後編ー2
俺は翌朝、いつもの井戸にパンのかけらを持っていった。まだ夜明け前の暗いうちだからか、井戸の周りには誰もいなかった。ちょうどいい。
空の釣瓶にパンのかけらを入れたまま、するすると井戸の中に下ろしていく。着水してから、俺は釣瓶に水が入らないようにしてしばらく待った。たっぷり時間をおいて、半信半疑で釣瓶を上げてみると、パンはなくなっていた。
まさかという思いと、水の中に落ちただけだろうという思いが交互に頭に浮かんでは消えていく。俺はいつも通りに水を汲んで水瓶を満たし、家へ戻った。食事の支度も、弟子たちの支度も、みんな整っていた。朝食を終えて家を出る前、ジャックがこっそりと訊ねてきた。
「井戸の小人さんに会えた?」
「いや、会えなかったよ」
俺が首を振るとジャックはつまらなそうにかみさんのもとへと戻っていった。かみさんと一緒に、工場製の衣服に刺繍を施す内職をしているのだった。簡単なステッチなら、ジャックは女の子のように器用にこなしてみせる。
「いってらっしゃい」
かみさんが微笑む。俺も弟子たちも片手を挙げて応えた。
「いってきます」
半信半疑のまま、俺は朝の貢ぎ物を続けた。じゃがいものかけら、ミルク、鍋の底に残ったスープ、林檎の芯……苦しい生活の中から「ちょっとしたプレゼント」を用意するのは難儀だった。でも、釣瓶に入れたそれらの品物が井戸の中に消えていくのは不思議で、わくわくした。俺の中に残っていた少年の心が刺激されているかのようだった。
あの老人は百日間プレゼントを続けろと言ったが、俺はいちいち日数を数えていなかった。昼間の仕事の忙しさに目を回していて、それどころじゃなかった。仕事のきつさは相変わらずだったが、有難いことに仕事が増え、家族と弟子たちに食事をとらせてやることができていた。
真冬となった。雪が降り、道は凍る。井戸水は凍ることはないが、夜明け前の刻限、井戸までの道のりが寒い。俺はもう、井戸端で顔を洗うなんて真似はしなかったが、すっかり日課となった「貢ぎ物」は続けていた。
その日も俺は「貢ぎ物」と水瓶を手に井戸へ向かった。今日のプレゼントは、混ぜ物だらけのバターのかけらだった。しんと冷え切った空気が胸に痛い。ゴホンと咳をしたとき、井戸の隅を何か黒い影が過ぎった気がして、俺は眠い目をこすった。
「よう」
まばたきして目を凝らすと、井戸の縁に小人が腰かけていた。
小人は醜かった。垢まみれの黒い服を着て、井戸の内側に向けて足を揺らし、ぎょろ目で俺を見てにやにや笑っている。頭頂は禿げあがり、耳の横あたりに縮れた焦げ茶の毛が、煙突ブラシのように広がっていた。腹はでっぷりと太っている。座っているのでよく分からないが、背丈は一フィートかもう少しというくらいだろうか。
「あんただろ? ちんけな食いもんばっかり寄越してたのは」
「お前が井戸の小人か?」
俺たちは互いに顔を見合わせた。どちらからともなく頷き合うと、声をあげて笑い合った。さっきの俺の問いかけは実に馬鹿げている。目の前にいるのは、まさに小人そのものだ。田舎の森ならいざ知らず、時代の最先端をひた走るこの大都市で小人にお目にかかれるとは! わけが分からず、俺は笑うしかなかった。
小人は井戸から猫のような俊敏さで降りると、俺の手の中のバターを奪い取り、驚く間もなくぺろりと平らげた。噛んですらいないようだった。
「あんたのお陰でほら、こんなに太っちまったぜ。できればベーコンとか、ビスケットとかが食べたかったけど、まあいい。こんな真似をするからには、おいらに何かやってほしいことがあるんだろ? え? そうだろ?」
俺は腹を据えて頷いてみせた。
「ああ。会いたい子どもがいる。もう十五年も前に死んだ子供だ。あんたは死者の世界の入り口の番人らしいな。頼む。会わせてくれないか」
「お安い御用だ。ただし、忠告がある。よく聞け」
小人はニタリと笑った。隙間だらけの黒い歯が見えた。
「死者の世界の道は複雑で、おまけに髪の毛みたいに細い。案内してやるから、死者の世界を行くあいだ、あんたは何があってもおいらのことだけを見ていなくちゃならないよ。おいらから目を離したら、死人たちがたちまちお前を食っちまうだろうよ」
そして小人は腹を抱えてケケケと笑った。
「まあ、もしもそういうことになったら、おいらもご相伴に預かるぜ。もう何年も人間を食ってないから、楽しみだ!」
道化のような小人の態度に、俺は驚き呆れて両手を挙げた。
「お前は死神なのか?」
「死神なんかじゃないし、もっと言えば、番人でもないさ。おいらはただ、この世とあの世のあいだを行ったり来たりしているだけ。でも、覚えておいて欲しいのは、いつでもあんたの命を頂くことができるってことだ。それくらいの力はあるんだぜ。どうだ? 怖いか?」
小人の挑発に乗りかけた俺は、ぐっとこらえて小人の言葉を吟味してから訊ねてみた。
「目当ての子どもに会っても、お前から目を離しちゃいけないのか?」
「いいや。感動の対面ってやつを堪能できるようにしてやるさ。一分間だけね」
そんな僅かな時間のために、俺は怪しい小人の口車に乗るのか。腕を組んで考えたが、答えはとうに決まっていた。でなければ「貢ぎ物」なんてはじめからやっていない。
「わかった。案内してくれ」
「そらきた。ついてこい」
小人は目と口の端を釣り上げて笑うと、飛び跳ねた魚が水面に落ちるように、しゅるりと井戸の中に滑り込んだ。俺は慌てて井戸に取りすがり、中を覗きこんだ。小人は体重を感じさせない動きで、狭い井戸の内壁をするすると降りていく。
躊躇っている暇はなかった。
俺は水瓶を置くとぼろ靴を脱ぎ捨てて裸足になり、井戸の中に潜り込んだ。ちょうど煙突の中をよじ登るのと逆の動きで、腕と足を突っ張って、滑らないように慎重に井戸の中を降りていった。股のあいだから下を覗くと、ほんの少し先を小人が軽快に降りていく。小人の手足には吸盤でもついているかのようだった。俺は小人から目を離さないよう、禿げあがった彼の頭を凝視していた。
不思議なことに、水のにおいが充満しているのに、どこまで降りていっても着水しなかった。暗いと感じていたのははじめだけで、下に降りれば降りるほど、まわりがぼうっと明るくなっていく。井戸の内壁の石が乳白色を帯びて透けるような輝きを放つ。青いような、緑色のような。分厚い硝子の色でもあり、銅像をびっしりと覆う緑青の色でもあった。
やがて壁は磨かれたようになり、小人と俺の姿を鈍くぼんやりと反映した。滑らかな凹凸を描く壁面に、無数の人影が映る。影は俺たちの動きに合わせて蠢いていたが、やがて勝手に動き出すようになってきた。影は笑いさざめき合っているが、その言葉の意味までは聞き取れない。俺は下を行く小人だけを見て、井戸を深く深く潜っていった。
不意に、壁面から何かが伸びてきて、俺の左手を掴んだ。人の手のようだったが、俺はそちらを見もせずに、必死に振り払った。手は井戸の内壁と同じく冷たかったが、ぐにゃりと柔らかかった。硬かったはずの石壁は、徐々に弾力を帯び、ぶよぶよと柔らかくなってきた。生臭く、ほのかに甘ったるいにおいが漂う。さざめきはうるさいほどになり、時おり甲高い叫び声が聞こえる。壁はもうガラスの色ではなくなっていて、どす黒く腐ったピンク色だった。
もう、上も下も分からなかった。
俺は必死で小人の後を追った。降りているのか、昇っているのか分からない。生温かく狭い肉の道を、何やら形の分からない塊をかき分けて、とにかく進んで行った。
垂直だと思っていた道はいつしか傾斜し、地面に足が着いた。狭い壁の中で俺は体勢を変え、脈動する肉の道に飲み込まれそうになりながら、赤子のように這った。小人は軽やかなスキップで前を行く。
どれだけ進んだか。小人が立ち止まり、初めて俺の方を振り返った。
「ごらん。あんたの会いたい子どもってのは、こいつだろ?」
言うが早いか、小人は目の前の肉の壁に両腕を突き刺し、無理矢理に割いて、顎をしゃくって見せた。俺は恐る恐る小人から目を離し、小人のこじ開けた穴を覗き込む。
肉の割れ目の中に、小さなトムの顔が埋もれていた。
トムは目を閉じていて、眠っているかのようだった。生前はいつ見ても煤だらけの真っ黒な顔だったから、その白い顔がトムのものなのかどうか、よく見なければ分からなかった。頬は痩せていたが、肌はつやつやして、幼い子どもらしく柔らかそうだった。
「トム!」
ぼくは、あの日、トムを煙道から引きずり出したときと同じように叫び、そっとトムの頬を両手で包んだ。花が開くようにゆっくりとトムの目が開く。息を飲んで見つめるぼくを、トムはとろんとした目で見た。
「……まだ眠いんだ。もうすこし寝かせてよ、ダニエル」
「ごめん、ごめんよ、トム」
ぼくはいつしか、あの頃のぼくになっていた。少年の声で、ぼくはトムにあやまる。
「なんのこと?」
トムは重そうなまぶたをしばたたかせてたずねる。ぼくの口から堰を切ったように言葉があふれ出した。
「助けられなかった。あれは、ぼくのせいだった。ずっと後悔してたんだ……本当にごめん」
トムはふしぎそうな顔でぼくを見ていた。まばたきの回数がどんどん増えていった。
「ダニエルも、いっしょに眠ろうよ。ここはあったかくて、たのしい夢がいくらでも見られるよ……おなかもいっぱいなんだよ……」
トムはもう目を開けていられないようだった。ぼくはトムの頬をぺちぺちとたたいた。
「寝ちゃだめだ、トム! 起きてよ!」
「時間だぜ」
小人が俺の肩を掴んだ。肉の壁の穴は瞬時に塞がり、トムの顔は肉の中に沈んでいった。弾かれたように振り返ると、小人はにやにやと笑っていた。
「満足か? ガキが幸せそうでよかったな? え?」
俺はやるせなさに震えた。俺は、元通り大人の俺に戻っていた。顎を撫でると、当たり前のように髭に触れる。そしてそのことを、汚らしいと感じた。俺は、トムをこんな肉の海に沈めておいて、いまだに生き長らえている。しかし、トムを連れて帰れないということは、小人に言われなくても分かった。連れ帰る気も起きなかった。小人の言うとおり、確かにトムは穏やかで幸せそうだった。その眠りを、俺の感情の整理をつけるためだけに妨げてはならないのだろう。
俺が黙っているのを見て、小人は心底おかしそうに笑った。
「さあ、帰るぜ。おいらは優しいからもう一度忠告してやるよ。いいか、おいらから目を離したら、二度と日の目は拝めないぜ」