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梔子色の古神  作者: ウチダ勝晃
第三章 港町・社崎にて
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港町・社崎にて その一

 傘岡市電とともに市民の足となっている私鉄・越州鉄道は、通勤客の利便性を図るべく、JRと同じ線路幅の本線用車両とは別に、市電の西傘岡線に乗り入れをするための車幅が広い車両を保有しており、朝夕のラッシュ時などにあわせて、傘岡駅と自社の停留場である西傘岡駅を結ぶ急行電車を運行していた。

 通勤ラッシュ用の最後の便である九時一分発の急行へ乗り込んだ真樹と坂東は、悠々たる足取りで武蔵川の鉄橋を超え、ニュータウンとして十年来整備中の希望が丘町にある越州鉄道・西傘岡駅で急行を降り、しばらくホーム上のひなびた軽食スタンドで時間をつぶしていたが、社崎へ向かう普通電車が間もなく到着するという構内放送を聞くと、コーヒー牛乳の空瓶を店主に渡して、そのまま三番ホームへと急いだ。

 あちこち錆の浮いた「にしかさおか」というひらがなが躍る駅名表示の前に立っていると、北の方からゆっくりと、先刻の急行と同じ色をした、もうひと回りほど大きな三両編成の電車がパンタグラフからきしるような音を立ててホームへ滑り込んできた。中から十数人ばかり、磯の香りとともに社崎からの客が出てくると、真樹と坂東は他に乗り込もうとする客が二、三しかいないのに気をかけながら、すっかりクッションのヘタったボックス席へ腰を下ろした。

 先発の長い貨物列車が空の貨車を引いて駅を出て行ったのを窓から二人が見送ると、待ちかねたように発車のチャイムが鳴り、夏服を着た駅員の持つ青い旗が風に舞うように揺れた。

 それを合図に電車が駅を出ると、二人は自分たちのいる車両に誰もいないのを幸いに、近場の窓のサッシを全開にし、木造のブラインドの隙間から入る風を顔や服の内側へ取り込んだ。今日日珍しく、越州鉄道本線の電車には冷房装置が付いていないのである。

「――この辺りまで出てくるのは、ずいぶん久しぶりな気がしますね」

 左右を水田に囲まれた突堤の上からの景色を眺めながら、坂東医師は子供のような笑みを浮かべている。眼下に広がる水田の、一区画おきに据え付けられた農業用ポンプの群れがポンポンと小型発動機特有の軽快な音を立てて水をくみ上げている中を、普通電車は小刻みに車体を揺らしながら、一本きりの線路を足早に走っている。

「傘岡出身の人間なら、小学校の遠足で一度はこの辺を通りますからね。坂東先生はどこまでお行きに?」

 カンカン帽子を飛ばされないように手で押さえながら真樹が尋ねると、坂東医師は大河内まででしたね、と答える。武蔵川から分岐して流れる、農業用水の制御点にして、県都であるN方面に貨物を送るための、越鉄最大の貨物ターミナルがある場所の名前に、真樹は社会科の見学って趣きですね、と返し、

「僕はドン詰まりの社崎港まで乗って、漁船やアメ横をのぞいてましたよ。本当に他愛もない、可愛い遠足でした」

「いいじゃありませんか、小学生はそうでなくちゃ……」

 進学校をエスカレーター式に上った坂東医師は、真樹の昔話に一種の羨望を向けながら、ブラインド越しに入ってくる風をオールバックの額に受け、影一つない周囲の光景をぼんやりと眺めていた。

 途中の大河内で貨物列車や急行列車の通過を待った他は長時間停車もなく、一時間半ほどで、電車は社崎の浜沿いを行く線路へと差し掛かった。かつてのスイッチバック式の路線跡をかすめ、三十年ほど前に難工事の末に出来上がったトンネルを抜けた途端に、あたりの風に磯の香りが混じったのを感じ取ると、真樹啓介はブラインドを上げ、細めていた窓を全開にした。眼前には、初夏の日差しを跳ね返して燦々と輝く日本海が、海鳥の陽気な鳴き声とともに真樹や坂東を出迎えているような、そんな錯覚に陥るほど悠然と佇んでいる。

「まだ目当てのものにはたどり着けていませんが、これを見るだけでも十分にこの旅には価値がありそうですよ」

「ああ、間違いない……」

 いつの間にか立ち上がっていた二人は、線路と並走する国道や、軒をつらねる住宅の隙から車窓の風景を、到着アナウンスが鳴り響くまで、食い入るように見つめているのだった。


 改札を抜け、終点・社崎港駅の白のモダン様式の駅舎から出ると、二人は予約しておいたホテルの送迎バスへ乗り込み、来た道を少し引き返す形で当座の宿・日本海荘へと向かった。平日というのに、各地から来た旅行客で宿はごった返しており、真樹はいささか、静かな港町というイメージに傷がついたような、複雑な気分になっていた。

 チェックインののち、二人は荷ほどきを済ませてから最上階の展望ラウンジで待ち合わせることにし、めいめいの部屋へと入った。道中でひどく汗をかいた真樹は、麻の背広をクーラーの風が当たる位置へ干してから軽くシャワーを浴びると、半そでのポロシャツと夏物のギャバのズボンという出で立ちで最上階へ向かった。

 他の客に交じってラウンジへ入り、陽光きらめく日本海をちょうどいい位置から見下ろせる席へ腰を下ろすと、真樹は相方の来るのを待ちながら、グラスのお冷をなめていた。

 五分遅れて、自分と同じような動きやすい格好に着替えてきた坂東医師の姿をエレベーターの方に見出すと、真樹はそっと手を振り、テーブルへと招いた。

「着替えてそのまま出ようと思ったんですが、どうも汗臭かったもので。軽くひと風呂浴びてきたんです。――やあ、これはすごい」

 遅れたことを詫びつつ、ガラス一枚向こうに広がる日本海に圧倒され、坂東医師はしばらく中腰のままで外を眺めていたが、注文を取りに来たボーイの登場に、恥ずかしそうに腰を下ろすのだった。

「――それより、これからどう動きます」

 フレッシュジュースの入ったグラスを片手に坂東医師が尋ねると、真樹はそうねえ、と腕を組んでから、

「ひとまず、圓窓寺から行きましょう。ただ、一年ばかり前に別の坊さんに代替わりをしたから、あまりこの辺の事情には強くないかもしれないが……」

「圓窓寺……というと、例の絵巻物のあったところですか」

 と、あたりを憚って、坂東医師がそっと声を上げると真樹は首を縦に振り、

「最後に来た時は、十年ばかり誰も継ぎ手がなくて荒れ寺になっていたのを気にしたご住職が越してきたばかりでしてね。元来、あの寺は人から人へ継がれてゆくさだめらしいのですよ」

「はあ、なるほど……」

 坂東医師は真樹の言葉にうなずくと、グラスに浮かべたストローをくわえ、そっとジュースをふくむのだった。


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