1.令息は駆け落ちした
「いきなり呼び出しておいて、何の要件かな、ブラッドレイ伯爵」
その言葉にブラッドレイ伯爵はため息を吐いた。それを見てアンブラー公爵の額に、小さな青筋が浮かぶ。
わしを何だと思っているのだ、この男は。
元からこの青二才は気に食わなかった。アンブラー公爵家が設立した由緒正しい貴族学園の入学を断り、アカデミアなどという下賤の民が通うような教育機関で教育を受け、そこで天才と呼ばれて調子に乗っているような男なのだから。だが、この青二才が握っている特許が無ければ、アンブラー公爵領には破滅が待ち構えているのだ。だからこそ、可愛い息子のジーンをこの青二才の娘に婿入りさせようと思った。うまくいけば結婚式は来週挙げられる予定であり、もう準備はすべて整っている。
「この手紙を読んでいただきたい。つい先ほど、モニカの元に届きました」
そう言って差し出されたのは、アンブラー公爵家の紋章が入った便せんだ。アンブラー公爵は受け取り、目を通した。最初は何が書いてあるのか、脳が理解することを拒否した。信じられず、何度も読み返す。
彼の可愛い息子のジーンは、こう書いていた。すまないモニカ、僕は真実の愛を見つけたんだ。メイドのマルタと駆け落ちすることにした。彼女の生まれ故郷のカンディト国へ行くよ。君には申し訳ないけど、僕たちが結婚してもうまくいかないと思う。どうか、僕よりもいい人を見つけて幸せになってほしい。
「これは……これは、嘘だ」
「嘘だと?なぜ?」
「ジーンがあの下賤の娘と駆け落ちなどと……。そんなことはありえない」
「しかし、実際ジーン君は行方不明ではないですか。メイドのマルタもでしょう?お宅では朝から奥様付きメイドが見当たらず、大騒ぎだったと聞きますが?」
「ジーンはその、結婚式の前に羽を伸ばしておるだけだ。結婚式までには帰ってくる」
「そうだといいですね。もし彼がモニカとの婚約を破棄したとなると、貴方との取引も考えねばなりませんので」
伯爵はそう言って笑った。顔には、可愛い愛娘とあのごく潰しが結婚することにならなくてよかったとでかでかと書いてある。公爵は苛立たしく立ち上がり、傍にいた従者に「ジーンを探してこい」と雷を落とし、慌てて帰途に就いた。
◇
結論から言うと、ジーンは帰ってこなかった。一週間、公爵はありとあらゆる伝手を頼って、息子のジーンを探しまくった。この国の中にはどこにもいないということがわかるのに五日かかり、のこりの二日でこの国を出る船の乗客名簿を片端から調べたところ、六日前に出たカンディト国行きの船にユージーン・アーメリーとマーサ・アーメリーという、それらしい人物の名が二つ見つかった。公爵にとって最悪だったのは、その船に乗り込もうにも既に船はカンディト国に到着しており、そこからの足取りが全くつかめなかったことだ。
「あの馬鹿息子め!育ててやった恩を忘れおって……!」
公爵は手に持っていた骨董品の花瓶を壁に投げつけた。花瓶は粉々になるはずだったが、残念ながら頑丈なオルディーク産の強化陶器だったので、壁にへこみをつけるだけで終わった。公爵はソファにどさりと座り込むと、頭髪をかきむしった。傍では妻が冷たい目をして公爵のことを見ている。夫婦仲は娘が生まれて以来、とっくの昔に冷え切っていた。
ジーンは公爵と愛人の間に生まれた、二人いる息子のうちの一人である。もう一人の息子、フランシスの方はとある侯爵家の令嬢と結婚し、この家を継ぐ予定だ。
「わしはどうすればいいんだ……くそっ!」
「どうしようもありませんわね。借金取りたちにこの屋敷をお渡しなさいませ」
妻が冷たい声で言う。アンブラー公爵がこの屋敷を売り払うようなことになれば、実家へ帰るつもりでいるのだ。
そもそもアンブラー公爵が窮地に陥ったのは、このところ続く異常気象による冷害が原因だった。アカデミアの学者たちは何年も前からこの冷害を予知し、警告していたが、耳を貸さない貴族や国民が多かった。例外は一部の賢い貴族たちや、王族たちだけで、彼らは警告に従い、食料を貯蔵し品種改良に励み、領民たちに質素倹約を求め続け、自らもまたそれを実施した。アンブラー公爵は警告に耳を貸そうとしなかったのである。その結果小麦は育たず、家畜は飢え、食料の値段は高騰し、最悪なことに餓死者が出始めた。慌てた公爵が借金をして食料を買い求め、配布した結果、なんとか餓死者は増えずに済んだものの、今度は公爵領の財政を大赤字が襲ったのである。
公爵は救いを求めた。そして、ブラッドレイ伯爵の特許と言う形をとって救いは訪れた。ジェームズ・ブラッドレイは、地質学と鉱物学においていくつもの特許を取り、国への貢献でこの前国王から勲章を受けたほどの天才だった。その彼が新しく発見された鉱石の錬成方法を発見したのである。アンブラー公爵領には幸いなことに、その鉱石の大きな鉱山があった。これ幸いと公爵はブラッドレイ伯爵に接触し、ほぼ無理やりと言っていいほど強引なやり方で、息子のジーンと彼の一人娘、モニカとの婚約を締結し、その特許の使用料を負けてもらう代わりに独占使用を認めさせたのである。
「どうすれば……わしはどうすれば……待てよ」
公爵の顔に下卑た笑みが浮かんだ。その顔に夫人は固く唇を噛みしめる。
「子供ならもう一人、おるではないか……」
「貴方、まさか……メアリのことを言っているの?」
「そうだ。あの役立たずに、とうとう役に立ってもらう時が来たんだ」
「でも、あの子は女よ。そして、ブラッドレイ伯爵の子は、娘ただ一人。結婚は出来ないわ」
だから、諦めましょう。そう言いかけた言葉を、夫人は飲み込んだ。夫の顔が狂気と言えるほどに歪むのを見たからだ。この顔をした夫を止める方法を、彼女は知らなかった。
ああ、ごめんなさい、メアリ。
心の中で娘に謝罪して、彼女は夫に向き直った。
「それで、どうするつもりなんですの、貴方?」
「ブラッドレイ伯爵の後添えにメアリを宛がう。もう罪は許されておるし、あれは見目だけは良いからな。あの青二才に文句は言わせん。アカデミアへの寄付と持参金の増額、研究費用の支援まで付けてやるのだからな。寄付金を餌にアカデミアのへぼ学者どもにも説得を手伝わせてやる」
「……そんなお金がどこにありまして?」
「ふん、屋敷の調度品を売り払うことになるが、借金取りどもにこの屋敷を渡すよりマシだろう。事業さえ動き出してしまえばこっちのものだ。わしにもようやく運が回ってきたぞ……!」
高らかに笑う夫を、夫人は持っているハンカチを握りしめて睨みつけていた。
◇
最後に心置きなく陽の光を浴びたのはいつだっただろうか?メアリには思い出せなかった。小さな窓から入ってくるのは光と言うには暗すぎて、手元を照らすのがやっとだ。一日に一回、中庭の散歩が許されるものの、修道院長の厳格な監視下の元で、息が詰まりそうだった。目に痛みを感じたため、メアリは刺繍をやめて、ぼんやりと窓に座りなおした。一応、聖典とそれに伴う読み物は与えられているが、もう擦り切れるほど読んでしまっていたし、読んだところで誰にも話す相手がいないのだ。
もう10年、こんな生活を続けている。メアリはもう人生をあきらめ、いつか栄養不足で死ねるだろうというわずかな期待を胸に、何とか生き延びていた。あれほど艶やかだった肌はガサガサで見る影もない。しかし、鏡を見る機会もないのでこれでいいのだと思う。
「お待ちください、勝手に入ってはなりませぬ!いくら公爵閣下とはいえ……!」
「黙れ!わしが毎月払ってやっている金のことを忘れたか!」
廊下の方から聞こえた大声に、メアリは身をすくませた。あれは間違いなく父親の声だ。何年たっても忘れることはない。今更何の用だろうか?
やがて、ドアが大きな音を立てて開いて、メアリは十年ぶりに父親の姿を見た。
「……お父様……」
「おおメアリ、喜べ。お前がやっと我が公爵家に役に立てる日が来たんだ」
メアリは椅子から立ち上がろうとしたが、ふらついてうまく立てない。そんなメアリの腕を公爵はぐい、と引っ張り、修道院長が止めるのも聞かずに外の世界へと引っ張っていった。