9.初体験
翌朝。いよいよ七月三十一日になる。明日からは八月だ。
といっても強い日差しは変わることなく、俺の頭へガンガンと降り注いでいるんだけどな……。暑い事には変わりない。
自転車に釣り竿を取り付けて……と思ったが難しかったのでリュックにさすことにした。
さあて、行くとするか。
ん? まだ午前中だって?
うん。その通り。昼までにまだ数時間はある。
というのはだな。
朝起きて、農作業を手伝おうと畑に行き留蔵に挨拶をした。
まあここまではいつも通りなんだけど、「今日は何をするつもりなんだ?」と留蔵に聞かれて「釣り」と答える。
すると彼は釣りなら朝から行った方がいいと言ってくれて、今日のお手伝いは無しになったんだ。
途中コンビニによって飲み物とかおにぎりなどを買おうと思ったけど、コンビニは反対側で遠い……。ならと思って港前の古ぼけたお店に立ち寄ることにした。
お店の横に自転車をとめ、店内に入る。
お、おお。昭和の駄菓子屋みたいな感じになっているんだな。
木枠でできた格子状の平置きの棚があって、そこにはいろんなお菓子……ではなく干物とか豆類が入っていた。
右手は洗剤とか日用品で、左手はお弁当やタオルなど行楽用のグッズかなあ。
レジ横には港前らしく釣り餌も置いてある。
だが問題が一つ。
お店が開いていたのはいいんだけど、店内には俺しかいない。店員さんはどこに?
「すいませーん」
奥にむかって声をかけると、レジ奥の引き戸が開き七十歳くらいの真っ白な髪をしたおばあさんが顔を出す。
「はいはい。何かお買い上げですか?」
おばあさんはコロコロした笑顔を見せ、レジ奥の座布団の上へよっこらしょっと正座する。
「釣り餌とお弁当、それとお水、コーラを」
俺は自分で飲み物とお弁当を手に取り、レジに置く。
釣り餌はどれを選んでいいのか分からないので、おばあさんに聞いてみるか。
「おばあさん、釣り餌のオススメはありますか?」
「そうだねえ。ゴカイでいいんじゃないかねえ」
「それって海用じゃあ」
「おきゃくさん、川釣りかい。それは珍しい。なら、これを持っていきな」
「ありがとうございます」
袋に入った赤色の小さなミミズみたいな餌をオススメしてくれた。
えっと、見たまんまな名前がついているな「赤虫」だってさ。
お金を払って、商品を受け取るとおばあさんへ会釈をして踵を返す。
「おきゃくさん、川は流れが速いところもあるからきいつけなされ。おきゃくさんはこの島の人じゃあないだろう?」
出口まで来たところで声をかけられ、振り返り「はい」と応じた。
「神社の横辺りで釣ろうと思っているんですよ。そこまで深くないですし、気持ちよく釣れるかなあと」
「それはそれは、また変わったところで。私の娘も昔神社に通っていたことがありましてねえ」
おばあさんは懐かしむように首を縦に振る。
「へえ、釣れるんですか?」
「分かりませんなあ。娘は釣りをしなかったもので」
「じゃあ、俺が釣れるかどうか報告しに来ますよ」
「そらご丁寧に。待っとります。その時は縁側でお茶でもしましょうや」
「はい!」
おばあさんと会話するとなんだかほっこりとした気分になった。
いいなあ。こういうのって。
◆◆◆
山道を進み神社に向かう。
し、しまった。この道は狭くて歩き辛いから、遠回りしてでも歩きやすい道があるか聞こうと思ってたのに。
翠じゃなくて、お店のおばあさんにでもよかった。これだけチャンスがありながら、聞いていなかったとは……。
汗を拭きそんなことを考えていたら、野イチゴの群生地までたどり着く。
あと少しだ。
ごくごくとスポーツドリンクを飲んで一息つき、脇道へと入っていく。
ふう。着いた着いた。
鳥居をくぐり、境内へと入る。
翠はきっと俺がいつも通り午後から来ると思っているだろうから、先に川へ行こうかな。
こんな時、スマホがあれば便利なんだけど彼女は持っていないし。いや、持っているかもしれないけど、幽霊が利用料金を支払っているとは思えない。
水桶の後ろにある蛇口を捻り、空になったペットボトルに注ぐ。
冷え冷えでいい感じだ。
じゃあ、川へ行くとしますか。
境内から左手に進み、下ったところでどこがいいかなあと左右を見渡す。
「やっぱ、あそこだよな」
翠と並んで座った出っ張った岩のところへ腰かけ、竿を準備する。
ここは二人で並ぶと少し狭いんだけど、ぼーっと竿を持ったまま川へ糸を垂らすことができるしゆっくりやるには最適だ。
それに……。
狭いから、肩を寄せ合って座ったり……。
そうそう、こんな風に二の腕辺りへ翠の体温が感じ取れるような。
え?
「今日は、おはよでいいよね? おはよ。九十九くん」
肩に体重が乗り、翠がこちらへ顔を向ける。
「お、おはよう。急に出てきたらドキドキしちゃうよ」
「えへへ。ドキドキさせたかったの」
そんなことを言われると、違う意味でドキドキしてきたよ。
頬の火照りを誤魔化すように、リュックから先ほど買った赤虫が入った箱を取り出す。
「それは?」
「これは、釣りの餌だよ」
中を開くと赤い小さなミミズのようなものがギッシリと。
翠は興味深そうに俺の手元を覗き込んできたけど、パッと身を引き両手で俺のTシャツの袖をぎゅううっと握りしめる。
「ビ、ビックリ。ちょっと気持ち悪いね……それ」
「そ、そうかな。ははは」
ちょうど顎の下から翠が俺を覗き込むような体勢だったから、また心臓が高鳴ってしまう。
ん、んん、ちょ、ちょっと。
「七海さん、くすぐったい」
翠の指が俺の首元に触れてきているではないか。
ひんやりとしてなんて心地がいいんだ。
「九十九くん、これ?」
翠は俺が首から下げたチョーカーに取り付けられた古銭に触れる。
な、なるほど。古銭が見えたから手を伸ばしたのね。まさか俺を押し倒すとかは無いと思ってたけど納得だ。
「あ、それは爺ちゃんから受け継いだんだ。爺ちゃんの爺ちゃん? かお父さん? から続くお守りみたいなもんで」
「そうなんだ! わたしと同じだね」
翠は髪の毛をまとめているかんざしを撫でる。
彼女のかんざしもかなり年季が入ったものに見えたもんなあ。
「そのかんざしは俺みたいに受け継いだものなの?」
「うん。おばあちゃんのおばあちゃんの時代に作られたかんざしで、江戸時代のなんだって」
「へえ。そりゃすごいね」
「えへへ」
あれだけ綺麗に磨かれていたんだもの。これまでずっと大事にされてきたんだろうなあ。
俺もこの古銭をずっと大切にしていきたい。
自然と首元に手が伸び、古銭の四角く開いた穴の辺りを触れる。
「よっし、とりあえず糸を垂らしてみようかな」
「釣りをしている人を目の前で見るのって初めて!」
「そ、そうなの? じゃあ、釣りをやったこともないのかな?」
「うん!」
「じゃ、じゃあ。七海さんが釣り竿を持って」
「で、できるかなあ……」
「大丈夫。簡単だって」
翠に釣り竿を持たせて、軽く振るように言ってみるが彼女は困ったように俺を見上げる。
「一緒じゃ、ダメ?」
「ん?」
「手を添えて欲しいな……」
「わ、分かった」
翠の後ろから腕を回し、釣り竿を握る彼女の手に自分の手を重ねる。
密着しないよう注意しつつ、手を動かし釣り竿を振るう。
「すごい、糸がちゃんと川の中に落ちたね」
「あ、うん」
はしゃぐ翠だったけど、俺は君の方が気になって仕方がないんだが……。