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前編ー3

 父さんの評判は地に落ちた。子どもに親方の仕事をさせた挙句、まだ五歳の弟子を死なせたのだ。あの家の主人はかんかんに怒って、二度と界隈に姿をあらわすなといって、死人が出たことを近所に言いふらした。うわさはあっという間に広がって、父さんはうしろ指をさされるようになった。父さんはますます仕事に出られなくなり、ぼくらはまた、食べるものに困るようになった。食事は日に一回、ゆでた芋をみんなで一個ずつ食べ、湯ばかりのスープをすすった。


 トムは親に売られた子だったから、父さんは親に知らせようとしたが、既に親の行方は分からなくなっていた。しばらくすると父さんは、小さなトムのからだをどこかへ持って行ってしまった。


 煙突掃除人仲間からもうとまれるようになった父さんは、家で寝ていることが多くなった。下腹が傷むらしい。煤いぼが広がっているようだが、父さんはぼくに傷口を見せようとしなかった。


 ぼくらは馴染みの街区に戻り、少ない仕事を丁寧にこなしたが、弟子のやつらのあいだにコールタールのようにべとべととまとわりつく黒い影は、なかなか消えなかった。特に、みじめに死んでいくトムの様子を間近で見ていたハリーは、こわがって煙突に入れなくなった。暖炉の排気口を見ると、がたがたふるえて泣き出してしまう。仕事のできないやつを抱えていることはできないが、ハリーは救貧院から来たから、帰る場所もない。父さんは仕方なく、ハリーを売ることにした。子どもに街頭掃除をさせているジゼン団体に、ハリーを押し付けたのだった。手に入ったのはわずかな金だった。もちろん、ほかの弟子のみんなにはないしょだ。ハリーだけが煙突掃除をやめたと知ったら、自分たちまでやめたいと言い出すに決まってる。でもぼくは、どっちも同じ地獄だと分かってた。煤まみれになるか、馬の糞まみれになるかの違いしかない。親方も弟子も同じ食事をしているうちよりも、もしかしたら街頭掃除のほうがつらいかもしれない。


 父さんがハリーの行くあての世話をしてやったのは、温情あるはからいだ。ほかの親方のところだったら、せっかく買い取った弟子が働かないなんて、めった打ちにして路上に放りだしているところだ。だから父さんもハリーを追い出したのだと、ほかの弟子には説明した。テディは「ひどい」と言って泣いていた。父さんは、自分は働かずに息子に仕事を押し付けて寝てばかりいると、弟子たちからもうとまれるようになった。


 夏がやってきて、スモッグだらけの大都会にも、日差しがふり注ぐようになった。いつもは煤けてきたならしい街も、光を受けて白っぽくかがやいて見える。ぼくは冷たい井戸水が恋しくなって、弟子たちにまかせていた水汲みを率先してやるようになった。まだ冷たい水で雑巾をしぼり、父さんに手渡す。すると父さんは寝床の中でもぞもぞと、雑巾を下腹に当てる。冷やすと気持ちいいらしい。でも、夏が終わるころには、冷たい雑巾なんかじゃ痛みがまぎれないくらい、父さんの容態は悪くなった。

 わずかな食べ物も食べられなくなった父さんは――ひょっとしたらいよいよ死を予感して、食料をぼくらにゆずってくれていたのかもしれないけど――、弟子たちを家の外に出して、ぼくだけを寝床に呼んだ。


「俺が死んだら、煙突掃除なんかやめて、工夫こうふになれ」

「死んだらなんて言わないで」


 弟子のみんながいないからか、涙が勝手にもり上がってきた。父さんは力なく腕を持ち上げて、ぼくの涙をぬぐった。仕事をしなくなった父さんの手は、もう黒くはなくて、骨ばってかさついていた。ぼくの涙が父さんの手をうるおして、また働き者の手にもどしてくれればいいのにと思った。

 父さんは、ダニー・ボーイとぼくを呼んだ。その呼び方をされたのは、ずいぶん久しぶりだった。


「いいか。俺がいっちまったあと、枕を切り開け。中に金が入っているから、そいつで支度をして、工場に行くんだ。工場へ行けば、仕事がたんまりある。おまえなら大丈夫、ここよりきつい仕事なんてないさ」

「ぼくに、工場の連中みたいになれって言うの」


 ぼくは鼻をすすりながら訊ねた。


「ああ。煙突掃除からは足を洗って、まっとうな人生を歩くんだ」




 それから間もなくして、父さんはほんとうに死んでしまった。ぼくは明け方に、弟子たちの中で一番大きいウィルと一緒に、冷たくなった父さんのからだを引きずるようにして、教会へと運んだ。

 この教会の墓は、大都市から毎日吐き出される死体を受け止めきれず、何年も前に埋葬の受付をやめている。どこの教会も似たようなものだ。街はずれに新しく大きな墓場が作られたが、遠すぎるし、そもそも埋葬料や列車代なんて払えるはずがない。棺桶を準備することもできず、ぼくとウィルは教会墓地のすみっこの地面にこっそりと父さんを埋めた。墓石も何の目印もないところだったけど、少し地面を掘ると、まだ肉がついたままの誰かの死体が見えた。みんな、考えることはおなじみたいだ。


 金がないから死んでいく。金がないから葬式も上げられず、墓場にごみのように捨てられていく。そうして墓にできる骨の山。ぼくらに安息日はなく、祈る神なんていなかった。


 家にもどったぼくは、夜、みんなが寝静まるのを待って、父さんの言いつけどおりに枕の縫い目をほどいてみた。藁の中の小袋から、コインがばらばらと出てきた。数えてみると、一か月分ほどの稼ぎだった。


 煤だらけの窓ガラスを透かした月明りが、父さんの蓄えを照らす。

 これは誰の金だろう。父さんの金が、今はぼくのものになったのか。だれが稼いだ金か。父さんか。でも、じっさいに煙突に入っていたのは、弟子たちだ。

 少し前のぼくなら、迷わず弟子たちを放り出して清潔な服を買い、父さんが言ったように工場に向かっていただろう。でも――


 見上げれば、窓の煤に月明りがまるい輪を作っていた。その輪っかに幼いトムの顔が浮かび、ぼくの胸は煤で息ができなくなったときのように苦しく痛んだ。


 翌朝、ぼくはみんなを集めて、父さんの残した金を山分けした。年長のウィルは、工場で住み込みの仕事を探すと言って、わずかな金を持って出て行った。去り際にウィルは言った。


「マスターには世話になったけど、もうここで奉公する義理もないよ」


 あとの小さな四人は、ここに残ると言った。その夜のスープには、薄いベーコンが浮かんだ。

 こうしてぼくは正真正銘、四人の弟子をかかえた親方煙突掃除人となった。

 十一歳のときのことだった。

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