2 初夏の風
「率直なお言葉、ありがとうございます。わたしも、まどろっこしい議論はしたくありませんの」
わたしは、家臣がすべて重い垂れ幕の向こうに消え、分厚い樫の扉が閉まるのを待って言った。
「とおっしゃいますと」
面白そうに眉を軽く動かし、返事をしたのは武官の方だった。こちらも伯爵同様、黒髪にやや濃い色の肌だが、その瞳は深い緑色だった。きびきびとした無駄のない身のこなしで、伯爵と比べるとかなり若かった。二十代半ばだろうか。
「無礼をお許しくださいませね。伯爵さまがひかれたクジは、いわば、はずれ皇女です」
わたしは扇子をぱちりと閉じると、自分の胸のあたりを軽く指した。
「ご存じでしょうけれど、わたしの母は神殿仕えの官女でした。貴族ではなく、平民出身で、しかも神殿経由で仕事ぶりを認められ後宮に出仕することになった身分です。実家はごく普通の職人家庭で、それも慣例通り、神殿に入るときに生家とは一切の縁を切りましたもので、わたしは母方の祖父がどこのどんな人かも存じません。実直ではあるが決して裕福ではない家庭だった、とだけ、亡くなった母から聞かされています」
「何をおっしゃりたいんです?」
武官のモミの木の葉のような深い色合いの瞳がきらっと光った。
「わたしを押し付けられたことで、伯爵様には何のメリットもない、と申し上げたかったのです。わたしを送ってきた王宮の者たちは、関所でわたしを受け渡したあと、そのまま都に戻りましたね。伯爵領内でわたしがどのように処遇されようと、目下、興味はないということですわ。父はわたしの名前どころか、存在も忘れているでしょう。中央の官僚貴族たちが気をまわして実現した、皇女を迎えるという格式ばった一連の儀礼で伯爵家のお財布を少々いためつけ、髪と目の色だけは立派に皇統を主張している、目障りな一文無し皇女の行き先を見つけることだけが目的の縁組です」
思わず、言葉には自嘲の笑みが混ざってしまう。
「伯爵様には有益な人脈が増えるわけでも、ましてや、中央政権に足がかりができるわけでもございません。望んでお引き受けくださったわけではないにもかかわらず、こうしてきちんと形を整えてお迎えくださったことを、心より感謝しております」
「面白い方ですね。十七にして、それだけ物事を見ていらっしゃる」
武官は無遠慮に微笑んだ。伯爵の物言いと同様、やはり、嫌な気持ちにはならなかった。腹の底に何を隠しているかわかったものではない中央の貴族ばかり見て育ってきた身には、この土地の単刀直入な作法はむしろ好ましく思えた。
「このまま、消えてしまいたいような寄る辺ない立場のものではございますが」
しおらしく扇子を広げ、本心とは真逆のことを言いながら、わたしはぐっとお腹の底に力を入れた。この後が本題なのだ。消えてしまいたいなんて一度も思ったことはない。何が何でも生き抜いてやる。生き抜くからには楽しく充実した生活がいいに決まっている。
「わたしはここに置いていただかないと生活する手段がございません。働こうにも、この髪と目の色では、雇ってくれるお店や工房もありませんしね。そして、伯爵家もまた、わたしがここにいることを必要としてくださっているという認識で相違ありませんか?」
伯爵はわたしの問いに答えなかった。自分よりもずいぶん年上の、しかも、わたしには想像もつかないような荒事を多くくぐってきたであろう辺境伯の表情は、底知れない深さだった。
二十年前に爵位を拝領したということは、おそらく、部族間の抗争を平定した時にはこの人物はおそらくニ十歳前後だ。先代伯爵を支えて重要な役割を果たしたことは想像に難くない。表面的な駆け引きに終始するなよなよした中央貴族の腹芸とは訳が違う迫力に、ふるえそうになる声をぐっと引き締めて、わたしは先を続けた。
「わたしが、伯爵家の目の届かないところに姿を消すのは、また、禍根を残すことにございましょう。もし、皇帝陛下が気まぐれに、第十七皇女のことを思い出されたら。ハルディンガー伯爵家に嫁がせた姫がいたはずであるが、と仰せになった時に、わたしがここにいなければ、伯爵ご一家は、大変なことになりますね」
厳しい顔で黙ってわたしの話を聞いていた伯爵が、かすかにうなずいた。
「ああ。今、皇女をないがしろにしたかどで皇室や中央政府から難癖をつけられるのは困る」
「では」
苦々しさをたっぷり含んだ伯爵の言葉に、わたしは精一杯、微笑んだ。
「実態はなんでも構いません。伯爵様が結婚を望んでいらっしゃらないという御意向はうけたまわりました。皇室への体面上、白い結婚を交わすのでも、いっそ、わたしが世を儚んで国家安寧のために一心に祈りを捧げるべく、この土地で神殿奉仕の道に進んだと奏上するのでも、ご都合のよい身の振り先をご検討いただければ結構です。ですが、わたしは当面ここに置いていただけるということでよろしいですわね」
生活の場だけは、確保しなければならない。周囲に迷惑をかけるのも、施しを受けるのも本意ではないが、わたしが野垂れ死んだり、特異な外見のせいで隠しようのないこの忌々しい血筋を悪用されたりすることで生じる厄介もまた、無視することはできないのだ。
「もちろん、先ほど申し上げました通り、わたしの存在は本来、伯爵家にとって何のメリットもないということは存じております。わたし自身に、ここに留めてよかったという価値を見出していただけるように、精一杯つとめさせていただきますわ。何と言っても」
わたしは、神殿仕えの母の座右の銘を唇に乗せた。
「働かざる者、食うべからず、ですものね」
武官がこらえかねたようにくすりと笑った。険しい姿勢を崩さない伯爵とは対照的に、先ほどから彼の表情は初夏の風のようによく動いて、心やすい雰囲気を漂わせていた。
「皇女様の口からその言葉を聞くとは思いませんでした」