女神の御加護
薄暗闇の中、簡素な椅子の背もたれを抱くように座る1人の女性が居た。汚れ一つ無い純白のドレスから伸びる陶器のように白い足は椅子を挟み込み、燃えるように赤い艶やかな長髪は、彼女の体を覆うように床へと垂れている。
その整った顔立ちと抜群のプロポーションは、一体どれだけの男性を虜にしてきたのだろうか。
しかしそれほどの容姿を持ちながら、何故か彼女の瞳は虚ろで、焦点が定まっていないようにも見える。その目が見つめる先には暗闇が……いや、暗闇の中にぼうっと浮かび上がる、此処とは違う場所の映像。
その映像に映し出されていたのは、鎧を纏った何百という兵士が、無抵抗の人を次々に惨殺していく凄惨な光景。
剣で、鈍器で。時には兵士達の手から放たれる超常の力で。あらゆる手段を用いられ、逃げ惑う人……亜人は、抵抗する事すら許されないまま葬られていく。
中には農作業に使われるクワやスコップを手に、家族を守らんと立ち向かう亜人も居たが、抵抗虚しくその命は簡単に刈り取られてしまった。
亜人が住む集落は瞬く間に血の色で真っ赤に染め上げられ、今も尚殺戮の限りが続いている。
「……」
その光景を、彼女はただジッと見つめている。目を覆いたくなるような光景を、悲しむでもなく、怒るでもなく、まして面白がるでもなく、ただ只管に見つめていた。
ふと、暗闇の中に声が響く。低い男の声だ。
「酷い顔だな、アリス」
「……?」
微動だにする事のなかった彼女――アリスの体が、背後から聞こえてきた声にようやく動きを見せた。気怠げに上体を起こし、肩越しに振り返って声の主を視認する。
それも一瞬。なんだお前かと言わんばかりに、アリスは直ぐに体勢を元の状態に戻して、ため息をひとつ吐く。
「おいおい、人の顔を見るなりため息とは随分じゃないか。挨拶のひとつくらい、あって然るべきじゃないかな?」
「開口一番女性の顔を酷いと宣う輩に挨拶など不要と私は思うわけだけれど、それについて何か反論はあるかしら? 暇人男さん」
「これは失礼」
暗闇の中で男が肩を竦め、1歩2歩とアリスに近付いてくる。暗さ故に不鮮明だった男の姿も、映像から漏れ出る光に近付くに連れてハッキリとしたものになった。
アリスのドレス姿とは違い、白のTシャツに黒い長ズボン、極めつけは裸足にサンダルという、何ともラフな姿をした金髪の男性だ。一つだけアリスとの共通点を上げるとするならば、やはりその容姿だろうか。
まさに理想とも言える男らしい体格に、この世のものとは思えないほど整った顔立ち。これには世の女性も黙ってはいまい。
アリスの隣まで歩みを進めた男は、視線をアリスから目の前の映像に移す。
「しかし暇人男とは酷い言い草だ。君だって僕の事は言えないだろう? 飽きもせず下界を見続けて数百年。
そんなに楽しいのかい? この醜い争いが」
「自分で酷い顔と言っておいて、今の私が楽しそうにしてるように見える?」
「ふむ……内心では、というオチかな? 君は本心を隠すのが上手いからね」
「消し飛ばされたいならハッキリそう言いなさい」
「はは、怖い怖い」
横目でギロリと睨み付けるアリスの気迫は、常人であれば竦み上がる程の迫力を有していたが、男は何て事は無いように笑って流してしまう。
アリス本人も本気ではなかったようで、直ぐに視線を戻して再びため息を吐いた。
険悪そうに見えるものの、2人の間に嫌悪感といった物は感じられない。これが普通、これが常、という事なのだろう。
「楽しんでいないとするなら、尚更解せないね。興味心……という訳でもないだろう?」
「私は待ってるのよ」
「待つ? 何を――」
「ねぇ、ロア。貴方はこの光景を見て、その胸中に何を抱いてる? 何を思う?」
男――ロアの言葉を遮り、ほんの少しだけ期待を込めた瞳で、アリスが問いかける。それを怪訝に思いつつも、ロアは特に深く考えるような事はせず、淡々と自らの胸の内を語った。
「何も。下界に住まう者達が何をしようと、僕は何とも思わないね。何かを思ったところで、どうせ僕達からの直接干渉は禁止されてるし、考えるだけ徒労さ。
ああ、強いて言うなら、人が作る服などは興味深いか。
ふふ、今着てるこれも、とある世界に住まう人間達を真似て作ってみたんだ。これがなかなかどうして着心地が良い。君もたまにはドレスばかりじゃなくて、別の物を着てみたらどうだい? せっかくの美貌なんだ」
「……そ。貴方に聞いた私が馬鹿だったわ。それと余計なお世話よ」
「聞いておいて酷いな」
「じゃあ質問を変えましょう。貴方は人間が好き?」
「先も言った通り、人間の作る物に興味はあれど、人間そのものに関心はないよ。どんな人間でも、ね」
「あらそう。安心したわ」
僅かに口角を上げて笑みを浮かべるアリス。そんな彼女の様子と質問の意図が理解できないのか、ロアは怪訝そうに首を傾げた。
「んん? どうも分からないね。何が言いたいのかな? アリス」
「言ったでしょ、安心したって。人間に対して関心も愛着も無いのなら、私がこれから何をしようと、貴方の琴線に触れる事はないと分かったんだもの」
アリスの言葉とただならぬ気配。すぐにそれを察知したロアは、自身の頭の中に嫌な予想が浮かび上がってくるのを感じた。優しげだった雰囲気から一転、ロアの表情が途端に険しい物へと変貌する。
「アリス、僕達から人間に干渉する事は禁止されている。破れば此処を追放されるどころか、もっと酷い結末が君を待っているだろう。
それは君自身もよく分かっていると思うが?」
柔らかな口調は消え去り、アリスを見つめるロアは見るからに不機嫌そうだった。だが、そんなロアの様子に、当のアリス本人は不敵に笑うばかりで特に反応を示さない。
「信用ないわね。まだ何も言ってないじゃない」
「アリス、僕も馬鹿ではない。友が何をしようとしているのかくらい、察する事はできる。
早まるな。君は死すべき存在ではない」
「勝手に殺さないでちょうだい。死ぬ気なんて毛頭ないわよ」
「であれば!」
「ロア」
「っ!?」
優しげに自分の名を読んだアリスに、ロアは思わず口を噤む。いつしかアリスの表情は満面の笑みで、しかしその瞳はこれっぽっちも笑ってなどおらず。
「もう遅いわ」
その一言が意味するもの。それは何か。ロアは口元を片手で覆い、数瞬の間思考を巡らせる。
だが答えは出ない。アリスの言葉から察するに、彼女が人間達に対して何かをしたのは確かなようだが、それが何なのかが分からない。いや、そもそもアリスが人間達に手出しなど出来るはずがないのだ。
アリスとロアは人ではない。陳腐な言葉を借りるなら、彼女達は神だ。絶対的支配者であり、人間達がどう背伸びしたところで辿り着くことの出来ない至高の存在。それがアリス達だ。
そして、そんな神々の間には1つの決まり事がある。
神は、世界に直接干渉してはならない。
この決まり事を破れば、ロアの言う通り、その神は酷い結末を迎える事になるだろう。
では、アリスはそれを覚悟した上で何かをしたのではないのか? と、そこまで考えたところでロアは頭を振った。
それもありえない。アリスは言っていた、死ぬ気などないと。少なくとも、ロアが知るアリスは自分に嘘をつかない。ならば、その言葉は真実であると信じられる。
では何を? アリスは何をした?
「君は、何をしたんだ……?」
「ロア、私は貴方とは違う。私はね、人間達が憎くて憎くて……ぶち殺して、すり潰して、切り飛ばして、細かく砕いて家畜の餌にしてしまいたい程に、大嫌いなのよ」
「……アリス、その感情は間違っている」
「そうかしら? 無関心でいるより、ずっと有意義だと思うけれど」
あまりに非情なアリスの発言。ロアは片手で頭を抱えるように項垂れた。
「百歩譲って君が人間達に関心を向けている事には目を瞑ろう。事実、ずっと前から、君にはそういう傾向があったからね。
だが、その頃の君は……今とはまるで違った筈だ。どちらかと言えば、人間達に対して友好的で、慈愛に満ちていただろう? それが今では殺したいと思うほどに憎んでいる。
いったい何が君を変えてしまったんだ?」
「私が変わった? それは見当違いよロア。私は何も変わっていない。変わったのは私ではなく、人間よ」
「人間が?」
「貴方は人間に関心がないのだから、気付く筈もないわね。
そう、少なくとも数百年前までの人間は、こんなにも私を不快にさせる事はなかった。何の力も持ち合わせず、弱い存在なりに他種族と手を取り合って必死に生きている姿は、眩しく見えたほどよ。……ほら、見なさい」
気怠そうに右腕を伸ばし、アリスは目の前の映像を力無く指差す。映像の中では、両足を切り落とされ、頭から夥しい量の血を流した少女が、必死に這いずる姿が映し出されていた。
「力を持ったが故に、人間達は今まで協力関係にあった他種族を不要と裏切り、その命を刈り取っている。抵抗する術もない子供でさえ、この有様よ。
こんな光景を見せられてまで、私が人間達に慈愛を向け続けるとでも? ハッ、反吐が出るわね」
「……」
右腕をダラりと下げ、顔を伏せたアリスの表情は伺い知れない。しかし、アリスから溢れ出る怒気が、彼女がこれ以上ない程に怒っていると物語っていた。
そう、彼女は怒っている。このような非道を働く人間達に対して。そして何よりも、こんな存在に一時は慈愛の心を向けていた自分自身に。
ふと、映像の中から、か細い声が聞こえてきた。
「かみ……さま……」
映像に映っていた少女が、石の塊に体を預け、ぽつりぽつりと呟き始める。死に瀕しているというのに、その声音は未だ死んでおらず、希望の色を孕んでいた。
アリスはそんな少女を見つめる。いや、少女ではない。正確には少女が体を預けている石の塊に意識を向けている。少女の言葉を淡々と聞き続け、祈るように両の手を握り締めるが、それもやがて、少女が人間の剣で貫かれると、ため息と共に解かれた。
「やはり、まだなのね。私が思っている以上に損傷が激しいのか、修復が遅れているのか……定着し切れていないのか。いずれにせよ、まだ眠りの時、ね」
露骨にガッカリとした様子だ。椅子の背もたれを再び抱くようにして項垂れ、本日何度目かも分からないため息を吐く。
「待っていると、君は言っていたね」
「そ、待ってるの。目覚めを」
「それは、今君が見ていた……あの石?」
「ええ。とは言え、まだ覚醒の日は遠いみたいだわ。残念だけれど、こればかりは待つ事しか出来ない」
「あの石が君の一手というわけか。ふむ、確かに不思議な力を感じるが、あれは一体なんだい?」
「んー……そうね、代行者とでも言うべきかしら。かなりの寝坊助さんだけれど」
アリスの言葉を聞き、顎に手を添えてロアは考え込む。アリスの言動と、映像に映る何の変哲もない石の塊。
損傷、修復、覚醒。気が遠くなりそうな長い時間の間、只管に待ち続けてきたアリス。これらを判断材料に、ロアは直ぐに結論に行き着いた。
「代行者……なるほど、読めてきた。僕達が禁じられているのは人間達、いや世界への直接干渉。禁を破れば自らの破滅。
ならば、それを回避した上で世界に干渉するには? 至極単純だ。自分以外の者に代行を頼めばいいと、そういう事だね?」
「あら、理解が早くて助かるわ。それで? まだ私に言いたい事は?」
「いや、無い」
あんまりにもあっさりと返答され、ジト目でロアを見ていたアリスは「はぁ?」と間抜けな声を漏らす。そんな彼女を見て可笑しそうに小さく笑みを浮かべ、ロアが語り始める。
「僕が心配していたのは人間達や世界ではなく、友である君だ。君の命が危うくなるのであれば、僕は他の何を犠牲にしようとも君を止めただろう。
だが、その心配は要らないというのなら話は別だ。むしろ協力を惜しむべきではないと思うが、君はどう思う?」
こんな美青年に優しげな微笑みを向けられながら、ここまで言われて何も感じない女性がいるだろうか? 恋とは言わないまでも、何かしらの好意的な感情は抱いて然るべきだろう。
がしかし、言われた本人であるアリスは頬を染める事はおろか、嬉しそうな素振りすら見せず、露骨に胡散臭そうにロアを見るばかりだ。何なら引いてすらいた。
「うーわー気持ち悪い。何企んでるのよ気持ち悪い。どうしようもなく気持ち悪いわ、吐いていい?」
「あのね、僕だって傷付きはするんだよ?君はもう少し僕を信用してもいい気がするんだよね。泣いちゃうぞ?」
「泣きなさいよ。他の神達に実況付き生中継でお届けしてあげるから」
「よく言われないかい? 君は女神の皮を被った悪魔だと」
「誰彼構わず愛想振りまく可愛くて美しいだけの女神ちゃんなんてこっちから願い下げよ気っ色悪い。だったら私は可愛くて美しい自由気ままな悪魔でいいわ」
「可愛くて美しい部分は譲らないんだね。君が神である事をこんなにも不安に思った事は無いよ」
「あら奇遇ね。私も自分が神に相応しいと思った事なんて無いわ。たまたま神として生まれたから、その力を利用して好き勝手やりたいと思ってるんだから、神らしくないと言われればぐぅの音も出ないでしょうね」
「はぁ、ホントに君という女神は……」
「……」
「……」
しばしの沈黙。しかしそれも、同時に溢れ出た小さな笑い声によって破られる。
「「ふふ」」
それを合図に、動きを見せなかったアリスがついに椅子から立ち上がった。凝り固まった体を解す為にググっと伸びをひとつ。気合を入れるように両の手のひらで自分の頬をバチンとひと叩きする。
それからなんの前触れもなく、今まで自分が座っていた椅子をロアめがけて蹴り飛ばした。
突如として飛来したそれを、ロアは特別驚いた様子を見せる事もなく、軽々と掴み取り床へと置いてみせる。いきなりの暴挙に文句の一つや二つ言って良さそうなものだが、ロアは笑みを浮かべるばかりだ。
「協力を惜しむべきではない。他ならぬ貴方が吐いた言葉よ」
気持ち悪いだなんだと口にしていたアリスではあったが、その実、ロアの事に関しては端から端まで信用していた。彼女も子供ではない。それどころか神だ。永遠を生きる超常の存在だ。
何千年と生きてきた中で、信頼できる人物の選定くらい既に終わっている。飾り気のない本音で話すアリスの姿こそが、最大級の信頼の証なのだから。
「手始めに、監視の交代と言ったところかな?」
「ふあ……ぁ……ご明察。私は部屋で久々の惰眠を満喫する事にするわ。ま、何か動きがあったら叩いてでも起こしてちょうだい」
小さな欠伸をひとつ。あとおねがーい、とでも言いたげにヒラヒラと手を振りながら、暗闇の中へと歩みを進めていく。
そんなアリスを見送りつつ、チラリと映像を見たロアの目元がピクリと動いた。
「……どんな些細な事でも?」
アリスの姿は段々と暗闇の中へと溶けていき。
「そうねー。気になる事があれば何でもいいわよー」
ついには一体化。純白のドレスの一端すらも闇へと消えた。
「……アリス」
ロアの呼び掛けに返答は無い。だがアリスの気配を感じる故に、彼女はまだこの空間に居るはずだ。返事をしないのは、眠気による疲れか、単に面倒くさく感じているからか。
いずれにせよ、アリスがまだ此処に居るのならロアは伝えねばならない。今まさに映像の中で変化が起ころうとしている事を。
ふと暗闇の中に声が響く。アリスでもロアでもなければ、先程の少女ですらない。機械的な女性の声が。
『銃骨格起動。守護対象及び殲滅対象を確認。現在初期状態を維持中。搭乗者に判断を委ね、戦闘状況を開始しますか?』
「銃骨格? アリス、これは――」
「……ぉぉぉぉおおおおおオオオオ゛オ゛オ゛ッ!!!! ダバァッ!!?」
「……何をしてるんだ君は」
暗闇の中へと溶けて行ったアリスが、女神とは思えぬ形相と声を上げながら全速力で引き返してきた。その際、ロアの隣に置かれた椅子に足を引っかけ、盛大に顔面から転倒。これにはロアも口元を引くつかせる。
しかし転んだダメージも何のその。アリスは直ぐに立ち上がり、食い入るように映像を凝視した。たとえ鼻から赤い液体が流れ出ていようと、おでこを擦りむいていようと関係ない。そんな物にかまけてる暇などあるものかと、アリスは目の前の映像に夢中だった。
「来た……来た来た来た! ついに! この瞬間が!!」
「えーっと、まぁアリスが待ち望んでいた瞬間が訪れたのは喜ばしい事だけれど、まずは鼻血を拭いたらどうだい?」
「そうね! はい拭いた! ロア! 貴方ホントに運がいいわよ! こんな場面に立ち会えるのだから泣いて感謝しなさい! ほら泣け!」
「ええー」
手の甲でグイッと鼻血を拭きあげ、綺麗になるどころかもっと酷くなったアリスの顔。可愛いやら美しいがどうのと言っていたのは何処の誰だったかと、ロアは苦笑いを浮かべる。
『アリス様、指示を』
「とぉー! そうねそうだったわね! 初期状態なんて生ぬるい! 一部リミッターを解除して戦闘特化へ移行! 搭乗者の判断? 知るかそんなもん! こっちは気が遠くなるほど長い時間を待たされたのよ! だから好き勝手させてもらう! 徹底的に! 一匹残らず! 人間共を皆殺しなさい!!」
『要請受諾。戦闘行動を開始します』
「あっははははははは!!! さーて楽しくなってきたー!!」
トントン拍子に進む目の前の光景に、1人蚊帳の外状態になっていたロアは楽しそうなアリスの横顔を見て思う。
「(やはり悪魔の方が余程似合うよ、君は)」
女神アリスの悪魔の如き笑い声は、暫く止むことはなかった。