監視者
早めの更新です。
亜人達の馬車が停まってから暫くの時が過ぎた頃。各々がミヤから説明を受けて現状況を把握していく中、ただ1人……ランプさえ吊るされていない馬車内で、少女の骸を見つめていたのはウルカだった。
丁寧に応急処置を施された自らの手を伸ばし、冷たくなってしまったアネラの頬を優しく撫でさする。死んでいるのだ、反応を示すはずも無い。だが何かを期待するように、ウルカはアネラを撫でるのをやめようとはしなかった。
「……」
"あ! ウルカお姉ちゃんだ! おかえりなさい!"
"見て見て! お守り作ったの! ウルカお姉ちゃんを守ってくださいって、神様にお願いしながら編んだんだよ!"
こうしていると、自然と思い出が蘇ってくる。アネラと過ごした、長いようで短い、そんな何でもない時間が次々と浮かんでは消え、その度にウルカの心は抉られるように痛め付けられる。
手を戻し、今度は自身の首元へそっと指を這わせた。そこにあるのは、首から掛けられたボロボロの首飾り。お世辞にも綺麗とは言えない麻で編み込まれたそれは、他ならぬアネラからの贈り物だ。
卓越した強さを有しているウルカも完璧な存在ではない。窮地に陥った事だって両手の指では数え切れないくらいあるだろう。
そんな最中でも、常に自分を勇気づけてくれたのは、この首飾りだった。
自分を本当の姉のように慕ってくれる小さな女の子。またその顔を見る為に、ウルカはどんな状況でも生き延びてきた。これからも、そうであり続けようと誓っていた。
だが、現実はあまりに非情だ。こんなにも呆気なく、最期を看取る事すら出来ないまま……少女は死んでしまった。
悲しい。いっそ泣き崩れて、無様に叫びたい。アネラの体を抱き締めて、守れなかった事を謝りたい。そうしたいのに……何故だろうか、ウルカの瞳から涙が零れ落ちる事は終ぞ無かった。
「もう、お前の声を聞けないのか」
ポツリと呟くウルカに応えてくれる存在は居ない。
「ああ、なんだろうな。何故、泣けないのだろう。戦う事に依存して、ついに感情すら無くしたか? こんな自分に腹が立つよ。
アネラ、お前はこんな私を嫌うだろうか。ダメなお姉ちゃんですまない……いや、そもそも私は姉ですらなかったな」
今一度アネラの頬を撫でる。やはりそこに温もりは無い。どこまでも冷たくて、暗い。眼前に広がるのは明確な死の姿。
胸にポッカリと穴が空いたような気分だった。まるでその足りない部分を埋めるように、ウルカの手は優しくアネラを撫で続ける。
どれだけの時間をそうして過ごしていただろう。不意に、ギリッと何かが軋む音が馬車内に響き渡る。
それは他でもない、ウルカが怒りに顔を歪めて歯を食いしばる音だ。悲しみを塗り潰すように、内から燃え上がってくるのは確かな怒り、憎悪。
「お前を殺した奴は何処に居る。いや、おそらく既に死んでいるか……あの銃骨格とやらが無意味に見逃すとも思えない。
だとしたら、この怒りは何に向ければいい? なぁ、アネラ。私は――」
「取り込み中のとこ邪魔するぞ」
「……エルディオ」
背後からの声。手を引っ込めながら振り向けば、そこには真剣な顔でこちらを見るエルディオの姿があった。
「なんて顔してんだよ。視線だけで誰かを殺すつもりか? 怖ぇっつの」
「……はっ。それが出来たらどれだけ楽だろうな。叶うなら、そうなりたいものだ」
「やめろ恐ろしい。……どんな様子だ? アネラは」
「余程惨たらしく殺されたのだろうな。片目は潰され、両足も無い。オマケに胸には大きな刺し傷だ。
本当に……あぁ……本当に――」
「姉貴?」
不自然に言葉を切ったウルカは顔を伏せる。薄暗い中という事もあり、その表情を窺い知ることは出来なかった。分かる事といえば、その肩が小さく震えている事くらいか。
あの強かな姉が悲しみに震えている。無理もない……そうエルディオが感じた瞬間。伏せられていた顔が上げられ、そこから覗く双眸にエルディオは思わずたじろいだ。
悲しみ? 馬鹿を言うな。そこにあるのは底知れぬ憤怒だ。
「誰でもいいから殺してやりたい気分だ……! 人間なら尚良しだな。エルディオ、今すぐ人間を攫ってこい。誰だろうが構わない。私に殺させろ。アネラと同じ苦痛を味わってもらうとしようじゃないか」
気でも触れたか。とんでもない事を言い出すウルカに、弟であるエルディオすら冷や汗を流す。今のウルカは確実に冷静さを欠いている。
一言で言うなら、何を仕出かすか分からない。
言葉は慎重に選ばなければならないだろう。下手な事を言えば、今にも実の姉に襲われてしまいそうだ。それ程までに、ウルカが撒き散らす殺気は凄まじいものだった。
「落ち着け馬鹿姉貴。今そんな事したりしてみろ。ただでさえ微妙な立場になってるミヤちゃん達に余計な危険を振り撒くことになるんだぞ。
姉貴だって、そんな事は望んじゃいないだろ? それとも、せっかく生き残った皆を自分の身勝手な復讐心に巻き込みたいのか?」
「どうだっていい。それこそ今は銃骨格が居る。多少の危険を呼び込んだ所で対処は容易だろうが」
「かもな。だけど、その銃骨格が居ないから全力で止めてんだ馬鹿」
「は? 居ない……? おい、それはどういう事だ」
「やれやれ、何とか戻ってきたか。焦らすなよまったく」
彼が居ない事を知らされると、痛い程に放っていた殺気は瞬く間に霧散していった。抱きしめていたアネラの骸をそっと横たわらせて立ち上がり、とても怪我人とは思えない身のこなしで軽やかに馬車から飛び降りる。
「どういう状況だ。まさか逃げ出したとでも?」
「いやそうじゃねぇ。道中にウェアウルフの痕跡が見つかってな。このまま進むのは危険だって事で、今は全馬車待機中だ」
「ウェアウルフだと? そんな小物をわざわざ警戒する理由は無いだろ」
「姉貴基準で考えるなよ。人間より劣るとは言え、ミヤちゃん達にとっちゃ十分過ぎる脅威だろ。それにミヤちゃん曰く、潜伏してるウェアウルフは変異体だ」
「……なるほど。この辺りはウェアウルフの生息地じゃない。だからこそか」
「理解が早くて助かるね。その頭の回転を感情の制御にも回して欲しいぜまったく」
「お? 喧嘩なら買うぞエルディオ」
「そういうとこ直せっつってんだよ馬鹿」
ため息をひとつ。この姉は何をどう言い聞かせたところで直りはしないのだろう。きっと生まれ持った性質だから、もう諦めてしまった方が懸命なのかもしれない。
人知れず姉の更生を投げ捨てたエルディオは、親指で後方を指差した。
「ミヤちゃんがお待ちだぜ」
「ん、そうらしい」
エルディオの肩越しに見れば、そこには亜人達に指示を飛ばしているミヤの姿。どうやら如何なるイレギュラーが起きても迅速に対応できるよう、男達を配置に付かせている真っ最中らしい。
こんな状況でもなお気丈に振る舞い、その瞳には怯えの色も無い。
その姿に、ウルカは自身の胸の内が痛むのを感じた。そして同時に己を恥じる。
確かに自分は、妹のような存在であったアネラを失ってしまった。その悲しみは言葉では言い表せない程に深いものだ。……だがミヤはどうだろう?
ミヤにとって、あの集落に居た全ての亜人が家族のようなもの。かけがえの無い存在だった筈だ。
そんな存在を理不尽に奪われ、集落を追われ、心身共に疲弊しているであろうミヤに今また困難が襲いかかろうとしている。
本当は立ち止まって泣きたいだろうに、自分が感じている悲しみより余程重い物を感じているだろうに。それでもミヤは長としての務めを果たそうとしている。
誰よりも傷付いている筈なのに。
「強いな、ミヤは」
自分より何倍も傷を負って尚前を向き続ける者を前に、いつまで女々しく塞ぎ込んでいるのか。今すべき事は何だ? 決まっている。
未だじんわりと痛む両手を握り締め、ウルカは歩き出した。
「何かあれば直ぐに儂かナガレに知らせよ」
「はいっ!」
「……ふぅ。やれやれ、これで一先ずは良しじゃな」
「一難去ってまた一難だな、ミヤ」
「おおウルカ。しっかりと治療は受けたみたいじゃな。まだ休んでいたいじゃろうが、少し事情が変わっての。暫し力をむぐ……何すんじゃいきなり」
「んー? まぁ少し我慢しろ」
ウルカの歩みはミヤの前では止まらず、そのまま歩を進めて何事かを頼もうとしてくるミヤへと接近。そのまま両の手で抱き締めた。
こうしてみて改めて感じるミヤの小ささ。少し力を込めれば壊れてしまいそうな肩に、一体どれだけの重責がのしかかっているのだろう。
潰れず、めげず、諦めない。体は小さくとも、心の大きさは自分とは比べ物にならない。
まぁ、たかだか数十年生きただけの自分が、気の遠くなるような時を過ごしたミヤに適うはずも無いがな。と、ウルカは人知れず小さな笑みを浮かべたのだった。
「ミヤは、アネラの最期を看取ったのか?」
「っ……いや、儂が見た時には既に事切れておったよ」
「そうか」
「その、大丈夫か?」
「ん? ああ、その言葉はさっきまでの私に掛けてやってくれ。今は平気だ。頑張っているミヤを放ってしょぼくれていては、逝ってしまったアネラに怒られてしまいそうだしな。
ミヤ様を困らせたらウルカお姉ちゃんでも許さないぞー! なぁんてな」
「カカカっ。確かに言いそうじゃな。……で? いつまでこうしておるつもりじゃ?」
たっぷりと抱擁を交わしてしばらく。周りは他の亜人達。抱き締められたままでは流石のミヤも気恥しいのだろう。と、普通ならば思う所ではある。
だが他の亜人達はミヤ達の様子を見ながら、微笑ましさとは程遠い、何やらアワアワと焦るような表情を浮かべるばかりだ。それに気付き、はて? と首を傾げるウルカは肝心な事に気付かない。
ミヤの顔色がみるみるうちに青ざめ始めている事に。
「し、正直、このまま全身の骨を折られるのではないかと気が気でないのじゃが……こんな最後は嫌じゃぞ」
訳の分からない事を言い始めるミヤに、ようやくウルカがその表情を確かめる。
「どうしたミヤ? 今にも死にそうだな」
「死にそうになってんだよバカ姉貴!」
「おぶっ」
ウルカは強い。獣人の中でも卓越した実力者と言っても過言ではない事は間違いない。それ故だろうか、どうやら彼女は力加減というものを知らないらしく、今現在もそれを遺憾なく発揮している真っ最中であった。
有り体に言えば抱き締めとは名ばかりの締め上げに、今にもミヤの体はポッキリと真っ二つに折られかけていたのである。
こんなバカらしい事で亜人の長を失ってたまるかと、ここで背後よりエルディオからの鋭い蹴りが一閃。不意をついた効果も合わさり、ウルカの体はアッサリと吹き飛ばされた。
「ったくホントにこの姉は。ミヤちゃん大丈夫か?」
「お、おぅ……これくらい何ともないぞ〜。か、カカカ」
「膝ガックガクなのに強がるなよ」
やっと解放され、産まれたての子鹿のようにガクガクと膝を揺らしながらも、ミヤはサムズアップでエルディオに応える。
力のあるミヤではなく他の亜人だったならば、きっと今頃は悲惨な事になっていたに違いない。無論そこにナガレは含まれない。
蹴り飛ばされたウルカといえば、モロに受けたとは思えない程ケロリとした様子で仁王立ちだ。
「おいエルディオ。本気で蹴っただろ、加減をしろ」
「どの口が言ってんだ筋肉ダルマ。それに、その程度はダメージにもならねぇだろうが」
「忘れたのか? 今の私は手負い。つまり怪我人だ」
「それこそどの口が言ってんだ。素直に治療しようとしなかった奴が今更バカ言ってんじゃねーよ」
「ほう? やるか? 喧嘩なら買うぞ?」
「もう面倒くさいこの姉っ!!」
色々と手のかかる姉に両手で顔を覆って嘆く弟の姿は、まるで素行の悪い子供を見る親のようだ。実際ウルカの素行は褒められたものではないが。
このまま一悶着起こりそうな雰囲気の中、不意にパチンと可愛らしい音が響く。その音の出処は、両の手を叩き合わせたミヤだ。
2人の視線が自分へ向くのを確認し、わざとらしく咳払いをひとつ。
「おっほん。まぁそこまでにしておけ2人とも。今はゆっくりじゃれている場合ではないのじゃ」
「そりゃ分かってるけど、まだ膝が笑ってるぞミヤちゃん」
「そこには触れんでくれ……」
「そういえば、エルディオから聞いたぞ。私を待っていたと」
「うむ。今何が起きておるのか、それも聞いておるか?」
「ウェアウルフ、だろう?」
「然り」
ようやく話のできる雰囲気に落ち着いた所で、ミヤの表情が真面目なものへと変わる。必然、ウルカとエルディオも表情を引き締め直した。
「変異体と聞いたが」
「まず間違いないじゃろう。儂なりに考えた結果、一時的に移動を停止。脅威の排除を最優先とした」
「討伐隊の編成は? 変異体とは言え私とエルディオなら余裕の相手だと思うが」
「既に手は打ってある。お主達は此処に留まり、不測の事態に備えてほしい」
「仕事が早いな。……ん? そういえば、エルディオからアイツは居ないと聞いたが、まさか」
「ああ。彼奴にはウェアウルフの討伐を一任した。儂等は彼奴が戻ってくるまで此処を守る。それが役目じゃ」
「……そう、か。うーん」
「どうしたのじゃ?」
現状況を聞かされて理解はしたし納得もした。だが、何か解せないと感じたウルカが深く考え込む。
「いや、私の考え過ぎかもしれないが」
「構わぬ。聞かせてくれ」
「ミヤ達は集落を追われて逃亡の身。追っ手が居るかも分からないこの状況で一刻も早く別集落へ辿り着きたい……で合ってるな?」
「うむ」
「そんな状況でウェアウルフの変異体という絶妙な足止め。悪い事は重なるとは言うが、出来すぎていると思ってな」
「まさか、これが故意的なものじゃと?」
「あくまでも私の勘ではあるがな」
「……お主の勘は当たるからのぅ」
所詮は勘。信じるバカなど居よう筈もない。
くだらないと一蹴するのは簡単だが、ことウルカの勘に関しては軽視してはならないとミヤは知っていた。
実際、昔からウルカの勘は恐ろしい程に的中してきたのだ。今日はエルディオが足の小指をぶつける気がする、ミヤの頭にデカいタンコブが出来そう、なんてバカらしい勘も当てて見せた程だ。
もはや予言の域に近く、ウルカを知る者であれば誰もが信じるだろう。
そのウルカが不吉な事を言っている。ただそれだけでミヤは冷や汗を流しながら頭を押え、エルディオは足の小指を庇う。
もし当たっているとするなら、この足止めは偶然などではなく何者かの仕業という事になる。無論それはミヤ達にとってマイナスにしかなり得ない。そんな状況をわざわざ作り出す……つまりそれは、その何者かが敵である明確な証拠だ。
「あ、そういえば」
ここでエルディオが何かを思い出したように声を上げた。
「何じゃ?」
「あーいや、ミヤちゃんと姉貴がアイツに運ばれてた時の話なんだけどさ」
「う゛っ」
余程思い出したくないのか、その話題を上げた途端に何かを我慢するようにミヤが口元を抑える。どうやら完全にトラウマになっているらしい。
「俺だけ置いてかれた後、妙な視線を感じたんだよ」
「視線だと? 人間か?」
「たぶん違う。人間だったら明確な敵意とか殺気を感じる筈だからな。とは言え動物でもねぇ。あの気持ち悪い視線、今までで初めて――っ!!!?」
気味の悪いものを感じながら語るエルディオが言葉を切り、只事ではない様子で振り返った。あちこちに目を配り、一気に戦闘態勢へと移行する。
いきなりの奇行に2人はポカンとした様子だ。が、弟の異変にいち早く気付いたウルカが小さく舌打ちをひとつ。
「チッ。自分の勘の良さを呪ってしまうな」
「ど、どういう事じゃ?」
「異常発生って事だろうさ」
そう言うウルカも、その異常が何なのかは分からない。おそらくこの場で分かっているのはエルディオだけだろう。
彼は獣人の中では特に気配といったものに敏感だった。遠く離れた人間の気配、視線、殺気、あらゆるものを察知する特異とはまた違った天性の能力。
今まさにエルディオが感じていたのは視線だ。しかも、一つや二つどころではない。そこら中に視線の主が居る。何の前触れすら無く、これだけの数が一斉に現れたのだ。
「ふざけんな……今の今まで何も感じなかったのに、何でっ……!」
エルディオは戦慄する。己の気配察知能力には相当な自信を持っていたのに、それを鼻で笑い飛ばすかの如くソレらは現れた。一切の気配すら感じさせずに。
「おいエルディオ。何が起きてる」
「さっき話した視線。そこら中から感じやがる!」
「なっ、ば、馬鹿な! 既に囲まれておるというのか!? 何かの間違いではないのかエルディオ!」
「この気持ち悪い視線、そう簡単に忘れるかよっ!」
後手に回った上、完全に包囲されている。逃げ場なし。あまりに突然過ぎる窮地に、エルディオの声音は自然と荒々しいものへと変わっていった。
しかし、 焦っているのはエルディオとミヤを筆頭に、不穏な空気を察した周りの亜人達だけであり、不思議とウルカだけは冷静だ。辺りをグルリと見渡し、落ち着いた様子でスンスンと匂いを嗅いでいる。
「確かに、その視線の主は人間ではないな。奴等の匂いは一切感じられない」
獣人というのは鼻が利く。たとえ巧みに匂いを消したとて、そこから僅かに漏れ出る匂いを嗅ぎ分ける事など獣人にとっては造作もない事だ。だからこそウルカは断言した。
辺りに潜伏しているという視線の主達は、人間ではない何者かだと。
「しかし妙だ。辺りから嗅ぎ取れるのはミヤ達亜人と動物の匂いだけ。エルディオの言う視線の大元が感知できない」
「な、なんじゃいエルディオ! こんな時にタチの悪い冗談ではなかろうな!」
「んな趣味の悪い真似、この状況でするかよ!」
気のせいでは決してない。何度問おうがエルディオは断言するだろう。視線は今も尚エルディオ達へと注がれ続けている。動かず、ただただジッと息を潜めて。
「嗅ぎ漏らしたか? いや、そんな筈はない。やはり動物の匂いしか感じ……待て、動物だと?」
ハッと、ウルカが何かに気付いた。
辺りに漂っているのは亜人と動物の匂い、それは間違いない。問題はその匂いの強さだ。
普通、野生の動物というものは何かしらが近付けば警戒して逃げるものである。それが草食動物であれば尚更距離を取ろうとするだろう。
その常識が今、崩れている。
漂う動物の匂いが強過ぎる。一頭二頭どころの話ではなく、ミヤ達をグルリと囲む形であらゆる動物が森の中に潜んでいるのだ。
気のせい? それこそ否。夜目が利くウルカが匂いの元を辿り目を凝らして森を見つめれば、木々の間からこちらを観察するように留まる動物達。
これだけの亜人が密集している中、警戒心の強い動物達が、ただの一頭もその場から離れようとせずに留まっている。ありえない事だ。
ならば視線の正体は動物か? いや、エルディオは動物のものではないと言っていた。
しかし現状、どれだけ目を凝らしても動物以外の存在を確認できない。この視線の主が動物でないとするなら一体なんなのだ?
いや、そもそも。コイツらは本当に動物だろうか?
「……試してみるか」
ポツリと呟いたかと思えば、次の瞬間、ウルカから凄まじい殺気が放たれた。敵味方関係なくぶちまけたそれは瞬く間に辺り一帯を支配する。
確実に周りの動物達すべてを巻き込んだ……筈なのだが。
「ありえない。逃げるどころか怯みもしないだと」
ウルカが思わず瞠目する。いきなり放った殺気にミヤ達ですら体をすくめたというのに、臆病である筈の動物達はピクリとも動じなかった。
姿形は間違いなく動物なのに、その中に得体の知れないものを感じ取ったウルカはゾクリと身体を震わせた。
「エルディオ、今ならお前の言いたい事が分かる。これは相当に……気持ちが悪い」
「だろうよ。姉貴の殺気で逃げ出さない野生動物なんざ居てたまるか。コイツら普通じゃねぇ」
「の、のぅお主ら。よくは分からぬが、やはり下手に動かぬ方が懸命か?」
「視線の正体はコイツらなのか、そもそも本当に動物なのか。不明な点が多過ぎる。慎重に動いた方がいいのは確かだろうな。
エルディオ、他の皆に異常を伝えて回ってくれ。私はミヤの安全を確保する」
「分かった。姉貴も先走んなよ?」
「ああ、今回ばかりは慎重に動くさ」
ウルカが迅速に指示を飛ばし、了承したエルディオが駆ける。その場に残されたウルカは徐にミヤの背中を押して、他の亜人が多く密集する方へと移動を開始した。
この動物モドキの目的がミヤだと決まった訳ではないが、用心に越したことはない。ウルカの判断は正しいだろう。
「より真実味を増してきた」
「……先程の勘か?」
「ああ。これだけの異常、自然ではありえない。裏で何者かが糸を引いていると考えて間違いないだろうな。
この動物にしろウェアウルフにしろ、やはり偶然とは考えにくい。とにかく、お前の身は最優先で守らせてもらうぞミヤ」
「すまぬ。……使う事はあるまいと思っていたが、最悪やらねばならぬか」
「ん? 何だそれは?」
神妙な面持ちでミヤが懐から取り出したのは、ウルカにとって見慣れぬ何か。引き金が付いている事から、どこか彼が扱っていた銃にも見えるも、本来銃弾を撃ち出す部分は大きな筒状になっていた。
これは彼がウェアウルフの討伐に赴く際、ミヤに渡した物である。銃を扱う事に抵抗と恐怖を覚えているミヤは、絶対に受け取らないスタンスを崩そうとはしなかったのに、肝心の彼は半ば無理やりにそれを押し付けてきた。
それを今取り出し、ミヤはジッと渋い顔で眺める。
「彼奴から渡された物での。要らぬと言ったのじゃが、彼奴曰くこれには殺傷能力は無いらしい。有事の際はこれを空に向けて撃てとだけ言われた」
「空? アイツは上から奇襲でも来ると考えているのか?」
「じゃとしたら殺傷能力の無い物を渡す意味が無かろう。これはおそらく、戦う為の物ではないと儂は考えておる」
「ふぅむ……何を考えているんだアイツは」
「さて、の。何にしても、最悪の場合は使用する事も視野に入れておこう。これが何を為してくれるのかは皆目見当もつかぬが、意味の無い物を渡す筈はないからのぅ」
「心底分からない奴だ」
「カカカっ、同意じゃな」
数多の視線に晒される中、ミヤとウルカは亜人達の中へと紛れていく。
今や時刻は、空に小さな月が浮かび上がる頃だった。
感想等お待ちしております。