エピローグ 暖炉の前でお茶の時間を
「キース、ミリアム、急いで!」
わたしは戸口から声を張り上げて、二男と長女を急かした。黒い雨雲が、あっという間に全天を覆いつくしていた。嵐の前兆である、生暖かくて強い南風が強く弱く、あたりの木々を揺らしている。
「今やってるってば」
やんちゃな二男の返事と、子どもたちが石造りの離れの鎧戸を勢いよく閉める音が聞こえてくる。
「そら、オスカー。そっち側をちゃんと押さえているんだぞ。よいしょっと!」
ドアに筋交いをかけているのは、義父と長男だ。
大粒の雨がばらばらと降り始めた。
「早く、母屋へ!」
わたしが叫ぶのと、稲光がぱっとひらめくのが同時だった。二呼吸おいて、ずしんと腹に響くような重い雷鳴が轟く。
義父と三人の子どもたちは、高揚した笑い声を上げながら母屋の玄関ポーチに飛び込んできた。
「今夜はこちらで世話になるよ。あの離れも、万が一にも崩れることはないと思うが」
義父は息を弾ませながらそう言った。
この伯爵領にやってきた当初わたしが住まわせてもらっていた離れ、そもそもは前伯爵夫人の療養のために建てられたという石造りの小屋が、前伯爵である義父のお気に入りのすみかだ。恐縮する私に、気楽でいいと笑って、夫が呆れるのも聞かずさっさと引っ越しを決めたのは、婚約の儀が整った直後のことだった。義父は、爵位を譲ってからというもの、本来の陽気な性格を取り戻したらしい。よく笑うようになって、冗談もかなり増えた。
「おじいちゃん、僕、今夜はおじいちゃんのお部屋で一緒にお泊りしたい!」
二男のキースが甘えれば、「それができるなら僕だって」と長男のオスカーが張り合い始める。
「ちょっと、男の子たち! 暴れないでくれる? おじいちゃま、今日のお茶のお菓子は、あたしがハナに教えてもらって焼いたのよ!」
負けじと、一番年上のミリアムが暖炉の前のテーブルにティーセットを並べ始めた。
あっという間に賑やかになった居間を背に、わたしはしのつく雨を透かして、厩の方向を見つめた。ざあざあという音に紛れて、待ちかねていた蹄の音が聞こえた気がしたのだ。
ほどなくして、厩の方から駆けてくる、見慣れた人影。
「オルレイ!」
待ちかねて玄関扉をくぐり、ポーチまで出たわたしを、びしょ濡れのマントを背に跳ね上げた夫はぎゅっと短く抱きしめてくれた。
「ただいま、キーラ。思ったより早く降り始めたな」
唇に落とされた帰宅の挨拶に、かかとを軽く上げて応える。もう少し、と思ったところであっさりと夫は身体を起こした。
「きみまで濡れてしまうだろう。着替えをするから、お茶にしよう」
わたしの予測した帝国の崩壊は思ったよりも早く訪れた。皇帝陛下の誤算だったのは、皇太子殿下の出奔だった。その行方は杳として知れず、後継者問題が紛糾する中、屋台骨が崩れるように、陛下の側近だった家臣たちの足並みが乱れていった。心労から陛下が病に倒れたこともまた、混乱に拍車を掛け、各地の領主が独立を宣言し始める。雪崩を打つように帝国の版図が狭まっていく中、ひそかに国力を蓄えていたハルディンガー伯爵領もまた、平和裏に独立を果たした。
ほとんど見守る者もないまま崩御したという皇帝陛下の最期をオルレイが伝えてくれた時も、わたしには何の感慨もなかった。
わたしのことをろくに覚えてもいなかったであろう父への、最大の復讐は、わたしが幸せになることだ。それはもう、この土地に来た時から半分以上叶えられていたのだから。
それでも、わたしはその日、マントルピースの上に置いている母の櫛の前に花を供えた。もうこれで、何の心配もなく安らかに眠れるだろう。
居間に入るとミリアムが駆け寄ってきた。手に、あの櫛を握りしめている。
「お母さま。来月のお誕生日パーティーの髪型、相談したいの。後で、おばあちゃまの櫛で試しに結ってみてくださる?」
「ええ、お茶がすんだらね」
私は娘の、父譲りのつややかな黒髪をそっと撫でた。来月の誕生日パーティで、娘は社交界デビューを迎える。あっというまに、縁談も持ち上がるようになってしまうだろう。その時の夫のうろたえぶりを想像すると少し、おかしくなった。
「お父さまが下りていらしたら、ミリアムのショウガクッキーを食べていただきましょうね」
「はい!」
わたしの言葉に、娘は花が咲いたように笑った。
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