8 ショウガ蜜
あらためて、わたしはノルドウッドが借りてきた大きな鍋に柑橘以外の材料を全て移し、かまどの上に慎重にのせて、浸る程度の水を加えた。
今日は多少時間に余裕があるのか、それともトラブルの一報に慌てて午後の予定をキャンセルしてきてしまったのか、ノルドウッドもとどまって、薪を運んだり水瓶の水を足したりと、力仕事を引き受けてくれていた。
次第に、鍋の中が沸き立ってくる。火の番をハナに頼んで、焦がさないように火力を調節してもらいつつ、わたしは木杓子で鍋の中をかき混ぜた。辺りに香草とショウガ、蜜の香りが漂い始めたところで、火の勢いをごく弱く落とし、鍋に蓋をする。
「これは、何を作っていらっしゃるんですか」
不思議そうにノルドウッドは尋ねた。
「後宮の神殿で冬によく作っていた、ショウガの蜜です」
「薬湯ですか?」
わたしは少し残念に思いながら、首を横に振った。
「きちんとした薬種を使えばそうなるんですが、ハナの実家から分けてもらった香草で代用しているので、効果のほどはわかりません。ですが、味は悪くないと思います」
「思います、というのは」
「この香草を扱うのはわたしも初めてなので。それに、都ではここほど気軽に柑橘が手に入らなかったので、これはわたしなりに試してみたかった一手間なんです」
わたしは、鍋に入れずに取っておいた柑橘を掲げてみせた。全く甘みがなくて、強い酸味と芳香、わずかなほろ苦さが特徴の、この地域独特の柑橘だ。もっぱら、肉や魚に風味をつけるために使われている。
半分に切って、器に果汁を絞ろうとしていると、ノルドウッドがさっと手を洗ってわたしの隣に来た。
「そういう力仕事は、ちゃんと任せてください」
彼の大きな手に掛かると、すこし固い果実もあっという間に果汁と搾りかすに分けられてしまう。
「確かに、適材適所ですわ」
わたしは笑って礼を言うと、搾りかすになった柑橘の皮の、表面の黄色っぽい部分をナイフで薄く削り落とした。
「東洋に留学された神官様が、この部分を乾燥させてお茶にすると、喉の痛みや咳にきくし、胃腸の調子もよくなる、と教えてくださったことがあるんです。ただ、欲張って下の白っぽいワタまで一緒に削ってしまうと苦くなる、とも」
「へえ、初めて知りました。この辺では捨ててしまっていましたが、再考の余地がありますね」
「細かく削って、焼き菓子やブドウ酒に入れて香りづけする地域もあるらしいですよ。神官様方は、神様にお仕えする身分ですから、神様が喜ばれそうなおいしい食べ物についてはとてもお詳しいんです」
真面目くさってわたしが言うと、ノルドウッドも笑った。
「他の楽しみからは身を遠ざけておいでですからね。今日のこれはどうするんです?」
「先ほどの蜜に香りをつけようと思います」
鍋に蓋をして火を弱めてから、十分程度が経つ。わたしは鍋のふたを開け、香草とショウガから十分香りが立ったことを確認してかまどから降ろした。木杓子で軽く混ぜ、少し温度が下がったところで果汁と刻んだ皮の黄色い部分を加える。
「柑橘の果汁は煮立てないほうが風味がいいのでこうするんですが、日持ちが悪くなるのが難点ですね。柑橘を入れなければ、涼しいところで保管して、ひと月近くもつはずです」
ざるを先ほどの小ぶりな鍋の上に置いた。大鍋の中身をそこに空けて、煮汁だけを漉しとろうと思ったのだ。だが、鍋を持ち上げようとした瞬間に、ノルドウッドに止められた。
「だから、力仕事はちゃんと任せてくださいって言ったじゃないですか。これは、煮汁のほうが重要なんですね?」
「ええ。でも、香草の香りと黒蜜の甘味がついたショウガも、料理やお菓子に使えるはずです。厨房で引き取ってくださるといいのだけど」
「もちろん、喜んで引き受けると思いますよ」
わたしでは持ち上げるのも一苦労だった鍋を、ノルドウッドは軽々と傾けて、丁寧にざるのなかに空けていった。たまった濃い琥珀色の蜜は、ブドウ酒の中ビンに二つ分。
大きな鍋の底に貼りついてた一片のショウガを、ノルドウッドはひょいとつまんで口に放り込んだ。好奇心からの行動のようだった。大げさに目を見張って、わたしを振り返る。
「これは、料理長からしつこくレシピを聞かれるはずですから覚悟してくださいね。匂いだけでも、すごくおいしそうだと思っていましたが、それ以上です」
「まあ、ノルドウッド卿は甘いものがお好きなんですね」
「ばれましたか。香草とショウガの組み合わせに、蜜の香りがこんなに合うなんて思いませんでした。このショウガを刻み込んだケーキがあったら、いくらでも食べてしまうかもしれない」
「厨房でも、ショウガの焼き菓子は作っていましたものね」
ここに到着した日に、お茶請けとして用意してくれていたものだった。疲れた舌にぴりっとしたショウガの風味が心地よくて、思いがけず空腹だったことに気づかせてくれたお菓子だったので、よく覚えている。
「定番です。伯爵が気に入っているので」
「あら」
思わぬ情報に嬉しくなった。幸先がいいかもしれない。
「まずは味見ですね」
わたしは、コップを三つ用意した。
「ハナ、お願いしていた水は?」
心得顔に、彼女は瓶を抱えてきた。
「つい先ほど、汲んでまいりました」
わたしは蜜を少しずつコップに入れてから、ハナの持ってきた水をそっと注ぎ入れた。
しゅわしゅわと軽やかな音を立てて、水面がはじける。華やかな黄金色になって、美しかった。
「へえ」
コップを受け取ったノルドウッドは不思議そうにのぞき込んだ。
「この水、例の泡の立つ井戸ですね?」
「そうなんです。後宮の神殿で作っていたものは、お湯で割ったり、お茶に加えたりして飲んでいたんですが、この水で割って冷たくして飲むのも合うと思ったので、それならさらに柑橘を加えたらいいんじゃないかなと」
神殿の大人たちに囲まれて育ったわたしも、もれなく、口に入れるものへの情熱は受け継いでいるのだ。
緊張しつつ、わたしはコップの中身を口に含んだ。ぱちぱちと口の中で軽くはじける刺激、甘くコクのある蜜とさわやかな柑橘のまざった甘酸っぱい味の後から、刺すように追いかけてくるぴりっとしたショウガの辛み、鼻にふわりと抜ける香草の香り。
うん。思った通り。わたしの好きな味だ。柑橘の果汁と泡の立つ水を使った、夏向きのアレンジも成功していると思う。
わたしは、おそるおそる、ノルドウッドとハナの表情をうかがった。
「どう……でしょう。この土地の方にも気に入っていただけるでしょうか?」
ノルドウッドは慎重に一口飲んだ後、破顔して残りを飲み干した。目上の人間に遠慮していたらしいハナも、わたしとノルドウッドを追うようにコップを口に運ぶ。
「こりゃうまい!」
「おいしいです、キーラ様!」
「お屋敷内の皆様に振舞ったら、喜んでいただけると思いますか?」
「もちろんです。それこそ、料理長がレシピを欲しがりますよ。いかにも伯爵が好きそうな味です」
ノルドウッドは力強くうなずくと、にやりと笑った。
「伯爵にもぜひ、飲んでもらいましょう。次の正餐の時に、みんなで試飲会ですね」
彼の言葉に力を得て、わたしは心の中で温めていた着想をさらに推し進めることにした。
「それならば、ノルドウッド卿にお願いしたいのですけれど」
わたしが腹案を説明すると、彼は小さくうなずいて聞いていた。その上での依頼に、彼は破顔した。
「準備しますよ。それは絶対に上手くいくと思います。保証します」