2.やってきた花嫁、仰天する花婿
ジーンの駆け落ちが判明してから十日が経った。
「お父様、そんなにそわそわするものじゃなくてよ」
「だって気になるじゃないか、モニカ」
結婚式にはうってつけの青い空がまぶしい。モニカ・ブラッドレイ伯爵令嬢は、さっきから落ち着きのない父親をなだめた。彼は一番上等のモーニングコートを着込み、先ほどから教会の入り口で、公爵に連れられてくる花嫁を待ち構えている。モニカは流行りのデザインのブルーのドレスを着ていたが、彼女の愛らしい姿によく似合っていた。
こうして父親がそわそわするのも仕方ないことだろうなとモニカは思っている。なんせ彼は女性が苦手で、今までまともに接することのできた女性は使用人達と母親、そして今は亡きモニカの母親だけなのだ。当然、公爵が自分の娘をもらってほしいと言い出した時は仰天し、いったんは辞退した。しかし、アカデミアの教授たちからの度重なる説得、公爵の強引な説得によって彼は泣く泣く承諾したのだった。
「あああモニカ、もし彼女が僕の苦手なタイプだったらどうしよう?」
「その時は彼女には別邸に住んでもらって、時々顔を見せに行けばよろしいのよ」
「僕を無理やり襲って子どもを作って、モニカを家から追い出そうとしたらどうしよう?」
「お父様、年頃の娘にそんな話するものじゃなくてよ。それに、契約したでしょう?」
ブラッドレイ伯爵は結婚をやむを得ず承諾したが、しかし、条件をいくつか付けた。その中の一つに、もし夫婦の間で子どもが生まれても、後継ぎは娘のモニカであること、というのがある。生まれてきたのがたとえ男の子であってもだ。これについて公爵はかなりごねたのだが、伯爵は頑として譲らなかった。彼はいまだにモニカの母親を愛していたし、モニカの母親の実家からは研究が実を結ぶまで結構な援助を受けていて、それで食いつないでいたということもある。
「あ、ほら、馬車が来たみたいよ」
「あああ……不安だ……」
公爵家の豪華な馬車が二台、教会の入り口に止まり、一台からは公爵夫人と息子が、そしてもう一台からは。
「……あれが花嫁かい?」
「白いドレスを着てらっしゃるから、そうだと思うけど……」
父親に引きずり降ろされるようにして、顔をヴェールで隠した、白い粗末なドレス姿の花嫁が降りてきた。手には一応ブーケを持っているが、お抱えのフラワーコーディネーターが手掛けたもの、というよりはどう見てもそのあたりの花屋で慌てて作ってもらったものに見える。ドレスは光沢のある布地で作られていたが、シルクにしてはやや輝きが劣るし、レースも高級品には見えない。デザインもあれは20年ほど前に流行ったもののはずだ。これは新しく仕立て直したものではなく、どう見ても古着屋で買ったもののように見える。しかもドレスはワンサイズ大きいらしく、花嫁の体の細さが一層際立っていた。
「我が伯爵家を愚弄しておられるのですかな?」
傍にいた家令兼執事のファラデーが、公爵家には聞こえないような小さな声でそっと呟いた。ブラッドレイ伯爵は茫然としていて、その言葉を咎めようとはしない。モニカの着ているドレスの方が、いっそ花嫁に相応しいくらいに見える。
「待たせたようで申し訳ないな、伯爵」
「いいえ、我々も今来たところです。ええと、そちらの方が?」
「そうだ。娘のメアリだ」
花嫁は弱弱しく父親の隣で立っていた。ヴェールの下の顔は見えないが、体の細さからどう見ても教会に行くよりは病院へ行った方がよさそうに見える。
「早速、式を始めましょう。神官殿も待っておられます」
「おお、そうだな」
式に立ち会うのは家族とわずかな使用人のみだ。披露宴はやらないことになっている。
◇
式が始まった。モニカは一番前の席で父親と全く知らない女性が、結婚式を挙げるのを見ていた。やがてヴェールをあげるところまで来たのだが、彼女は父親が花嫁のヴェールをあげて、ぎょっとした顔をするのを目撃した。それは公爵も同じだったようで、公爵があからさまに顔をしかめるのを、モニカは見た。
父親がぎょっとした顔をするのも無理はなかった。なんせ花嫁の青白い頬はこけ、目は落ちくぼみ、髪は平民の男のように短く刈られていたからだ。修道院にいたというのは聞いているが、あそこの修道女たちはもっと太っていたはずだ。神官がおそるおそる誓いのキスを促す。伯爵はややためらっていたが、やがて覚悟を決めて花嫁の額にキスした。そして指輪の交換と、証書へのサイン。
そのすべてを終えて、ここに新たなブラッドレイ伯爵夫妻が誕生した。神官の宣言に、満面の笑みで拍手をしたのは公爵だけだった。
「いやあ、めでたい。父親としてほっとしたぞ、メアリ」
「ありがとうございます、お父様……」
式が終わった後、祝福を述べる公爵にか細い声で礼を言う娘を、伯爵は倒れないように支えるだけで精一杯だった。家令のファラデーに、家に帰ったら料理人に消化のいいスープを作らせるように命じる。モニカは花嫁の顔を見ながら、自分の研究の何が彼女の役に立つか考えていた。
公爵と別れ、ブラッドレイ伯爵家に戻ると、ずらっと並んだ使用人達が「ご結婚おめでとうございます、旦那様」と彼らに声をかけようとして、仰天して固まった。旦那様は公爵家の御令嬢と結婚なさったはずだが、目の前にいる女性は使用人達が想像する“公爵家の御令嬢”とはだいぶ違っていたからだ。むしろ、この前休みの日に皆で見に行った芝居に出てきたミイラなるものに似ていた。
しかし、そこは鍛えられている使用人達だ。まず最初に動き出したのは家政婦のギボン夫人で、花嫁のメアリにレディースメイドがいないことを知ると、新しくレディースメイドを雇うまでの間、ハウスメイドの一人に客人扱いで世話をするように命じた。次にモニカのメイドのシシーが、モニカの命令でメアリを用意しておいた寝室に連れて行き、白いドレスを脱がせて楽な格好に着替えさせる一方で、温かいお湯を湯船に貯め、風呂に入れさせるべく準備をした。風呂に入れるのはモニカ特製のラベンダーのバスソルトである。
その一方で料理人は台所へ走り、大急ぎで野菜と鶏肉を細かく刻み、出来るだけ消化のいいスープを作ろうと料理を始めた。結婚式が終わった後で彼がランチに用意していたのは、旦那様の好物の美味しい白いパンとこってりしたビーフシチューだったが、彼女を見た途端にビーフシチューを消化するのは到底無理だということを悟ったのだ。製菓職人も兼ねている彼は、ついでに梨を甘く煮て、これまた消化のいいデザートを作り始める。
「奥様はぐっすり眠っておられます」
一時間後、メアリを風呂に入れたシシーが戻ってきて、モニカと伯爵、それに使用人達にそっと報告した。全員が胸をなでおろす。なんせメアリは今にも死にそうに見えたからだ。何かあったら対応できるよう、目が覚めるまでハウスメイドの一人が付き添っている。
「目が覚めて彼女が食事を口にしたら、プレスコット先生を呼んで見てもらいなさい」
「承知いたしました、旦那様」
伯爵がアカデミア時代の同期で、今は伯爵家のかかりつけ医となっている医師の名前を口にすると、ファラデーが待ってましたとばかりにうなずいた。伯爵は娘に問いかける。
「モニカ、彼女をどう思う?」
「どう見ても栄養不足ね。彼女に必要なのはたっぷりの栄養と休息だと思うわ」
「そうだな、僕もそう思う。当分は彼女を表に出さず、休養させた方がよさそうだ。使用人紹介所に連絡を取って、優秀な看護人を一人、見繕ってもらおう。レディースメイドも雇った方がいいのはわかっているが、まず必要なのは病人の看護ができる人間だな」
「大叔母さまから新しいお母様を連れてお茶会にいらっしゃいって言われたけど、お断りするしかなさそうね」
「普通の人でも叔母上に耐えられないのに、あの状態の彼女では到底無理だからな」
「それにしても、あんな状態の娘を嫁がせようとするなんて。ひどい方なのね、公爵って」
「ああ、彼の息子とお前が結婚することにならなくて本当に良かった」
伯爵はソファに腰かけ、ハーブティーの入ったカップを手にしてほっと溜息をついた。伯爵の母親の妹で、今は侯爵家に嫁いでいる叔母のルシオラに手紙を書こうと決める。
ルシオラはかつてはその美貌と頭脳で社交界の女王として君臨していた人物だった。今では滅多に華やかな夜会などには出ないが、それでもお茶会を開いては会話を楽しんでいる。もし、ルシオラの元に新しい妻をすぐには連れて行けないと理由を何も言わずに断れば、次の日には伯爵邸へ押しかけてくるだろう。十年前に起きたあの騒動を覚えている人間は多い。メアリのあのように弱り切った姿を見たら、自分にはわからないあの不思議な力を使い、ひと騒動起こしかねない。アンブラー公爵家はすべての夜会や茶会と言った社交的な行事に招待されなくなるし、修道院が一つ閉鎖される憂き目を見ることになる。
今そのような騒動を起こすのは、ブラッドレイ伯爵にとって本意ではなかった。何と言っても自分の新しい研究結果を使用した事業はまだ、動き出してもいないし、事業が成功したら得をするのはアンブラー公爵だけではないのだ。それに、メアリだってあのような姿を見られるのは屈辱だろう。
「さあて、どうしようかなあ」
ルシオラになんと手紙を書いたものか、伯爵はしばし頭を悩ませることとなった。