前編ー1
「煤いぼだね」
その言葉を聞いた父さんは青くなった。実際には、顔じゅう煤で真っ黒だったけど。医者は容赦なく言葉を続けた。
「切っちまうかい?」
ズボンを直した父さんは震えあがって、工夫の子どもたちの持っているブリキ人形みたいに首をぶんぶん振り回した。
「まさか!」
「治療しないなら、帰ってくれ。診察室がくさくなっちまう」
医者は顔をしかめてガラス窓を開けた。涼しい風に追い出されるようにして、ぼくらは医院を出た。初夏のさわやかな陽気だったけど、空は煙におおわれて白かった。この大都会の上にも、昔は青空があったもんだと、父さんは言う。ぼくは青空なんてほとんど見たことがなかった。
「ヤブが。くそったれ」
父さんはぶつぶつと文句をたれていた。ぼくはだまって父さんの後をついていく。煤まみれの父さんの後ろから走ってきた子どもたちが、「きったねぇの!」とはやし立てながら追い抜いていく。父さんは黙っていた。どぶ川では裸の子どもたちがゴミをさらっている。何か目ぼしいがらくたを見つけるたびに大声でさけんでいた。売れそうなものならめっけものだ。
くねくね曲がる横丁を通り、貧民街の我が家に戻ってくると、住み込みの弟子のやつらはどこかへ出かけてしまっていた。めったにない休みなんだから、当然といえば当然だ。誰もいない部屋に入って父さんは丸椅子にどっかり座ると、乱暴に帽子を脱ぎ捨てて頭をかかえた。
ぼくは水瓶をのぞきこんだ。父さんは弟子のやつらに水汲みをするよう言いつけていたけど、すっからかんだ。さぼりだなんて、ほかの親方のところだったらめちゃくちゃに殴られるところだ。でも、今はぶつくさと機嫌がわるいけど、うちの父さんはそんなことはしない。
父さんは煙突掃除の親方だ。みなしごを拾っては、住み込みの弟子にして、煙突掃除をさせている。弟子たちは、ぼくよりもすこしだけ小さいくらいの年ごろだ。父さん自身も、四つのころから煙突掃除を続けている。
この大都会には数えきれないほどの家があり、その一軒いっけんの屋根が何本もの煙突をにょきにょきと伸ばしている。煙突にたまる煤をかき落としているのは、からだの小さな子どもたちだ。彼らは暖炉の口からせまい煙突にもぐりこみ、煤だらけ、傷だらけになって煙突を上へ上へとのぼっていく。
煙突の中は暗いし、複雑に曲がりくねっていているから、迷うこともある。からだがつっかえたり、煤にうもれたり、くすぶった熱でやけどして、そのまま死んでしまう子もいる。そうでなくても、たいていの親方掃除人は弟子たちを大事にしなかった。だって、彼らはみなしごだから。親に死なれたり、売られたりした子たちだから。救貧院から追い出されたような子も多い。救貧院の子たちは重宝された。やせっぽちで、からだが小さいもの。父さんも、どこかからそういう子を連れてきて、住み込みの弟子にしていた。父さんはジゼンジギョウだと言っていた。恵まれない子どもたちに衣食住と仕事を与えているのだと。うちでは死人を出したことがないのも、父さんの誇りらしかった。
ぼく? ぼくはちがう。父さんはぼくに煙突掃除なんかさせたりはしない。
うちには母さんがいなかったから、ぼくが家のことをぜんぶやった。ときどきは父さんたちの仕事の手伝いをすることもあったけど、あくまでも父さんの代理人として、弟子たちの面倒をみるだけだった。あとは道具を運んだり、弟子のやつらがかき出した煤を集めたり、そういうこまごまとしたことくらいで、煙突のなかには入ったことがない。だから、うちの中ではぼくがいちばん小ぎれいだ。
ぼくは水瓶を抱えて家を出た。貧民街の奥の奥に小さな井戸がある。ちょっと遠いから、いつもは弟子のやつらが交替で水を汲んでいるのだけど、今日は特別にぼくがやってあげた。つるべを落とすと、ぴしゃりという水の音、そして縄をつたってくる手ごたえ。ぼくは体重をかけて滑車のひもを引っ張り上げ、つるべの水を水瓶にそそぐ。
水は貴重だ。貧民街にはこのちっぽけなつるべ井戸ひとつしかないし、ほかの街区のポンプ井戸を使おうものなら、そこの連中に殴り殺されるだろう。だからぼくらはめったに体を洗わない。それに、せっけんを買うくらいなら、おなかがふくれるものが欲しい。父さんや弟子の子たちは真っ黒なままひと月くらいは平気で暮らす。ぼくも――やっぱり少しは煤がつくし、それに、くさい。
「どけよ、黒ネズミ」
不意に横から突き飛ばされて、ぼくはひっくり返った。せっかく汲んだ水がこぼれてしまった。ぼくはあわてて倒れた水瓶を起こしたが、腹のあたりから服がびしょぬれになった。
「洗濯ができてちょうどよかったじゃねえか」
どっと笑い声があがる。皮肉の飛んできたほうに顔を向ければ、工夫の子どもたちが数人連れだっていた。なにも言い返せなかった。ぼくは水が半分以下になった水瓶を抱えて、彼らに背を向けてそそくさと逃げた。もう一度、笑い声がわいた。ぼくは後ろを振り返らずに、路地を曲がるまで走った。走っているうちに、くやしくて泣けてきたけど、がまんした。水瓶は軽くて、それがまたくやしかった。
家にもどると、昼時だからか、腹をすかせた弟子たちが帰ってきていた。彼らは口々に言った。
「おかえり、ダニエル!」
「待ってたよ」
「今日のお昼はなに?」
みんな、真っ黒な顔の中で、白い目と白い歯が輝いていた。ぼくは、「ああ、そうか」とひとり合点した。
こいつらも、水汲みのときにいつも工夫の子たちから嫌がらせをされているんだ。
この大都会の中、いや、狭い貧民街の中でさえ、煙突掃除人の立ち位置は最低だった。みんなに見下される煙突掃除人は、さらにその下の弟子につらく当たった。弟子の子どもたちは、下の下だ。そして、煙突に入らないぼくだけれども、はたから見れば、そいつらと同じなんだ。
ぼくの中の、ぴんと張りつめていた部分がゆるゆるとほどけていく感じがした。かわいそうだと思っていた相手と自分がおんなじだということに気付いて、くやしいのか、悲しいのか、分からなかった。ただ、どこかホッとしているのははっきりしていた。多分それは、馬鹿にされたのがぼくだけではないという安心感と、これ以上落ちることのないどん底まで来たのだという達成感だったんじゃないだろうか。