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後編ー3

 小人はくるりと体の向きを変え、肉の道を再び進み始めた。俺は気を引き締めて小人の後を追い、這っていった。道は上り坂になった。傾斜と死臭がどんどんきつくなっていく。肉に挟まれ、何度も滑りそうになりながら、小人の背中を追いかけた。


――チャリン。


 不意に、後ろでコインの落ちる音がした。俺は反射的に振り返りそうになるのを、慌ててこらえた。こんなところに金があるのか? いや、これほど柔らかい肉の道に硬貨が落ちたとして、あんな音が鳴るのか?

 混乱した頭でひとしきり考えてから、俺は声を立てて笑った。どうやら、帰り道は一筋縄ではいかないらしい。ここにいる死霊たちは、そこまでして生者を食いたいというわけか。俺は気を取り直して、目の前を進む小人を追うのに集中した。


「おい、逃げるのか?」


 今度聞こえてきたのは、懐かしい少年の声だった。うちを出て工場へ行ってしまったウィルだ。振り返ろうとする頭を無理やり前に固定して、俺は声の主に訊ねた。


「ウィル……どうしてこんなところにいるんだ」

「決まってるだろ。死んだからさ」


 ウィルの声は硬く、冷たかった。


「工場に行くって。住み込みで頑張るって言ってたじゃないか」


 俺はなおも訊ねたが、こうしている間にも小人はどんどん上り坂をのぼっていく。狭い肉の道は曲がりくねっていて、ひとたび小人との距離が開けば、たちまち姿を見失ってしまうだろう。俺は後ろ髪を引かれる思いで、前に進んだ。ウィルの声は少しずつ遠ざかっていく。


「住み込みの仕事なんて見つからなかったさ。道端に寝転がっては、お天道さまの顔出す前から夜遅くまで工場に詰め込まれる毎日だったよ……秋まではなんとかやっていけたけど、冬の夜の寒さはどうしようもない……肺は痛むし……あっけなく凍え死んじまったさ。マスターもダニエルも、家があっていいなぁ。チビどもを煙突に押し込んでいれば金が手に入るんだから、いいなぁ。大人になれていいなぁ……お天道さまのところへ戻れていいなぁ……」


 ウィルの恨み節を聞いていると、悔しさといたたまれなさがないまぜになり、下腹の痛みが全身に回っていくかのようだった。四つん這いで進んでいるから、耳をふさぐこともできない。


「逃げるのか……逃げるのか……」


 その声が聞こえなくなっても、俺の左右の耳の奥からぐわんぐわんと響いていた。


――逃げるのか……逃げるのか……――


 そのころには肉の道は暗く腫れぼったく、じゅくじゅくと化膿しているような状態になっていた。ほぼ垂直に上へと伸びる道を、煙道の中を進むのと同じような姿勢で、両肘と両膝を踏ん張って昇っていく。その足を軽く引かれた。冷たい手が俺の裸足の足首を掴んでいるようだったが、そちらを見ることはできなかった。


「ダニエル。バターをちょうだい。さっきあの小人にあげてたよね?」

「ハリーか……」


 俺は呻いた。慈善団体へと売られていったはずのハリーが、この死者の世界にいる。ウィルのことも併せて考えれば、大体の事情の察しはつくが、それにしてもあんまりだ。ハリーはか細い声で懇願を続けた。


「ぼく、蒸かし芋にバターをのせて食べるのが大好きなんだ。ダニエルはよく作ってくれたけど、協会ではバターののったのなんて出てこなかったんだ……ダニエルの蒸かし芋が食べたいよ……」


 ハリーの哀願を振り切って、俺は小人の尻目がけて悪態をついた。


「おい、いつまでこんな趣味の悪い三文芝居を見せ続けられなくちゃならねえんだ? ウィルもハリーも、俺を食いたがってるってか? こっちの世界はそんなに食いもんがねえのかよ」


 先を行く小人はカッカッカッと笑った。かさぶたのように硬くなった道の壁に、甲高い笑い声が響く。


「なんにもねえ。味気ないもんだぜ。まあ、その代わり腹が減ることもねえがな。あんた、なかなかしぶといねぇ。もうすぐお天道さまが見えるぜ」


 その言葉通り、小人の影の隙間から、針孔ほどの光が見えたかと思うと、どんどん大きくなっていった。光ははじめ白っぽく、近付くにつれて青みを増していった。ふつふつと沸いてくる怒りの泡を忍耐強くつぶしつつ、俺はその青い光を目指して石壁を登り続けた。小人はときどき俺の方を見下ろしているようだったが、逆光で影になり、どんな表情をしているのか分からなかった。

 青い光はどんどん広がる。小人がついに井戸のてっぺんに上がり、外へ飛び出してしまうと、頭上に青空が広がった。どこまでも手を伸ばしても先へ届かなそうな、無限の青だった。


(昔は青空があったもんだ……)


 父さんの言っていた青空はこれか、と合点がいった。井戸の縁に手をかけて体を持ち上げ、空の青へと飛び込もうとしたとき、井戸の下の方から俺を呼ぶ声があった。


「待ってくれ、ダニー・ボーイ!」


 父さんの声だ。俺はとうとう小人から目を離し、下を見てしまった。井戸の中には誰もいなかった。

 しまったと思い再び小人の方へ視線を戻すと、井戸の外から俺を覗き込む醜い顔があった。小人は分厚い唇を動かした。


「よお、ダニー・ボーイ。もうちょっとだったのになぁ」


 その声は父さんの声そのものだった。しかし、音は小人の口から発せられるのではなく、井戸の下の方から聞こえてきた。訳が分からず、俺はもう一度井戸の下の方を見たが、やはり誰もいない。


「どういうことだ……?」


 小人は心底おかしそうにケタケタと笑った。小人の笑い声は小人の口からも、井戸からも響いてくる。そこに父さんの声が重なり、ウィルやハリーの声も加わり、やがて知りもしない大勢の死人の声がひとつに混じり合い、笑いの渦が井戸に反響して俺の耳を震わせた。井戸全体が死人たちの集合体の口であるかのようだった。


「驚いたかい? この井戸ぜんたいがおいらのからだってわけさ。ここいらの死人のモノマネなら、お手の物だぜ」


 笑い泣きの小人が汚い手で涙をぬぐう。俺は両の眉がくっつきそうなほど顔をしかめて小人を睨みつけた。


「初めから騙すつもりだったんだな。トムに会わせようってのは、茶番だったのか」

「人間と一緒にするな。おいらは、嘘はつかないさ。あんたが会いたいって言ったのは、あの小僧だけだったろう? ちゃんと案内してやっただろうに」


 小人は笑いを引っ込めて不愉快そうに鼻を鳴らす。すると井戸の底から気味の悪い風音が聞こえてきた。青白い手が次から次へと伸びてきて、俺の足を掴んでくる。引きずり下ろされそうになり、俺は井戸の縁に引っ掛けていた手に力を込めた。井戸の内壁で踏ん張りながら、片足で迫ってくる手を蹴散らそうとしたが、無数の手が折り重なるように俺の足へと伸びてくる。その手はコールタールのようにべとついていた。


「おい! 卑怯だぞ」


 俺は悲鳴をあげた。小人は井戸の縁にあぐらをかいて、俺を見下ろしていた。笑みはすっかり消え、冷酷で、獰猛で、蔑むような目線だった。小人は舌舐めずりして言い捨てた。


「あばよ」


 井戸の底から伸びてくる手の一本一本に大した力はなかったが、それらが何十と重なると、あっという間に重みが増した。長い冥土の道のりを這い進んできた腕も脚も、とうに限界を超えている。重たく粘るコールタールの海に沈んでいく下半身を支えきれず、俺はとうとう井戸の縁から手を滑らせてしまった。勝ち誇ったようにケタケタと笑う小人の顔が一瞬目に入ったが、その高笑いは耳に入らなかった。水の中を沈んでいくように、俺はゆっくりと井戸の奥へ引きずりこまれていった。

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