6 おつかい騒動
この土地にきてから数週間があっという間に過ぎていった。色々思いめぐらせ、策を練っていたわたしは、ある日ついに、計画を実行に移すことにしたのだった。
「ねえ、ハナ。ここにいても、することもなくて、わたし退屈で死んでしまいそうよ。人助けをすると思って、すこし頼まれてくれないかしら」
精一杯哀れっぽい声を出して、年下の侍女に甘えると、ハナは喜んで胸をはった。
「わたくしにできることなら、なんなりとお申し付けください」
「じゃあ、ここの水屋で少し、作りたいものがあるの。伯爵屋敷の皆様に、あたたかく受け入れていただいたお礼をしたいのよ」
わたしは母の形見の櫛を取り出した。強度を出すためにすこし混ぜ物は入っているが、金でできている、控えめな装飾の施された品のいいものだ。クズみたいな父親が、自分のした悪行の証拠に、唯一、母に渡したものである。
出産という難事にあたって後宮の片隅にでも居場所を保証し、最低限、母とわたしの命を守った時点で、この櫛はすでに用済みだった。思い入れなど一片もない。
「質屋さんに行って、これでいくらか用立ててもらって、今から言うものを市場で買ってきてほしいの。それと、厨房から鍋を借りたいんだけれど」
リストを見せると、ハナの顔がぱっと輝いた。
「これでしたら、ここからここまでは買う必要はありません。みんな自分の家で用意するものですから、どのみち市場にあまり質のいいものは置いていないんですよ。祖母が作ったもののほうが断然おいしいですから、家に寄ってとってきます。リストのこれだけは買わないといけませんけれど、お昼までには十分戻ってこられます」
◇
正直者のハナが、リストにある通りのものと、買い物の残金、質屋の手形を持って戻ってきたのは、彼女が保証した通り、正午少し前だった。パンと簡単なおかずのみの、いつも通りの昼食をとってから、わたしは洗いやすい木綿の服に着替え、離れの水屋で作業を開始した。
「うーん、鍋、ちょっと小さいなあ」
ハナに実家でそろえてきてもらったのは、各種の香辛料だった。食事のたびに気になったものの名前を尋ね、少しずつ知識を蓄えてきた、伯爵領ならではの香草や香りの強い木の実ばかりだ。各家庭で、出入りの森で採取したり、自宅の畑や庭の片隅で栽培するのが常で、市場でも買えないという。ハナの家では、祖母が留守番をしていたらしいのだが、都から下った皇女様の御用で、と彼女が胸を張ってねだったせいで、びっくりするほどたくさん持たせてくれていた。これは、後で何かお礼をしないといけないだろう。
櫛を質入れしたお金で買ってきてもらったのは、精製度の低い茶色の砂糖だ。ごく庶民的な価格らしいが、伯爵家の厨房で作られる焼き菓子にも使われていて味が良かった。それから、表皮が薄茶色になり、身が淡い黄色にしっかり染まるまで貯蔵、熟成された古ショウガと、季節には少し遅いが岩室貯蔵のおかげで流通しているという、酸味の強い柑橘。甘くないせいで日持ちがいいのだというが、そのままでは食べられないほど酸っぱい。
養生所には、冬になると決まった症状を訴える患者が多く訪れた。発熱、のどの痛み、くしゃみ、鼻水の一そろいがお決まりで、多くは数日で良くなる。町場でもありふれた、風患いと呼ばれる病である。そうした病の全てに、高価な薬種を処方するわけにはいかないし、実際にその必要もない。体力さえ落とさなければ悪化しにくいのも特徴である。
そんな患者たちのために、後宮内神殿の養生所で冬場になると大量に仕込まれていたのが、黒っぽい砂糖に薬種を少量とショウガをたっぷり加えて煮だした蜜だった。神官たちの間では、病人への対応として、比較的安価で手に入るが、冷えた身体を温め、上がり過ぎた熱を冷ましてくれるショウガの効能が大いに信頼されていたのだ。
幼いころはしょっちゅう熱を出していたわたしは、この蜜のお世話になることが多かった。そして、神官様たちには申し訳なくてあまり大っぴらに言ったことはないのだが、このショウガがたっぷり入って香料の効いた蜜が、とにかくおいしいのである。熱が出るのは苦しいけれど、これを飲めるのは正直、楽しみでもあった。
たっぷりの香草とショウガを刻んで、黒砂糖を入れてみると、ハナが借りてきてくれた小振りの鍋は一杯になってしまった。
「ここに水を加えるのよね。加熱したら香草のかさが減るといっても、煮立てるにはちょっと不安かなあ」
量を減らして、半分ずつ仕込むべきか、と腕組みしながら思案しているところに、血相を変えて飛び込んできたのはノルドウッドだった。
「キーラ様! これはどういうことですか」
見ると、彼の手には、わたしがハナに頼んで質入れしてもらった櫛が握りしめられている。
「どういうって、あの。ハナに頼んで、質屋に持って行ってもらったものですが」
その剣幕に呆気に取られてしまう。ハナが初日に叱られて涙ぐんだ理由が分かる気がした。身体が大きいノルドウッドが怒ると迫力がある。
「何か必要なものでもあるのなら、きちんとおっしゃってください。勝手にこういうことをされては困ります」
「お手を煩わせるほどのものではなかったので」
「こちらの方がよほど大ごとになるんです」
「なぜです? そもそも、なぜノルドウッド卿がそれをお持ちなんですか」
一瞬ひるんでしまったことを内心後悔しつつ、わたしは昂然と顔を上げた。非難されるいわれはない。わたしがわたしの持ち物をどうしようと、指図がましいことを言われる筋合いではないはずだ。
「質屋の親父が、心配して屋敷に使いをよこしたんですよ。まさか、ハナに限ってそんなことはないと思うけれど、皇女様の物を黙って持ち出して質入れしたりしていたら後々、大ごとになってしまうからって。本人に問いただしても皇女様のお言いつけだと言い張るので、とりあえず決まり通りに預かって金を渡したが、どうしたらよいか、という問い合わせです」
「あら」
わたしは眉をひそめた。ハナの忠義が疑われてしまったのは心外だが、確かに、質屋の店主にしてみたらまっとうな心配の範疇に入るだろう。わたし自身の意志だと明確に示す手段なしに質屋に行かせたのは、わたしの短慮だった。
「何に使ったんです? って、あ、あの」
急に何かに思い当ったのか、彼の顔が怒りとは別の種類の赤に染まった。
「詮索しようというんじゃないんです。女性特有の入用のものでしたら、ハナを通じてメイド長に言っていただければもちろん、用意しますから」
その様子があまりに気まずそうで、先ほどの迫力との落差に、わたしは思わず吹き出してしまった。
「買ったものをお見せしますわね」
わたしはテーブルの上に置いていた材料を示した。
「ハナにやましいところは何一つありませんわ。質屋の手形、買い物の領収証、あの子が持って帰ってきた残金に、銅貨一枚の狂いもございません。わたしが保証します」