこれは青山さんに非があるわけではなく、そういう雑務をみんな部署内の事務の子に丸投げするよう引き継ぎをしたのであろう営業の男性陣に問題がある。青山さんは頭を掻きながら、困ったように笑った。

「そうなんです、明日までに長瀬支店長に送らないといけない書類で……」

「じゃあ今日出しておきますよ。明日の朝には届くと思います」

「えっ、いいんですか?」

「急ぎの時は曜日に関係なく出しちゃってるから大丈夫ですよ。週二回しか出さないのはコスト削減のためだけど、一回や二回なら大した額じゃないので」

「うわ~、ありがとうございます! 助かりますマジで!」

 茶封筒を受け取った時、まともに目が合ってしまう。本当に花が咲いたように眩しい笑顔で、この程度のことでここまで喜ばれるとかえって申し訳なく思えてきた。

「いえ……じゃこれ、お預かりしますね。神戸の長瀬支店長宛で大丈夫ですか?」

「はい! あ、俺ちゃんと書けてますか?」

「えっと……」

「ここ」

 封筒に貼り付けてある社内便用の送り状を確認しようとした時、急に青山さんの顔が近づいてきた。私の持っている封筒に顔を寄せてきたのは分かってるけど、いくらなんでも近すぎる。青山さんの前髪が私の前髪に触ってるし。

 青山さんは気付いているのかいないのか、送り状を覗き込んでそこに書いてある宛先や送付元の名前を指で押さえながらひとつずつ確認している。長い指だなあ。関節から関節までの長さが私のそれとはあまりに違っていて、ついまじまじとその指の動きを目で追ってしまっていた。短く綺麗に切り揃えられた爪の根元が少しだけささくれている。営業だから身だしなみには気を遣っているんだろうけど、手荒れとかはあんまり気にしないのかな。

「里村さん」

「え、あ。はい?」

 はっと我に返り、視線を上げる。前髪のすぐ先に青山さんの目があった。


 何故か、あの夜のあいつの目を鮮明に思い出した。

 そうだ、あの時もこのくらいの距離で。

 あいつは、私に。


「……」

 青山さんは微動だにせず、ただじっと私の目を見ている。深い二重まぶたから伸びた長いまつ毛が一瞬だけ伏せられ、私はその時自分が息を止めていることに初めて気が付いた。

「それじゃ、よろしくお願いします」

 すっと前髪が離れていき、青山さんは送り状から指を離した。

「あ……はい」

 声と一緒にそっと息を吐き出す。頭の奥にはまだあいつの目がありありと残っている。どうしてだろう、あれからずっとぼんやりとしか思い出せなかったのに、よりによってこんなタイミングで。

 何となく青山さんの顔を直視できず、送り状を確認しているふりをして目を逸らした。そんな私を何故か青山さんはまだじっと見ていて、手のひらがじっとりと汗ばんでくるのが分かる。

 廊下の方から三課の課長と経理部長が何か話しながら歩いてきて、私たちのすぐ横を通り過ぎていった。私と青山さんは反射的にお疲れ様です、と言いながら道をあける。二人の姿を見送っていると、青山さんはふとこっちを向いた。

「本当にありがとうございます。今後はもっと余裕をもって発送するよう気を付けますので、よろしくお願いします」

「えっ、あ、いえ。また急ぎのものがあったら言ってくださいね」

 青山さんは頭だけをぺこりと下げて、最後にどこか困ったような笑顔を見せて営業部の方へ行ってしまった。


 周りに誰もいないことを確認してから、大きく深呼吸する。

 落ち着け、落ち着け。なに動揺してるんだ、しっかりしろ。

 最近の若い子はパーソナルスペースが極端に狭い子が多いのかな。少なくとも私の世代では考えられない距離の詰め方だ。若い子特有のあのキラキラにあてられてしまうと体力をがっつり削られるのか、今の自分がとんでもなく疲れ切っているのをようやく自覚する。

(……青山さん、困った顔してたな)

 きっと、ちょっと近づいたくらいで動揺していた年増女の反応にドン引きしていたんだろう。とてつもない自己嫌悪の波が押し寄せてきて、胸の中がどんよりと重たくなってくる。確かに動揺してたけど、あの時はあいつの顔を思い出してたからで……。

 いや、違う。なんであいつの顔を思い出して動揺するんだ。

「……ああ、もう」

 頭の中がまとまらないうちに、無意識に独り言を呟いていた。

 あいつが悪いんだ。あいつがあんなことするから。

 まだ収まらない胸の動悸を必死で押さえつけながら、封筒を抱え直してとぼとぼと自分の席へ引き返した。

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