4 泡の立つ水
ハナは涙ぐんだままだったが、はっきりと答えた。
「いえ、こんないい井戸のお水はめったにいただけません。特に清浄な井戸でついさきほど汲んできたものです」
つまり、普段はもっと濁りがちな井戸の水でも生で飲むのだ。ここで生まれ育ったハナの胃腸が慣れているとはいえ、この土地の井戸水が煮沸しなくても十分に飲める証左だとみなしてよいだろう。
「わたしのために、わざわざ、お茶の水とは別に用意してくれていたのね。喜んでいただくわ」
わたしはノルドウッドを横目でにらんだ。
「ノルドウッド卿も、普段は井戸の冷たいお水を召し上がるのでしょう? わたしにだけいただけないなんて、意地悪をおっしゃるのはずるいわ」
ハナが泣き笑いのような表情になって、深く頭を下げた。
「……お腹をこわしても知りませんよ」
憮然として、武官が言う。だが、年若いメイドを泣かせたのは本意ではなかったのだろう、その頬には安堵の気配もうかがえた。
「大丈夫です。神殿でも、井戸からくみたてのお水を毎朝お清めに飲んでいましたわ。もしお腹をこわしたとしても、水が悪いのではなくて、わたしの身体がまだ慣れていないだけでしょうから、いつかは通らなきゃいけない道ですもの」
もう、わたしに行くところはない。後宮には戻れっこないし、修道院にも行けない。頼るべき身よりもない。ここで場所を見つけて生きていくよりほかないのだ。
慣れてやろうじゃないの。生水どんとこい。迎え討ってやる。
用意されたすすぎ水で手を清めると、その水もすっきりと冷たかった。何時間も前に汲み置いたものならもっと生ぬるいはずだ。急ごしらえの侍女というが、気働きのしっかりした娘を選んだのだろう。
礼儀作法は後からでも身につくが、相手の立場を思いやる姿勢は一朝一夕では身につかない。後宮ではむしろ侍女に限りなく近い立場だった身としては、思わぬ幸運に胸がはずんだ。この娘となら上手くやれるだろう。
ハナがすこしふるえる手でコップに注いでくれた水は、すすぎ水よりさらに冷たかった。柑橘の香りがほんのりついて、爽やかだ。
「……あれ?」
それだけではない。わたしは思わず、コップの中を覗き込んだ。
舌にしゅわしゅわ、ぴりぴりと独特の刺激を感じる。だが、酒精ではない。神官様が、成人の十六になった夜に、ほんの少しだけ供物のおさがりを飲ませてくれたリンゴ酒を思い出した。あれは確か、酒を醸す過程で醸造の神様の息吹が宿るという、特殊な村のリンゴ酒だったはずだ。ブドウを醸す過程でも同じ現象が起こる村があるらしいと聞いたことはあるが、酒精のない飲み物でこの感触は初めてだった。
「この水、柑橘の他に何か入っているの?」
ハナは首を横に振った。
「汲んだ時から、この味です。長老様は、大地の気が入っていると言っていました。疲れによく効くと湯治のお客様には好評なんです」
「こら、ハナ! あの井戸だったのか。また、面妖なものを」
ノルドウッドが慌てて口をはさんだ。
「すみません、キーラ様。この土地独特の水なんです。すこし泡の立つ水が出る井戸がありまして。一晩も汲み置けば散じてしまうもので、古来から薬効があると言われてきた井戸です。一部の趣味人はこの感触を好んで飲みますし、旅行者も含めてこの井戸の水で体調を崩した人の話は聞いたことがありませんが、癖が強いのでお口に合うかどうか」
言ってから、ハナに渋面を向ける。
「まずは、普通のものをお出ししなさい。都でお育ちの皇女様にとってはこの土地の何もかもが初めてなんだから」
また、侍女がしょんぼりとうつむいた。
「もう、ノルドウッド卿が怒らないでくださいな。ハナはわたし付きの侍女として勤めているのでしょう? こういうお水は初めてだけど、すっきりしておいしいわ」
大体、後宮でも、皇女様扱いなどされたことはない。妃付きの侍女たちや公式に採用された官女たちのほうがよほどいいものを食べ、身に着けていたに違いない。わたしは後宮内神殿の予算の端っこで食べさせてもらっていた、人数にもまともに数えられていない身分だったのだ。案じてもらうほど繊細な胃腸はしていない。
ハナが茶の支度のため席を外し、十分離れたのを確認してから、ノルドウッドは苦笑しながらわたしに釘をさした。
「あまり甘やかさないでください。あの子だって侍女奉公の年季が明けて家に戻れば、一人前として嫁ぎ先を探すんです。屋敷勤めの経歴はそれだけで重宝されますが、裏を返せば、そこでぼろが出るようでは、ハナが苦労します。伯爵家やキーラ様の威信にも関わるんですよ。行儀見習いも兼ねているんですから、きちんと仕込んでもらわないと困ります」
「まあ、それはご心配なく。わたし、本当はとっても厳しいんですよ」
わたしは扇子をぱっと開いて、にんまりと笑ってしまいそうな口元を覆った。
クズみたいな父親の元を離れ、みそっかすで余りものみたいな扱いを受けてきたこれまでの人生を、ざまあみろと見返してやるだけの運がどうやらめぐってきたらしい、と気が付いたのだ。
この武官どのは、武骨に見えてよほど気を回す性質らしい。ハナにもただきつく当たっているわけではないのだ。
ハナといい、ノルドウッドといい、とても気持ちのいい人々のように思えた。今までわたしの身の回りに、神殿の人々以外で、こんな風に率直に物を言い、分け隔てなく親身に接してくれた人などいただろうか。
ハナが、銀のトレイに茶器と焼き菓子を乗せて戻ってきた。紅茶のかぐわしい香りと、バターとショウガの混ざった甘い焼き菓子の匂いがないまぜになって漂ってくる。
急に、空腹感を覚えた。猛烈においしそうだ。
焼き菓子に手を伸ばした瞬間、迷惑そうな渋面を浮かべたままだった伯爵の顔がふと脳裏に浮かんだが、わたしはあわててその幻想を追いはらった。
彼が、抱え込まされたお荷物に不満を感じるのは当たり前のことだ。ここで食べさせてもらう以上、わたしが、わたし自身の価値を証明しなくてはならないのだ。
そのためには、きちんと力を蓄えて、準備する必要があった。














