迷子の為のきさらぎ駅
ホラーとは、恐怖を与える事を主題にした作品群である。私はこれまで、自分なりの恐怖を綴ってきたつもりだが、恐らく、君達は特に恐れる事も無かっただろう。その理由を、この作品には込めたつもりだ。私にとっての恐怖とは貼りつくもので、蔓延るもので、些細なものである。それは私の臆病故なのかも知れないが、それもまた、共有するのは難しいのだろう。
しかし、本作はホラーと呼ぶべきだろうか?言うまでもなく、呼ぶべきだろう。私たちは日常に戻らなければならないのだから。
ひとつ、ふたつ、みっつ……。電車がガタつく回数を数えるのは、そのたびに自分が自宅へと近づいているのを感じるからだろう。私にとっての長い長い拘束時間‐‐それは12時間を当然に超えるのだが、記録の上では常に十時間である‐‐を終えると、私はこの電車に乗り込んで首を揺らす。この時間になると人間観察も中々個性的で面白いのだが、学生時代と比べると、それをする元気はなくなっている。丁度正面に、椅子から滑り落ちながら深い寝息を立てる中年がいるが、私もそのようになっているだろうから、「面白くなくなっている」。
うとうとと瞼を下しながら、無意識にガタつくのを数える。山道に入ると、それは呼吸のように素早く当然のものとなり、深夜の陰気な空気に溶け込んでいく。ミンミンゼミの騒々しい鳴き声、開けた渓谷越しに見える閉館した廃旅館……。町から離れるにつれて、意識は朦朧として、中年の体は瞼に埋まっていく。
そうしてしばらく経つと、普段よりも大きな車輪の嘶きが響き、甲高い蒸気機関の蒸気が噴き出す音が響いた。
そこで、自分が夢に入ったのだと体感する。夢と現実の狭間に明確な区切りが見られないような、浅い眠りなのだ。終点のコールですぐに目が覚めるだろう。私は夢の中でさえ目を瞑ったまま、静かに寝息を立て続けた。
「えー、次は、きさらぎ駅ー。きさらぎ駅―」
我ながら酷い名前を付けたな。腕を組みながら自嘲気味に鼻を鳴らす。渓谷の彼方には小学生の頃に社会科見学で向かった山の大菩薩像が立っている。
普段ならトンネルのある辺りで、機関車は停車する。駅のホーム周辺には草が生い茂っており、山道の高い岩肌がむき出しのままで聳えている。機関車はもう一度呼吸を整えて、駅へと乗客を吐き出した。
私以外に降りる人はいない。先ほど客席から崩れ落ちていた中年も、背景の一部に一体化して貼りついたままだった。私は頭を抱え、ゆっくりと立ち上がる。はっきりしない脳を振るって起こし、機関車から降りた。
機関車が蒸気を上げ、整備場へと立ち去っていく。ぼんやりと渓谷の向こう側を眺めていると、どこか古臭いような、対岸の景色に驚いた。対岸にある廃旅館には灯りが灯り、雪洞の火袋の中がかすかに揺らいでいる。高低差のある旅館の屋根には暗い色の瓦が使われ、昭和よりも古めかしい看板が掛けられていた。
深い谷の下にある川の激しい水音も、普段の駅とは違う様子で、無遠慮に岩肌に打ち付ける荒々しさが、直接耳に届いてくる。
私は途端に不安になり、周囲をきょろきょろと見まわした。駅の出口が無いのである。
早く夢が醒めるように、頬を抓る。肌に感覚がまだあることに気づくと、自然と肌から色が抜けた。
私は手近のベンチに座り項垂れた。どうやら本当にきさらぎ駅というものらしい。頭を抱え、騒々しい水音に耳鳴りが混ざり始めた。
「まいごさん、まいごさん。貴方のことだよ、どうしたの?」
「うわっ」
声に気づき、顔を持ち上げる。私を見下す異様なほどぎらぎらとした瞳が二つある。思わずのけぞった私に対して、しかし敵意のないそれはむくれて言った。
「なによ、そんなに驚くことないじゃない?」
夏の熱気にそぐわない異様な厚着の女。彼女は無遠慮に私の隣に座ると、とぼけて伸びをして見せた。
異質さに表情が強張る。女から放たれる微かな冷気を敏感に肌が感じ取り、身震いが止められない。女は体をほぐすと、にかっと、八重歯を見せて笑った。
「お疲れ。まいごさんのスーツ、凄いくたびれてるよ」
私はとっさに意識を自分の服に向ける。くたびれたスーツには皺が寄り、自分の現状を表しているように思えた。
「スーツは正直ね」
彼女はそう、陽気に笑う。ひりついた恐怖が徐々に和らぎ、自分が彼女に心を許している事に驚く。女は目を弧にして首を傾げ、真冬の服装の隙間から透き通った肌色の首を見せる。夜風は彼女の冷気に従って心地良く、真夏の息苦しさは次第にほどけていった。
「そうだねぇ。なんか、疲れちゃってさぁ」
通勤途中に車内で化粧をする女性を今朝に見たが、その時に感じた異様な殺意が、自然と同情に代わっていく。普段気にも留めない不快感をふと思い出すほど、きさらぎ駅の空気は心地よい。
「貴方も伸びしてみたら?体がほぐれるよ」
「社内ではよくやってんだけどねぇ」
私は大きく伸びをする。ぽきぽきと心地よい音が鳴り、心安らぐ川音と溶け合って、緊張した筋肉がほどけた。彼女がくしゃりと笑う。蒸気機関の残り香だけが不快に感じられた。
「ねちっこい上司とかもいるんだ?」
「背が低くて、仕事が出来ない野郎が一人。あとは、顔だけで気性が荒いのが一人。こそこそ縮こまって様子を窺う、おべっか男が一人。まぁ、なんて言うか、毒も吐きたくなるよね」
彼女はけらけらと笑う。私は子供のころの癖で、脚をぶらつかせ始めていた。
懐かしいにおいがする。渓谷の向こう側で浴衣姿の客人が涼んでいる。女将がその後ろを追うように浴衣を揺らし、川音越しに銀製ライターの蓋を開ける音が幻聴された。
「いやぁ、しかし、君暑くないの?体温低いと暑いって聞くけど?」
「うぅん?よくわかんないねー」
彼女は脚をぶらつかせながら言う。私より少し低い頭が、満月を見上げている。浴衣姿の男がふかした煙が、機関車の音を幻聴させる。
「やっぱ、幽霊ってのはそういうもんかー」
私がすっかりほどけた表情で言うと、彼女はみるみる表情を怒りで満たした。
「何言ってるの?生きてるよ。怒るよ!」
「あぁ、ごめんごめん」
そうか、気づかないものか。私は急いで謝り、彼女を宥めた。彼女は頬を膨らませながらそっぽを向く。その風圧で首に当たる冷気が心地良い。
しばらく沈黙する。廃旅館の前では、女将と男が仲睦まじげに談笑している。隣からくる微かな冷気が私の体を冷やし、避暑地で過ごした昔の記憶が蘇ってきた。
少し違うがよいホテルに泊まり、両親と共に戯れながら過ごしたっけ……。そのまま、成人して、就職して、静かに両親が離婚して、思い出の縫いぐるみを抱いて一人で泣いたのを思い出した。二人の認識は自然とすれ違い、母の老後のための貯金についての話を、父が安月給だと言われた気がしたと言って、赴任先から届くメールで静かな怒りを綴ったらしい。生涯を添い遂げると考えていた母は当初酷く狼狽えていたが、今は呑気に私の家で茶を啜っている。
私の仕事もストレスばかりだが、休憩時間の同僚との上司への愚痴合戦は、最高に気持ちがいい。
私は思い立ったように、鞄から塩分補給用の飴玉を取り出す。そっぽを向く彼女にそれをすっと差し出した。意表を突かれた彼女は意外そうに口を開けて暫く黙り、そして無邪気な笑みで受け取った。
「ありがと」
その笑みを見て、私は胸が高鳴るのを感じる。それは、懐古の為の動揺だった。彼女の顔を姿見の前で見たことがある。就職当時、歯を見せて笑う練習を一人でしていたときの自分の顔だ。意外なほど、彼女は自分と似通っていた。少し太い脚、紅を入れていない薄い唇、帽子のぼんぼんが揺れるたびに顔を出す、幅の広い福耳、そして機嫌がいいと足をふらつかせる癖……。彼女は私の視線に気づくと、視線をこちらに向けて笑った。
「だから言ったじゃん。『死んでないよ』って」
纏った冷気が風に乗って顔にぶつかる。同僚と愚痴を言い合った昼休憩や、鬼教師の文句を言った昼休みの自分の「邪気のある」笑顔が蘇る。夜帰ると母親がリビングに入ってきて、キンキンに冷えたビールを頬に当てて、互いにカラカラ笑うのを思い出す。毎日の隙間に、自分の素の表情が溢れている。蒸気機関の汽笛が彼方で鳴った。
「まいごさん、まいごさん。ちゃんと大事なものに出会えたかしら?」
とめどなく涙があふれた。自分を形作る数々が、冷気を伴って押し寄せてくる。それらをかき消すように、蒸気機関車がぶぉぉ、と嘶く。
ぷしゅう。機関車は一息ついて、私を飲み込む口を開いた。彼女は私の背中を強く叩いた。
「ほーらっ。そろそろ戻らないと、また寝過ごすよ」
彼女はそう言って笑う。民法のコンメンタールを眺めていた私が、よくそのまま寝過ごしたのを思い出した。
「ふふんっ。待ち時間で読み物するからいーよ」
彼女は歯を見せて笑う。私は蒸気機関車の乗り口に足を掛け、彼女に手を挙げて挨拶をした。彼女は手を振った。
車内に入ると、目の前には普段通りのモダンな電車の内装が広がる。崩れて寝息を立てる中年も、そのままで、しかし輪郭を取り戻して眠っていた。
機関車はひとりでに扉を閉める。汽笛の音を最後に、機関車となり替わった電車が動き出した。
「……次はー、笹下中央、笹下中央‐‐お出口は右側です」
「やっば!」
ぱちりと目を開けた私は飛び起きる。電車はホームの姿を間近に捉えていた。
さぁ、そろそろお家に帰れるぞ!