5 伯爵領の湯治場
次の日から、特にすることのなかったわたしは、ハナや、折に触れて立ち寄るノルドウッドを質問攻めにして過ごした。例の泡の立つ水でお腹を下すこともなかったのは幸いだった。この土地のことを、できるだけ知らないといけない。後宮では、この新興の伯爵領の情報など、貴族年鑑の数行の記事しか得られなかったのだ。
年若い侍女は、系統立った教育は受けていないようだが、家族や周囲の人間の話をよく聞いて覚えていた。彼女の話と、忙しそうな武官がわずかな時間に質問に答えてくれたことを繋ぎ合わせると、少しずつここの状況が見えてきたように思われた。
水はけが良すぎ、傾斜地も多いこの土地では、作物はあまり豊かに育たない。肥料や耕作技術が発展してきたことで、以前よりは収量も増しているらしいが、他領が収量を伸ばす程度には追いつけていない。
領地面積のわりに穀物の収量が少ない点は、温暖な気候を活かして柑橘を栽培し、気温を低く抑えられる岩室に貯蔵しておいて少しずつ他の領地や都に出荷することで補って、小麦の生産が足りない分を購入する費用に当てているようだった。
そうした土地柄もあってか、伯爵家の日常生活はごく簡素で合理的なものだった。食事や衣料品の素材こそ、庶民よりは少しいいものを使っているかもしれないが、おおよその内容に関して言えば、領地の平均的な家庭と大きな隔たりはないように思われた。
たとえば、伯爵家では、全員が揃って温かい食事を取る正餐は週に二度だ。それも、昼食に行い、多くの家臣も同席して、領地の問題を話し合いながら食べる。わたしは、どうやら上座らしいテーブルの片隅に席を与えられたが、文脈がよく理解できない会話を傍観しているだけでよく、気楽なものだった。
それ以外の日は、各自が自分の居室でパンと冷製肉やサラダ、ピクルスなどで簡単に食事を取る習わしだった。夏場はそれにお茶を添える程度だ。冬場はそれでは体が温まらないので、厨房で大鍋にスープを作り、部屋付きの侍女や従者が主のもとへ運んだり、使用人たちも同じスープを賄いに食べたりするのだという。屋敷に出入りする家臣、使用人もまた、大きな括りで言えば家族のような扱いを受けている印象だった。
食事に合理性以上の贅沢さを感じた唯一の点は、その香りだった。ハナが運んできてくれる食べ物には、都で口にしていたものより多くの香辛料が使われていた。きりっとした風味は、すこし暑い気候にはよく合っていて食べやすかった。贅沢にこしょうをきかせたハムを夕食にいただくこともあったし、香草が幾種類も刻み込まれているらしい複雑な香りのパテがパンに添えられていることもあった。
「こんな香り高い香辛料を使っているなんて、伯爵様はお料理の味にこだわりがあるのね」
何気なくわたしが言うと、ハナはきょとんとして首を傾げた。
「これは、畑のすみっこに生える香草とか、里山の木で特に香りのいい実をつけるものを選んで収穫したものを使うんです。このあたりでは、料理が傷むのを防ぐために、庶民の家でもふだんから使われる薬味です」
「舶来の品じゃないの?」
肩透かしをくらったような気になりながら問い返してしまった。
「そういう立派なものは、お目にかかったことがございません。キーラ様のお口に合うといいんですが」
初日にノルドウッドに叱られたことが地味にこたえていたらしいハナは、わたしの顔をうかがった。
贅沢だと思っていたら、これもそうではなかったらしい。暑い気候に合わせた合理的な判断だったというわけか。
「おいしいわ。気候が違うと、これだけ、収穫できるものも違うのね。面白い」
「田舎料理で、お恥ずかしいです」
「そんなことないのに。新鮮だからこれだけいい香りが出るのかもしれないわ。舶来の薬味は、何か月も船に揺られて運ばれてくるのよ」
そして、そのほとんどは上位貴族や富豪の屋敷に消えてしまうか、薬として養生所にしまい込まれ、体調を崩したものたちが、ほんの少しずつをありがたく飲むしかなかったのだ。神殿の養生所には、輸送費のせいで黄金よりも高価になってしまう薬種が幾種類もあった。
わたしがそう言うと、ハナは目をかがやかせてうなずいた。
「湯治のお客様がお薬として、ほんの少しずつを小分けにして紙に包んだものを飲んでいらっしゃるのを見たことがあります。大きなギルドを経営されている商人の方でした。薬包紙にも香りがつくくらい、強い匂いのお薬で、お貴族様はこれを肉にまぶして焼くらしいよ、なんて教えてくださったのですけれど、お薬を肉につけるなんて、ふしぎで仕方なかったんです。そういうことだったのですね」
「湯治場はにぎわっているの?」
「冬場は、節々の痛みに効くとおっしゃって毎年来てくださるお客様もいらっしゃいます。でも、夏はやはり暑いせいか、お客様は少ないです」
農業がいまひとつふるわないこの領地のもう一つの産業が、湯治場であるらしい。部族間の小競り合いが解消されたことで、途絶えていた客足が次第に戻り、今の伯爵の統治下で施設も整備されてきたという。今では、庶民を中心に人気が高く、多くの旅行者が訪れる。
冬場の繁忙期には、ハナも十歳にならない頃から、お給仕をしたり、片付け物や洗い物を手伝ったりと働いてきたのだという。
伯爵領の湯治場は、天然で熱湯が湧く地点の近くに作られている。谷川の涼やかな水を混ぜ、温浴にちょうどよい温度にして、男女別に浴場を提供しているのだという。その周辺に、湯治客が逗留するための宿や食事処が多く開業しているのだ。
「湯治場のお湯はただの水とは少し違うんです。吹き出物が消えてお肌がすべすべになったり、切り傷や打ち身が早く治ったり、身体の痛みがやわらいだりと効果があるんですよ。以前お出しした泡の出るお水も、冷たいですが湯治場のお湯と似た効果があるんだそうです」
ハナにとっては、地元の自慢の名所らしかった。
「まあ、わたしもいつか行ってみたいわ」
何気なく言うと、彼女はとんでもない、と言う風に首を横に振った。
「キーラ様のように高貴なお方が、他の者に混ざって肌をお見せになるなど、あってはならないことです。医者にかかれず、質のいい化粧水が手に入らないような庶民が行くところですから」
「ふうん。わたしは気にしないけれど、周りの方にご迷惑が掛かってしまいそうね」
「貴族のご婦人方がいらっしゃるときには、格式のあるお宿まで湯を運ばなければならないんですよ。たくさん来られると手が回らないので、お宿のほうでも、お得意様とそのご紹介の方しかお受けしていないんです。それか、あえてお湯には浸からず、薬効のあるお水としてお飲みになったり、びんにつめてお持ち帰りになって、化粧水の素として使われる方もいらっしゃるとか」
わたしは考え込んだ。
農地の収量が悪いなら、別の方法でお金を稼ぐしかない。そんなことは伯爵も先刻ご承知だろうし、試せることは試していらっしゃるだろう。だが、他の土地から来た者の発想というのは、それなりの価値があるかもしれない。それに、わたし自身には、ほかの土地から来たということ以外に、ここで活かせる価値のある資質があるようには思えなかった。少々の繕い物や下働きの仕事も実はできるのだけれど、それをやってしまうと、ハナの仕事を侮辱していることになりかねない。
わたし自身が、自分の持っているものを見極めて、自分がすることを探し出さないといけない。いつまでもただ食べさせてもらえるなどと思っていてはいけないのだ。思いついたことは、小さな一歩でも試してみるべきだ。