後編ー4
無音の水底は、息もできない。下腹の痛みがからだの芯を貫く。俺の足を掴んでいた無数の冷たい手は、ぬるりと溶け合い巨大な顔となり、目玉のない虚ろな眼窩で俺を見つめていた。その青白い顔は大口を開けて俺が落ちてくるのを待ち構えていた。観念して目を瞑ると、まぶたの裏のちかちかとした明りの中に、眠るトムの白い顔が浮かんだ。
(すまない、トム)
胸中でトムに詫びた途端に、夢想のトムは幼いジャックへと変貌した。可愛い我が子の顔立ちは、幼いころの俺自身によく似ている。雷に打たれたかのように、俺ははっとした。
(俺が今くたばったら、ジャックはどうなっちまうんだ? 父なし子になるのか? 俺と同じ人生を歩むことになるんじゃないのか?)
俺は目を開く。いかに自分の視野が狭かったか、思い知った。俺が見るべきなのは、過去に死んでしまったトムではない。今、目の前にいるジャックだ。そもそも、俺はこんなところで何をしているのか。危険を冒してまで死の国へ出向くべきではなかったのではないか。俺は何としても生きて、ジャックの未来を守らなければならない。
疲れ切った手足に、再び力が湧いてきた。
死霊の大口の中へと落ちていく直前に、俺は無茶苦茶に手足を動かした。生まれてこの方、泳いだことなんてなかったが、もしも魚になったらこんな心地なのかもしれない。水を掻いた手足はほんの少し浮き上がった気がした。呼吸はできないが、そんなことは煙突の中でもよくあることだ。俺は無我夢中で上を目指した。
そのとき、無音だったはずの井戸の底に聞き馴染んだ声が響き、天から真っ黒な腕が伸びてきた。
「諦めるな、ダニー・ボーイ!」
今度こそ、父さんの声だった。また小人がなりすましているのかもしれないなどと疑う間もなく、俺はその黒い腕に向かって手を伸ばした。熱く大きな手が力強く俺の手を掴み、引っ張り上げる。父さんの強烈なにおいが鼻をついたが、その悪臭がたまらなく懐かしかった。
気が付くと、俺は天を仰ぎ、手足を投げ出して転がっていた。傍らには、ぼろ煙突がにょっきり伸びている。背中の下のスレート瓦が硬く冷たい。井戸の中に飛び込んだはずなのに、俺は何故かうちの屋根の上にいた。
空は青くなんてなかった。夜明け前の、暗く濁った鉛色だ。この世の汚いものを端からぶち込んでいったかのような、乱雑で歪でせせこましいスラム街の上に広がる空は、だだっ広かった。からだは重く、真冬の夜気に晒され芯まで冷え切っていて、あちこち鈍く痛んだ。鳥が、朝が間近であると告げている。そのさえずりが、スラム街の静けさを際立たせていた。
どうやら、俺は生きているようだった。
父さんの気配も小人の気配も、跡形もなく消え失せていた。煙突の根元には、空の水瓶と、繕った糸のあちこち飛び出した靴が、きちんと揃えて置いてあった。軋むからだに鞭を打って起き上がり、それらをよく見ると、真新しい煤の手跡がついていた。思わず自分の手を見るが、水で洗い流したあとのようにぴかぴかだ。俺の手跡ではない。手跡の主に思いを馳せてぐるりと頭を巡らせたとき、東の空に強烈な光の点がちかりと輝いた。
目を細めて日の出を見た。ごみごみとした屋根の波間から顔を覗かせた太陽は一秒ごとに膨らみ、静かに空を上っていく。俺はゆっくりと立ち上がった。冷たかった手足に血潮が流れ、脈打つたびに温まってきた。不意に風が吹きつけてきて俺の半身を打ったが、身を切るような冷たさではなく、清らかな水のようだった。
俺は、長い間悩まされてきた下腹の痛みが消えていることに気付いた。ズボンの中を確かめてみると、煤いぼは消え、つやつやとした桃色の傷跡が残るのみだった。
スラム街の井戸は間もなくポンプ井戸へと姿を変え、井戸の小人はその後一度も姿を現すことはなかった。
その翌年には煙突掃除人法が制定され、事業実施に警察の認可が義務付けられた。それまで無視されてきた条例に拘束力が生じ、煙突掃除への子どもの就労禁止がようやく実現したのだった。煙突掃除の子どもたちは姿を消していった。弟子たちの奉公の任を解いて工場に送り出した俺は、ひとり煙突の外からブラシを差し入れて掃除を続けた。やがて人間が煙突の中に潜り込んで掃除する手法は廃れ、機械式の掃除が主流となっていった。
この大都市の青空は失われ、灰色のままだ。無数の煙突から立ち上る煙を溶かし込んだ空は重く垂れこめていて、屋根に上がってその空の広がりを眺めていると、この街の煙突を守ってきた掃除人たちの仕事の重みが胸に迫ってくる。そんな時、傍らで目を輝かせているジャックの頭を撫でまわす。彼は今も俺の仕事に憧れを持ってくれている。この仕事が幸運を運んでいるとは俺には到底信じられないが、幼い彼の夢を応援してやれる時代が来たのかもしれないと、そう感じるのだ。
※煤いぼ:陰嚢皮膚の扁平上皮がん。煙突掃除人に特異的に発生した職業病。発がん性の煤が股に溜まったまま刺激が続くことで発病した。