第七章 鬱馬決死の渡河
週明け月曜の放課後。
トライアスロン部は、リオンがリハビリに通っていた市民プールにやって
来ていた。
プールサイドに競泳水着に着替えたルカとリオンが出てくる。
だが、トオルの姿が見当たらない。
「リオちんさぁ、プールで歩いてばかりいたけど、もしかして泳げないんじ
ゃないの?」
リオンを挑発するルカ。
「ワタクシは人並みには泳げますわ。言ったでしょ。歩いてばかりいたのは
リハビリのためだって。それよりも問題なのはあっちじゃないかしら」
リオンが視線を送った先。
更衣室へ続く通路の壁の影から、半分だけ顔を覗かせている人物がいた。
トオルだ。
一番あとから入ってきた撫子が、トオルの背中を押してプールサイドまで
連れてくる。
だが、よほど水が恐いのか、首をイヤイヤしてプールに入るどころか、水
に足を浸けようともしない。
対照的なのがルカで、チームメイトいい格好を見せようと、体の下に水中
モーターでも付けてるみたいに、二十五メートルプールを行ったり来たりし
ている。
しかし、結局トオルは、水に一歩も入らぬまま、プール点検のための定期
休憩の時間に入ってしまった。
六月でも、濡れた体でプールサイドに座っているのは肌寒い。
四人はプール脇に備え付けられたサウナルームへと移動した。
そこでも相変わらずトオルの顔は暗い。
「ねぇ、トオルちん。そもそもどうして水が苦手になったの?」
ルカは、トオルに聞いてみた。
「小さい頃、お父さんが水に馴れるようにっていって、プールに放り投げら
れて……それ以来かな……苦しみながら水底に沈んでいく自分の姿を想像し
ちゃうんだ」
トオルはブルブルと震えながら言った。
父親として良かれと思ってやっていることだとしても、概してそのような
押し付けの教育法は裏目に出るものだ。
トオルの臆病な性格は、そんな父親のスパルタ教育の反動なのかもしれな
い。
(ひょっとすると胃腸炎も、自転車部で苛められたことだけが原因なんじゃ
なくて、父親の教育方針とも関係あるのじゃないかしら……)
と、撫子はふと思った。
「溺れさせてでも水に慣らそうってのは流石に乱暴だよね」
ルカの言うとおり、強引な指導方法が、どれほど大勢の水泳嫌いを生んで
きたことだろう。
「そういやぁルカも、昔は水が苦手だったわよね?」
撫子がルカに訊く。
「ルカも? あんなに泳げるのに?」
リオンが不思議がる。
「アタシなんか、昔はお風呂も苦手だったくらいなんだよ。信じられないで
しょ」
「じゃあ、じゃあ、どーして水が平気なったの?」
興味をそそられたトオルが訊ねた。
「んーと、気付いちゃったんだよねー。ああこの感じってきっと、お母さん
のお腹の中にいるのと同じ感覚なんだなって」
「ルカはマザコンだからねー」
「何よお姉ちゃん、マザコンで悪い?」
「お母さんのお腹の中の感覚か……ふ~ん、ルカらしい発想ね」と、リオン。
「水はさ。掴みどころがなくて、ときに人を溺れさせたりもするけど、味方
だと思えれば全身をまるっと受け止めて、支えてくれるの。だから、感覚的
に水が傍にあるとアタシはスゴく落ち着くんだ。多分アタシにとっての水は
トオルちんにとっての自転車みたいな存在なんだと思うよ」
「ボクにとっての自転車と同じか……」
「もっとも、そんなんだからこの子は、暇さえあれば泳がないでプカプカー
プカプカー、浮き身ばっかりしてるんだけどね。だから体が締まらないでブ
クブク太る」と撫子。
その言われように苦笑いう浮かべるリオン。
「なによ、浮き身してたっていいじゃんよー!」
そんな、気の抜けるような姉妹の口喧嘩を聞かされているうちに、プール
点検の時間は終った。
そろそろと、プールに戻っていくリオン達。
ルカも水に入ろうと、プールサイドに立った。
その時、ルカは背後から急に腕を掴まれた。
「ん? どーしたのトオルちん」
「あの……水は、ボクのこともちゃんと受け止めてくれるかな……」
「うん。絶対受け止めてくれるよ。アタシが保証する」
ルカはトオルにそう答えると、ドポン!と先に入水してから、プールサイ
ドのトオルに向かって両手を広げる。
「さ、おいでよ。アタシをお母さんだと思って、この胸にドーンと飛び込ん
で来て!」
水に入ると決めたトオルではあったが、それでも条件反射的に足が震え、
身がすくむ。
「大丈夫。いざってときは、アタシが絶対助けるから!」
唾を何度も飲み込み、ようやく覚悟を決めたトオルは、ギュッと目を瞑り
手足をギュッ縮め、ルカの方に思い切って飛び込んでいった。
ボッチャーン!!
そのままトオルはブクブクと沈んで行くかと思われたが、予想に反して彼
女の体は沈んでいかなかった。
トオルが恐る恐る目を開けると、そこにはルカの顔があった。
ルカが、トオルの体をしっかりと抱き止めてくれていたのだ。
水が受け止めたというより、ルカが受け止めたわけだが、何はともあれト
オルにとっては大きな一歩だった。
「こらこら、そこーっ! 飛び込み禁止!」
「怒られちゃったね」
プールの監視員に注意され照れ笑いを浮かべる二人。
とりあえず水には入れたトオルだったが、まずは水に浮くことを憶えなく
ては始まらない。
ルカは、水の中で仰向けに寝かせたトオルの傍らに付き添い、指先をトオ
ルの背骨の真ん中にあて、水中姿勢を保持する。
体の正中心は、肉体のバランスの起点。
僅かな部分で支えられているだけとはいえ、その一箇所で支えて貰ってい
るだけでも、安定性や安心感は全くと言っていいほど違うのだ。
「水泳で一番大切なのは正しいフォームもだけど、なによりまず力みすぎな
いこと。いかに水中でリラックス出来るかなんだよ」
ルカは、トオルが水に浮く水平姿勢を保持できそうになると、気付かれな
いように、そっと指を離し、一人で浮けるように馴れさせた。
まだ完全に水への恐怖が抜けないトオルは、時折手足をバタつかせて沈み
そうになったが、そんなときはすかさずルカが、ガシッと支えてやった。
「恐怖で筋肉を強張らせなければ、トオルちんは絶対沈まない。アタシが側
にいるから、恐くないでしょ? お母さんのお腹の中にいた時の気持ちを蘇
らせてみて」
ルカがトオルに教えている時には、撫子は基本、余計な口出しせず黙って
見ている。
生徒の自主性に任せるのが、彼女のモットーだったからだ。
「ルカって本当にトオルのお母さんみたいですね。トオルもスゴく信用して
るみたいだし。でもどうしてルカって、あんなに他人に親身になれるんでし
ょう?」
プールから上がったリオンが、プールサイドで妹を見つめる撫子に訊ねる。
「んー、きっとそれは、上手くいってない人の気持ちやジレンマが痛いほど
分かるからじゃないかしらね。ルカが以前、水泳部に在籍してたことは聞い
たよね?」
「はい」
「ルカは、何事にも体ごとぶつかってく性分でしょ。水にも全身でぶつかっ
て行っちゃうから、飛び込みだけはいつまでも上手くならなくてね。きっと
あれは性分というか、生き様なのね。水中スタートするオープンウォーター
の大会では結構いい成績残してみたいだけど……結局、水泳部が面白くなく
なって辞めちゃったの」
「似たような境遇のドロップアウト組みだとは言ってたけど、そういう事情
だったんですね」
「でも、上手く飛び込めなくて、誰よりも、もどかしかったのは、きっとあ
の子自身だったと思うんだわ。だから上手くいってない人を見ると応援して
あげたくなっちゃうのね」
「なるほど」
なんだかんだ言っても撫子はルカのことをちゃんと見ているのだなぁと、
感心するリオンだった。
そして一人っ子のリオンは、ちょっとだけルカが羨ましく思えた。
ルカの指導の賜物で、水の恐怖を克服後のトオルの泳ぎの上達は目覚まし
かった。
練習三日目には、水の中で伸びをする『けのび』が出来るようになり、一
週間後には、息継ぎして二十五メートル泳げるまでに上達していた。
二十五メートル泳げない人というのは大抵の場合、息継ぎが下手で、息を
しようと体を固くして沈んでしまうパターンがほとんどである。
逆説的に言えば、水に全てを委ねられさえすれば息継ぎだって楽に出来る
ようになるし、息継ぎが上手く出来るようになれば、あとはもう何キロでも
泳ぐ距離は伸ばしていけるハズなのだ。
実際トオルは、着実に泳げる距離を伸ばしていった。