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後編ー1

 井戸水を汲み上げ、釣瓶つるべから直接水をすくいとり、顔を洗う。少しばかり冷たすぎるが、髭のあいだに水が染みこんでいくのが気持ちいい。

 ぶるぶると顔を振って水を払ったところで、俺は布巾を家に忘れてきたことに気が付いた。日ごとに秋の深まる時分、濡れた顔のまま夜明け前の横丁を歩くとなると、さすがに気が滅入る。しくじったと思いながら水瓶に水を移していると、小さな足音が聞こえてきた。


「パパ! これ、忘れたでしょ」


 ジャックが頬を赤く染めて走ってきた。紅葉の手には麻の布巾。


「おっ。こりゃ、ありがたい!」

「ママが、パパに渡しておいでって」


 誇らしげに差し出された布巾で顔を拭いてから、ジャックの巻き毛の頭をくしゃくしゃと撫でまわした。ジャックは満面の笑みを浮かべてから、眠そうに目をこすった。


 ジャックはこの秋に六歳になる。素直で優しく物分かりの良い、自慢の息子だ。俺はジャックの頭に載せていた手を、痩せた頬へとやった。そのつるつるとした触り心地を楽しんでいると、不意に、幼くして死んでいったトムの面影が重なって見えた。俺の心はカーテンを閉じたように陰った。トムが死んだのは、ちょうどジャックと同じ五歳のころだ。父親となった俺には、いとけないジャックを煙突の中へ送り込むなんて、逆立ちしたって考えられなかった。そして、父さんがぎりぎりまで俺に煙突掃除をさせなかった理由が分かる気がするのだった。


 ジャックは昼間、母親の手伝いをしながら家で過ごしている。今は、ジャックとかみさんを養い、数人の弟子を抱える身となっていた。暮らし向きはきついが、幾分ましになった。事故を繰り返すまいと地道で丁寧な仕事を続け、大人になるにつれて、失った客の信頼は自然と戻ってきた。馴染みの通りの客は大勢、もうずっとうちに仕事を任せてくれている。

 弟子の扱いにも心を砕いた。仕事を詰め込み過ぎないようにしたし、できる範囲でレバーやベーコンを食べさせた。加えて、毎日きれいに身体を拭くように叩き込んだ。水道を使う連中が増えて、井戸が使いやすくなったお陰だ。


 あれから十五年経って街は随分変わったが、煙突掃除の状況はあまり変わらなかった。今も五、六歳の子どもが煙突をよじ登っているし、親方たちは弟子たちを手荒く扱う。幼いころから煤を吸い過ぎる子どもたちは、肺を病んで死んでいく。運よく成人して親方になれば、また子どもたちをこき使う。そしてそう年をとらないうちに肺炎だの煤いぼだので死んでいく。


 この大都市は、労働者の生き血を吸い、煙として吐き出して、発展してきた。街の人口は今や四百万人を突破した。人口が膨れ上がれば、煙も増える。俺たち煙突掃除人は、街の階層のどん底でその後始末をつけている。お偉方は、子どもに非人道的な仕事をさせてはならないと声高に言うが、なら、増え過ぎた煙突の掃除を誰がするんだ? 狭い煙突に、大人は入れない。煤詰まりの火事からこの人口過密の街を守っているのは、真っ黒に汚れた子どもたちだ。


 ジャックと手を繋いだとき、俺は下腹にズキリとした痛みを感じた。確かめるまでもない。じゅくじゅくと皮膚が腫れて爛れているのだ。去年から始まった炎症は少しずつ広がってきているが、藪医者にかかったところでどうなるものでもないのは分かっていた。


 俺はジャックを連れて家に戻る。かみさんが黒パンを人数分に切り分けていた。薄っぺらだが、朝食にありつけるだけましだった。俺も弟子たちも、バターなしのパンをぺろりと平らげ、梯子とブラシ、そして道具一式の入った鞄を抱えて、明け方の街へと繰り出した。これから暖炉の活躍する季節が始まる。煙が抜けるようにと準備を始める家は多い。煙突掃除の書き入れ時だ。




 冬の足音が近づいてきたある日、足りなくなった昼のパンを買いに、ジャックを連れて街を歩いた。首元を吹き抜けていく風が冷たい。通りを行き交う人々はそろそろ外套を羽織りはじめていたが、道端には薄汚れたシャツ一枚で物乞いをする子どもたちが点々と、地べたに腰を下ろしていた。

 俺は真っ黒な仕事着のままだった。ジャックは上着なんか持っていない。汚れてしまうかとためらったが、俺は腰に下げていた雑巾を外して、ジャックの首に巻いてやった。ジャックは襟元が汚れるのも構わず、「あったかいや」と嬉しそうに飛び跳ねた。


 教会の前に差し掛かると、婚礼の最中だった。礼拝堂から新郎新婦とその家族、友人たちが次々と出てくる。式を終えて、街へ繰り出すところらしい。

 花嫁の純白のドレスを見ていると、昔、うちのかみさんが、白いウェディングドレスは女王陛下の婚礼衣装にならって一気に流行したのだと言っていたのを思い出した。かみさんには結婚のとき、白いドレスどころか、特別な服は何も着せてやれなかった。ドレスを着られるのは、中流以上の連中の特権だ。あの新郎新婦も参列者たちも上等な衣装を着ているから、中流のなかでも上層の部類だろう。


「きれいだね」


 ジャックは目を輝かせて花嫁を見ていた。俺も一緒になって見とれていたので、不意に彼女がこちらを見たとき、ばつの悪い思いをした。彼女はぱっと顔をほころばせると、腕を組んでいた新郎に向かって言った。


「見て、煙突掃除屋さんよ。なんて巡り合わせなんでしょう」


 そして新郎の腕を振りほどくと、ベールを風になびかせて俺の方に近付いてきた。


「幸運を運ぶ煙突掃除屋さん、わたくしと握手してくださいな」


 彼女はほっそりとした手を差し出してきた。白くふっくらとなめらかで、ひとつも肉刺まめが無い手だ。仕事をしたことがないのだろう。邪気のない笑顔が照り輝くようだった。

 俺は作り笑いを浮かべて握手した。柔らかな指の感触は、うちのかみさんとは随分と違った。


 遠くで新郎が俺たちを眺めている。俺が黒帽子を脱いで礼を取ると、彼もシルクハットを脱いで挨拶を寄越してきた。妻となったばかりの女性が、見ず知らずの男と手を握っているというのに、彼は笑っていた。俺が男であるなんて微塵も考えていないようだ――いや、人間であるとも見ていないのだろう。花嫁にしたって同じだ。夫の前で貧民の男に笑顔を振りまいているのだから。

 俺が型通りに「幸あれ」と言ってやると、花嫁は満足そうに新郎のもとへ戻っていった。通りを練り歩いていく婚礼の列を見送っていると、ジャックが不思議そうに訊ねてきた。


「パパ、どうしてあの人と握手したの?」

「パパたち煙突掃除人は、みんなに幸せを運んでいるんだ。結婚式で煙突掃除人に会ったり触ったりすると、幸せになれるって考えられているんだよ」


 俺は、ジャックにも分かりやすいように噛み砕いて説明した。ジャックは目も口もこぼれ落ちそうなくらい大きく開いた。


「パパって、すごいんだね! ぼくも煙突掃除屋さんになりたい!」


 下腹がじくじくと痛んだ。

 反射的に顔をしかめそうになるのを、俺は精いっぱい押しとどめた。こわばった、妙な表情になっただろう。どうやって説明したら、ジャックに分かってもらえるだろうか。汚い煙突をよじのぼる過酷さを。最底辺の生活から抜け出せない絶望を。同い年の子どもが煙突の中で死んでいったことを。


「……大人になったとき、もしもまだ煙突掃除がしたかったらな」


 俺はようやくそれだけを言った。ジャックの興味はもうほかに移ったようで、教会の礎石と舗装路の間から生えているチガヤを取りに走っていってしまった。取り残された俺は、ジャックを追う気力を失っていた。


 冷たい秋風が、街の煙を集めて吹き渡る。俺はぶるりと体を震わせた。冬が近づくにつれて、だんだんと仕事が増えてきた。そろそろパンを買って戻らなければ、午後の仕事に障るだろう。重い足をジャックの方へ向けて一歩踏み出そうとしたとき、すぐそこにシルクハットの老人が立っていることに気が付いた。俺をじっと見ている。

 老いてはいるが背筋はしゃんとしていて、仕立ての良さそうな正装を着こなしている。さっきの婚礼の参列者だろうか。ふんわりとした白髪が顔の周りを煙のように縁取っている。

 俺の方も老人をしげしげと眺めているが、向こうは目をそらさない。鼻眼鏡の奥の灰色の瞳がもの言いたげにこちらを見ている。俺は観念して老人に歩み寄り、話しかけた。


「俺の顔に何かついてますか?」


 老人は俺から目をそらさずに、大真面目に答えた。


「煤がついておりますな、お若いの」

「そりゃどうも。いつものことです」


 俺が肩をすくめると、老人の目つきがふっと和らいだ。


「いや、失敬。あなたがあまりに悲しそうな顔をしているので、気になりまして」

「悲しい? 俺が?」


 面食らった俺を老人はさらに覗き込むように見つめて言葉を続けた。


「その黒服に染みついた煤とコールタールのように、あなたの心には悲しみがこびりついているようです。さぞご苦労をされたのでしょう」


 弱った俺は頬を掻いた。そんなにひどい顔をしていただろうか。だが、老人の目には相手の心の中を暴くような、不思議な強さがあった。俺は髭だらけの頬から力なく手を落とすと、チガヤを摘んで遊んでいるジャックの方を見ながらぽろっとこぼした。


「昔、仕事の最中に子どもを死なせちまってね。うちの子どもがちょうど同い年になったものだから、最近思い出すことが多くて……かわいそうだったよ」


 言ってしまってから、何を口走っているんだと後悔した。俺には、トムのことをかわいそうだと言う資格がない。トムを死なせたのはほかでもない俺自身で、俺がトムを殺したようなものだ。いくら悔いても、足りることがない。もともと教会なんか行かないが、懺悔しても許されるものではないだろう。そもそも俺自身が許してもらおうだなどと思ってはいない。思ってはいけない。

 老人は少しも動かなかった。まるで俺の気持ちが落ち着くまで待ってくれているかのようだった。老人の灰色の目には、霞のように穏やかな光が宿っていた。

 たっぷり待ってから、老人は言った。


「あなたは、その気の毒な子どもにもう一度会いたいと思って悲しんでいるのかな」


 俺は思わず皮肉の笑いを吐き出してしまった。


「もう一度会いたいだって? そうだな、会えるもんなら会いたいぜ。俺は死んでもそいつと同じところに行けねえだろうがな」

「わざわざ死なんでも、会いにゆけるかもしれません。あなたが望むのなら」


 いつの間にか、チガヤを摘んだジャックが近くに来ていた。緊張しているのか、ジャックは俺の隣で身を硬くして老人を見上げている。老人はジャックを見て目を細めた。俺はジャックの頭に手をやり、「あいさつしてごらん」と言ったが、ジャックは石になったみたいに動かなかった。


「すみません」

「構わん、構わん。利口そうな良い子ですな」


 老人はしわくちゃの顔をさらにくしゃくしゃにして笑ってから、言葉を続けた。


「井戸はあの世への入り口と言われております。昔からどこの井戸にも一人は小人が住んでいて、番をしているそうでしてな。この小人にお願いすれば、死者に会わせてくれるかもしれないと、私のおばあさんから聞いたことがあります。まあ、この辺りの井戸はすっかりポンプ井戸になってしまって、小人が住めなくなってしまったでしょうが」


 俺の頭に、毎朝使っている貧民街の井戸が浮かんだ。街の井戸がポンプに変わっていく中、あの井戸は昔ながらの釣瓶つるべ式だ。


「……小人に会うには、どうしたらいいんだ?」


 俺は半信半疑で老人に訊ねた。老人は目を細めた。


「簡単なことです。毎日、小人にプレゼントを贈るのです。ビスケット、ミルク、パンのかけら……ほんのちょっとしたものでいい。百日も続けたら、小人の方から会いに来てくれるでしょう」


 そう言ってから老人は、腰をかがめてジャックに目線を合わせ、ポケットから取り出した飴菓子を差し出した。ジャックはおずおずとそれを受け取り、蚊の鳴くような声で「ありがとう」と言った。老人は背筋を伸ばし、今度は俺に手を差し出した。


「幸運を運ぶ煙突掃除の旦那。あなたに幸あらんことを」


 老人の言葉を信じてよいものかどうか判断しかねたまま、俺は老人と握手を交わした。骨ばってかさついた、冷たい手だった。

 老人は帽子を少し脱いでまた戻すと、のろのろと婚礼の列の去ったほうへ歩いていった。老人が参列者なのかどうか、結局分からずじまいだった。

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