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7 金の櫛

 書類と金を見せると、ノルドウッドはほっとしたように肩の力を抜いて、がっくりとテーブルに手をついた。


「本当に、びっくりさせないでください。心臓が縮む思いでしたよ。ほとんど身の回りのものしかお持ちにならなかったのだから、これはよほど大切なものなのでしょう?」

「父が母に贈ったもので、母の形見です」


 さらりと答えると、ぎょっとしたように目をむかれた。まあ無理もない。


「けれど、物は物です。いざというときにお金に変えるつもりでしたわ」

「いざというときって。いつもあわただしい訪問になっていたのは認めますが、それでも、私もそれなりの頻度でこちらに顔を出していたでしょう。こんな大事なものを質に入れる前に、相談の一つや二つ、してくれるだけの信頼はいただけていたかと思ったんですが」


 彼の、深い松葉色の瞳に傷ついたような色が浮かんだ。


「ですから、わたしにとって、この櫛はそこまで重要ではなかったんです」


 善良なノルドウッドの様子を見ていれば、彼が円満な家庭でたっぷり愛されて育ったであろうことは想像がつく。わたしの母が置かれていた境遇、わたしと父の希薄な関係など、頭で理解はできるかもしれないが、実感はできないだろう。母の形見、という言葉の重みが違うのだ。

 それに、わたしは、いつかこの櫛を厄介払いしてやろうと心に決めていた。こんなもの、私の人生には必要ない。


 それでも、彼が心底わたしとハナを案じてくれていたことが分かって、わたしも少々居たたまれない気持ちになった。


「それにしたって、こういう品なら、こんなことをしなくても、厨房で十分手に入ったでしょう」

「自分で用意したかったのですもの」


 わたしは頬をふくらませた。


「客分の身と言えど、わたしにもささやかな誇りはあります。生きていくのに必要なものを当面、伯爵様のご厚意におすがりしなければならない現状は甘んじて受け入れますけれど、必要以上の掛かりを施していただくわけにはいきませんわ」


 わたしの言葉に、ノルドウッドは口を開きかけたが、思い直したように一旦つぐんだ。しばし考えてから、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「ここにきた当日におっしゃっていましたね。働かざる者食うべからず、と。けれど、皇女殿下はこちらに逗留していただいているだけで、伯爵領にとって重要な外交上の価値を発生させてくださっています」

「問い合わせがあった時に、わたしがここにいないということになれば、皇室との関係が危うくなるのですものね」


 まさに、皇女の嫁ぎ先として白羽の矢を立てられてしまったがゆえに、一方的に押し付けられた厄介ごとである。

 伯爵とは、初日の対面以降、大勢が同席する正餐の席以外にはまともに顔を合わせる機会がなかった。だが、ノルドウッドとハナに加えて、執事やメイド長、神殿の神官たちなど、関わる機会のあった人々は、皆、心から親切に接してくれていた。それがゆえに、わたしは自分が持ち込んだにちがいない厄介ごとに日に日に大きな負い目を感じるようになっていたのだ。

 だが、ノルドウッドは首を横に振った。


「それだけではありません。私にとっても、キーラ様の話してくださる都の様子や、後宮に出入りする貴族たちの話は重要です。正規の筋では、表向きや建前の話は聞けても、キーラ様の見てこられたような角度からの情報はない」

「それだって、すぐに古くなりますわ。中央政府も後宮も生き馬の目を抜く世界ですもの」

「いいえ。情勢は変わっても、人柄や家風というのはそんなに簡単に変わらない。まして、キーラ様は洞察力のある方です。ごくわずかな関わりからも、根拠のある推論をしっかり引き出している。私はあなたと会話するのが本当に楽しいし、勉強になると思っています」


 正面からほめられて、頬が熱くなるのを感じた。だが、ノルドウッドは怒ったような顔のままだった。


「ですから、ご自分がここで厚意にすがって生活している、などとつまらないことをおっしゃるのはやめてください。伯爵家は、最終的には自らの決断として、あなたをお迎えしたのです。なぜこれが必要なのかはよくわかりませんが、この程度の品物なら、いくらでも用意します。それはあなたが受け取るべき、正当な生活の糧です。人間は食べて寝るだけで生きていけるわけではないのですから」

「でも」


 ハナはどうだろう。屋敷に、相部屋とはいえ寝るところを与えられ、制服は支給され、食事はまかないが出る。そのかわり、ハナに与えられる侍女としての給金はけして高くはないはずだ。嫁入り支度の足しにできるかどうか、という水準だろう。わたしが今日彼女に扱わせてしまった大金は、彼女にとって、給金の数か月分に相当したに違いない。その中から一部を割いて購入した大量の砂糖や食材は、彼女にしてみれば、貴族の気まぐれ、無用の浪費にみえただろう。

 わたしと彼女の間には、父親の身分程度しか違うものはないはずなのに。


 わたしが飲みこんだ言葉のなにがしかを、ノルドウッドは感じ取ったようだった。


「キーラ様が今後どうされるかは、伯爵もまだ決めかねているようです。ですが、伯爵家にお迎えした以上、いずれ、ここで何がしかのお役目を引き受けていただくことになると思います。お立場が決まれば、果たすべき責任も生じますし、それに伴って使えるお金も自ずとはっきりしてくるでしょう。そうした中からなら、キーラ様がご趣味のために少々の金額を使っても問題をお感じにならないのではないですか」

「それは……」


 わたしはうなずいた。何か役目を果たさせてもらえれば、この後ろめたさも和らぐ気がする。


「でしたら、こうしましょう。この櫛は私が自腹で請け出してきました。ですから、これはお返しします。そのかわり、この櫛で質屋から受け取った金額を、私がお貸ししたことにするんです。キーラ様が責任あるお役目に就いて、これだけのお金を稼いだとご自分で思われたら、私に返してください」


 彼はわたしがテーブルの上に並べていた、質屋の借用証を手に取った。


「これを証文代わりにしましょう。ですから、もうこれで、お互いに後ろめたいだの、頼らなかったのと、つまらないことで言い争うのはやめにしませんか。だいたい、質屋の親父だって、皇帝陛下が皇女様のご母堂に贈られた櫛なんて、大物すぎて手に負えませんよ。ただの櫛だと思ったからつけた値で、ちゃんと話を聞いたら卒倒してしまいます。あの親父の心臓にだってよくありませんから、借金なら私からにしてください」


 そう言って、証文を自分の上着の合わせにしまうと、わたしの手のひらに古びた金の櫛を押し込む。


「いつかもう一度、これが身近にあればよかったのにと思われる日が来るかもしれないじゃないですか。形見の品というのは、替わりがききません」


 彼の瞳の色が一瞬深くなった。それを振り払うように、彼は微笑んだ。


「私は正直、都から皇女殿下が降嫁されると聞いて、お目にかかる前には、大変な浪費家だとか、我々や侍女に意地悪やわがままばかり言う物語の悪役令嬢のような方だったらどうしようと思っていたんです。なにせ、キーラ様の事前情報は皆無だったので」


 あけすけに言って、彼は笑った。


「まさか、ショウガと黒砂糖を、厨房から取り寄せるのではなく、自分で使いをだして市場に買いに行かせてしまう姫君だなんて、予想外もいいところです」


 わたしは自分の手の中の櫛をじっと見つめた。それがにじんでくもって、手のひらにぱたぱたとしずくが落ちるのを感じて初めて、自分が涙を流しているのに気が付いた。


「え、あの」


 当惑したようなノルドウッドの声が、頭の上から降ってくる。

 何事もしていないのにここにいさせてもらっている後ろめたさ、心細さを、ノルドウッドがまさかこんな風に理解して、気遣ってくれるなんて、思いもしなかった。なのに、当の本人は自分の言ったことがどれだけわたしにとって大きなことだったかなんてまるで理解せず、頑丈そうな肩を丸めて、ハナを叱って泣かれたとき以上にうろたえておろおろしている。


「申し訳ありません。図々しい口をききました」


 なんて、ずるい。わたしの負け、確定ではないか。


「本当ですわ。わたし、厳しいって言ったでしょ。怒ってるんだから。お行儀見習いが必要なのは、ハナよりもノルドウッド卿ではなくて」


 冗談めかして、精一杯虚勢を張ったけれど、隠しようもない涙声が腹立たしい。

 当惑しているながらに、わたしのこの発言は軽口だと気が付いたらしいノルドウッドの肩からほんのすこし緊張が抜けた。


「お詫びにできることがございましたら、何でもお申し付けください」

「じゃあ、厨房からもっと大きいお鍋を借りてきてくださる? これでは小さすぎるのだけど、ハナにそんな重たいものを運ばせるわけにはいかないから、困っていたの」


 せいぜい、物語の悪役令嬢みたいな高慢な口調を気取って、言ってやった。


 あたふたと厨房に向かう彼の背中を見送ってから、わたしはふたたび、手のひらの中に目を落とした。手に取るたびに、この櫛は怒りや悲しみにぎらついて見えて、いつか自分の人生から追い出してしまいたいと思っていた。だが今、思いがけず手もとに戻ってきたその金色の塊は、どこか優しい色に変わっているように思われた。


 次の瞬間、はっとしてわたしは頬を押さえた。


「もう。泣くと不細工になるから、嫌なのに」


 慌ててハナに声を掛け、簡単に化粧直しが出来る道具を取ってきてもらう。冷たい水で顔を洗って、腫れた目元を冷やしながら、わたしは厨房までの距離を考えた。化粧直しは間に合うだろうか。彼が気を利かせて、少しゆっくり戻ってくるだけの繊細さを持ち合わせていればいいけれど、どうもそれは期待薄のように思われた。


 だとすると、急がなくては。



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