前編ー2
そのすこし後から、父さんは休みがちになった。仕事をしなければ、金はなくなっていく。ひとりの親方に弟子は六人までとジョウレイで決まってたけど、うちには七人も弟子がいるから、すぐに立ち行かなくなるのは目に見えていた。年長者のぼくが父さんの代わりに監督役として仕事に出るのは自然な流れだった。とうぜん、煙突の中に入ることもあった。
はじめて煙突の中に入るときは、屋根から飛び降りるのとおなじくらい思い切りが必要だった。暖炉が冷たくなっているのは分かっていても、そこに足を踏み入れるのは恐かったし、狭い排気口に頭を突っ込むのは最悪だった。煤が鼻に入ってくしゃみをすれば、その衝撃で上からどさっと煤のかたまりが落ちてくる。目に入ったときには痛くて痛くて、涙が止まらないけど、手も袖もすすだらけだから、拭うものがない。煙道に取っ手がついていれば上っていくのは簡単だったけど、そうじゃない場合の方が多かった。そういう時は、片手にブラシを持ち、もう片方の手と両膝で踏ん張って、歯を食いしばって煙突を上っていくしかなかった。煙道に飛び出したレンガに頭をぶつけることなんて、しょっちゅうだ。煙突の出口につくられた鳥の巣が、糞ごと落ちてくることも。
客たちはぼくを子どもと見ると、値切ったり、門前払いすることがあった。お得意先も、よそに頼むと言って断ることが少なくなかった。おなじみの通りでの仕事が減って、客引きに足を伸ばす時間が増えた。弟子たちの中で頼りになるやつらをいつもの通りに残し、ぼくと小さい弟子たちは煤で真っ黒なまま、大都会をさまよった。
レンガの家々にむかって、ぼくは声を張り上げた。
「チムチム、煤払い!」
すると、弟子たちも一斉に呼びかける。一番下の五歳のトムも「チムチム」と声をそろえる。運が良ければどこかの家の扉が開いて誰かが出てくるが、反応のないのが大方だった。煙突掃除のピークはとうに過ぎていた。ぼくはため息をついて屋根の連なりを眺めた。空と同じ青灰色の屋根はスレート葺きで、そこから伸びる煙突の数はかぞえきれない。掃除しなくちゃならない煙突はあんなにたくさんあるのに、ぼくらには声がかからない。ぼくが子どもだからか。みじめなことこの上なかった。
ある日、ぼくらが呼び声を上げながら街を歩いていると、ほかの煙突掃除人から声をかけられた。
「よう。ひと様の庭で、精が出るね」
ひげがもじゃもじゃとした、知らない親方だった。ぼくは身体を固くして、黒い帽子を取って挨拶を返した。その親方はちぢれたひげを伸ばしながら言った。
「あんたらのようなチビどもには、ここらの仕事は回ってこないよ。俺たちがダイヤみたいにぴかぴかに磨き上げてるからな」
しまった。ここはこの親方の縄張りらしい。「すいませんでした」と謝り、ぼくはうなだれて回れ右をした。
「おい、待て坊主。良いことを教えてやろう」
親方がぼくを引きとめた。振りかえったぼくに親方は言った。
「あっちの通りに行ってみろよ。景気のいい家が多いから、子どもをよろこんで使うと思うぜ」
ぼくらは顔を見合わせて目をしばたたかせた。慣れない街区を当てずっぽうに歩いていたが、こうして情報をもらえるのは助かる。ぼくらは礼を言って、教えられたほうへ行ってみた。
確かに建物の雰囲気も住人たちの身なりも、ほかとは少し違う。金持ちってわけではないけど、羽振りがいいかんじだ。下層中流階級のやつらの住むところらしい。ホワイトカラーってやつだ。
チムチムと声を上げると、さっそく一軒の家のドアが開いた。メイドが出てきて、ぼくらを手招く。
「冬が終わってから、手を入れられてなかったの。ひととおり、お願いね」
その家はほとんど全部の部屋に暖炉がついていて、大仕事になりそうだった。今夜は久しぶりにベーコンが食べられるかもしれない。ぼくは張り切って弟子たちを各部屋に割り振ってから、バルコニーにはしごをかけて屋根の上にあがった。煙突の出口にかぶせてある雪除けを外し、ブラシをつっこんで、一本いっぽんきれいにしていく。
スモッグを通してやわらかく降り注ぐ初夏の日差しを首筋に受けて、ぼくは汗を流して掃除を続けた。やがてあちこちの煙突からひょっこりと真っ黒な顔が飛び出した。ハリーに、テディ。ぼくは彼らの顔やからだの煤を払ってやった。そよ風に、煤が舞う。
だが、年下のトムだけが、いつまでたっても出てこなかった。小さいトムには、いちばん狭い煙道をあてがっていたのだが、数が多く複雑な煙道の中で迷ってしまっているのかもしれない。
「おおい、トム。早くあがってこいよ」
ぼくは煙突の中に向かって声をかけたが、返事はなかった。
ぼくらはトムの持ち場の部屋におりてみた。あまり使われていないらしく、トランクや保存食がばらばらと並ぶ、物置のような部屋だった。
「トム?」
やはり返事はない。小さな暖炉には煤が積もっていて、トムが掃除をしているのは確かなようだ。ぼくは暖炉の中に体を押し込み、背を屈めて狭い排気口に頭を突っ込んでみた。中は暗い。煙突の出口の雪除けを外したので、もう少し明るくてもよさそうなものだが、どうやら途中で煙道が折れ曲がっているらしい。膝を曲げていったん排気口から頭を出してから、両腕を上げて排気口に入ってみるが、肩がつかえて身動きがとれず、とてものぼっていけそうにない。ぼくはトムの次にからだの小さいテディを呼んで、煙道に入らせてみた。
トムにそうしてやったように、ぼくは膝を貸してテディを煙道に上がらせた。中には取っ手がないようだったが、テディは腕と膝を突っ張って、器用に煙道をのぼっていく。
「だいじょうぶ?」
「せまいけど、どうにか」
はらはらしながら声をかけたぼくに、テディは元気よく答える。その声を聞いてぼくはいくらか安心した。テディは小さいけれども、トムくらいの年からうちでずっと働いている。彼に任せれば安心だ。
でも、ほっとしたのもつかの間、排気口からテディの声が響いてきた。
「見つけたよ! トムってば、ななめの道でひっかかったまま寝ちゃってる」
いつまでも煙突掃除が終わらないことに気を揉んだのか、そのころにはこの家のメイドも部屋に来ていて、心配そうに暖炉を見守っていたが、テディの言葉にくすりと笑った。いかにも小さな子どもらしいと思ったのだろう。
ぼくはテディに訊ねた。
「起こせるか?」
テディは大声で何度もトムの名を呼んだ。
「だめだよ、呼んでもゆすっても、ちっとも起きやしない」
テディは音を上げた。ぼくはいやな予感がした。メイドといっしょになって笑っていたハリーも、様子がおかしいことに気が付いたようだった。
「テディ、足を引っ張れ。トムを引きずり出すんだ」
「そんなことしたら、ぼくまで落ちちゃうよ!」
「だいじょうぶ、受け止めてやるから」
ぼくは排気口の下で両腕を広げ、待ちかまえた。テディはしばらくしぶっていたが、やがて言うことを聞いて、トムの手助けを始めたようだった。
テディの動きに合わせて、煤がぱらぱらと落ちてきた。不安定な斜めの煙道で、テディは片腕一本でトムを引っ張っているにちがいない。まだ小さいテディの力では、大変な仕事だ。トムが目を覚まさなかったら、テディは二人分の体重を支えられないだろう。ぼくはいつテディが落ちてきてもいいように、腰をかがめていた。
テディはなかなか下りてこなかった。しびれを切らしたころ、テディだけがゆっくりと降りてきた。ひじもひざもすりむけて、煤の中に血がにじんでいた。
「だめだよ、ダニエル。とちゅうまで引っ張ってきたけど、もうむりだ」
テディはべそをかいていた。ぼくは「よくやった」とテディをねぎらい、ハリーにテディの傷口を拭くように言った。メイドがたらいを持ってきて、仕事道具のぼろ雑巾を濡らしてくれた。
ハリーが雑巾でテディの傷を拭いているあいだ、ぼくは排気口をのぞきこんだ。テディがトムのからだを引っ張ったおかげで、さっきよりは明るくなっていた。光のやってくる方向に何やら飛び出した影がある。ぼくは体勢を変えて、右手を突っ込んでみた。片腕だけならなんとか自由がきく。思い切り手を伸ばして触れてみると、生あたたかいトムの足だと分かった。
「でかした、テディ! 引っ張るぞ。ハリー、落ちてくるかもしれないから、受け止めてくれ」
テディとメイドが見守る中、ハリーがしゃがみこんで両腕を差し出し、ぼくは中腰で右手を伸ばし、トムの救出に乗り出した。ぼくは慎重に、少しずつトムの足を引っ張った。煙道がななめに曲がっているところで脚がつっかえそうになったが、右足、左足と交互にすこしずつ引きずり出して、なんとか両脚を下ろすことができた。レンガ造りの煙道を無理やり引きずり下ろしているのだから、すり傷だらけになっているはずなのに、トムはまだ目を覚まさない。
ハリーも腰を浮かせて、トムの足へと手を伸ばしていた。尻を引っ張り出したとたん、トムのからだはするりと抜けて、炉床へと落ちてきた。ハリーが自分のからだをクッションにしてトムを受け止めた。ハリー自身も痛かっただろうに、そんなことはまったく気にしない様子で、腕の中におさまったトムを呼んだ。
トムの顔にも髪にも、降り積もった煤がこびりついていて、どこが目なのか分からなかった。ぼくはトムの頬を叩いた。トムの顔や髪についた煤が舞う。テディに急いで父さんを呼ぶように言って、大声でトムの名前を呼び続けた。何の騒ぎかと、奥さんまでもがやって来た。
「大変! からだを温めるのよ」
奥さんとメイドがどこかからふかふかの布団を持ってきて、煤で汚れるのも構わずに、トムの小さなからだをくるんだ。ぼくは、さっきハリーがテディの傷を拭いていた濡れ雑巾でトムの顔をぬぐった。煤の下のトムの肌はレンガにこすれて傷だらけで、驚くほど白かった。そして、顔に触れたぼくは、トムが息をしていないことに気付いてしまった。だけど、まわりのみんなにその発見を伝えることができなかった。ハリーは、ぼくのうしろでがたがたふるえて泣いていた。涙が顔じゅうの煤を洗い流していた。
父さんが到着するまでの数十分は、永遠のようだった。テディは迷わずに走ってここまで父さんを案内してくれただろうけど、それにしてもうちから離れすぎていた。父さんがこの家のノッカーを鳴らす音を聞いて、正直なところ、ぼくはほっとするよりも、死神の鎌が降りおろされたような心地になった。トムの状態は絶望的だと、子どものぼくにも分かった。トムは煙道の曲がったところに引っ掛かって身動きがとれなくなったうえ、落ちてきた煤に埋もれて息ができなくなったのだ。
メイドが玄関まで走り、父さんを連れてまた走って戻ってきた。
「ダニエル! トムはどうした」
父さんの、今まで聞いたこともないほど鋭い声にびくっと震え上がったぼくは、恐る恐る汚れた布団を広げて、トムの姿を父さんに見せた。トムに飛びついた父さんは、まずトムの額に触れ、胸に手をやり、そしてその手を口元に持っていった。
「こりゃ、まずい。息も心臓も止まってる」
額に手をあててふらりとよろめく奥さんを、メイドがあわてて支える。ぼくは何も言えずに、父さんのうしろに突っ立っていた。
父さんはこの物置部屋のすみにあった空の酒樽を横に倒して、その上にトムを寝かせた。そして樽を左右に転がしてトムに刺激を与え続けた。その姿を見て、父さんがずっと前に伝統的な蘇生術だといって、酒樽の上に寝かせる方法を教えてくれたのを思い出した。もっと早くに思い出していたら、トムは目を覚ましていただろうか。いや、もしかしたら。ぼくが屋根の上から煤をかき落としたから、タイミングわるくトムが埋もれてしまったのかもしれない。
ぼくはぼうっとして、父さんの蘇生術を見ていた。
父さんは懸命にトムの手当てを続けたけど、トムが息を吹き返すことはなかった。




