8.いいこと
まごついていると、俺の視線に気が付いた翠がポンと手を叩き黄色のリボンへ指先を伸ばした。
「いつも着ている服はね。出し入れ自由なんだよ? それにこの服は汚れないんだ」
細く繊細な指がリボンに触れると、忽然とそれは姿を消す。
「う、お」
俺が翠の襟首を見ていたから、服が気になっていると勘違いしたのか。
それにしてもビックリした。
「着替える時は、一旦服を消して着れば大丈夫!」
「服を消す……」
消す……。
心の中でも同じ言葉を反芻する。
セーラー服を消すと、さっきの純白が表に。上も純白なのだろうか?
「どうしたの? 九十九くん」
「あ、いや、白?」
しまった。翠から顔を逸らし口を塞ぐ。
彼女といる時、うっかりして口を滑らせることが多くて困る。
「あ、幽霊なのに白装束じゃないんだとか考えてた?」
「う、うん?」
「よくわからないんだけど、気がついたらセーラー服だったの」
「へえ、そうなんだ」
いい具合に勘違いをしてくれて感謝。
ほっとしていたら、急に彼女の顔がお互いの息がかかる距離に。
い、いきなりどうしたんだ?
彼女は片目をつぶり、人差し指を口に当てる。
「九十九くんが今考えていることを当ててみせようー」
「え?」
このまま唇を奪いたい。
「それはあ。わたしが『お喋りできて』『着替えができる』ってさっき言ったから」
そんなことは今考えてないって。
それよりなにより、口を動かすたびに髪の毛が少し揺れてあまーい香りが。マジで。このまま……どうにかしたい。
「そ、そうだな……うん」
理性で堪えろ。俺。ここで襲い掛かったら全てが台無しだって。
「着替えは分かったから、次は『お喋り』のことだね! じゃあ、質問です」
「は、はい」
「わたしは九十九くんと会話できます。姿も見えます。何ででしょうか!」
「ちょ、待って……」
ええとだな。
翠は幽霊で誰しもが姿を見ることができるわけではない。
通常見ることができない幽霊の姿がを見るには……俺の霊感がズバ抜けていた?
いや、ないない。俺はこれまで霊の姿なんて見たことが無い。
となると、彼女が俺に何かした? 口付け……その思考からもう離れたほうがいいな、うん。
でも、仕方ないだろ。彼女は息をしていないから吐息こそかからないけど、少し顎を動かすだけであの唇に……いかん、また思考がズレた。
ともかく……彼女と出会った時から振り返ってみよう。
最初に俺は……そうだ。彼女のかんざしを拾った。
「分かった! 七海さんのかんざしだ。俺が拾って君に渡すことで契約みたいなのが成立した?」
「んー。半分正解! でも誰でもいいってわけではないの」
「ふうむ」
「もし正解したら、いいことしてあげてもいいよ?」
「いいこと……」
翠は少し顔を引いて、目を瞑る。
ほう、ほうほう。
これはがんばらねばならないな。今こそ目覚めよ、俺の脳細胞。
そうだ。俺が高校三年生だと彼女が分かったことを不思議に思ったんだった。
それに、思わせぶりな言葉もあったじゃないか。「九十九くんだからだよ」とかドキっとするアレだよ。
もう少しで思いつきそうで、喉元に小骨が刺さったように出てきそうで出てこない。
考えろ。ここは気合で答えを導き出さねばならぬのだ。ご褒美が待っている。
いいか、俺。彼女はかんざしを俺の前に置いた。
俺なら彼女の姿を見ることができるかもしれないと思ってだ。
きっと俺ならばと彼女は思ったに違いない。なら何故?
あの時点で彼女が知りえる俺の情報なんて、容姿ぐらいだろう。
平凡で眠たげな目をした特徴の無い男……言っててへこむな……。それはいい。
俺の見た目でカッコいいから興味を持ったってのは、誠に残念ながら想像し難い。
あ、そうか。彼女は俺を見て「高校三年生」じゃないかって推測したんだ。
つまり――。
「分かったよ。七海さん」
「行ってみたまえ。九十九くん」
「正解は年齢だ!」
「おお。正解。すごいね。九十九くん」
翠は両手を胸の前で組み頬を上気させた。
「やったぜ!」
「うんうん。じゃあ、九十九くん。目をつぶって」
「ん?」
目を閉じる……せっかくの体験に目を閉じるのか。
あ、いや。俺の想像している通りだと、目を閉じるんだけど。
「わたしじゃ、嫌かな……?」
「いやいや!」
そんなわけないじゃないですかあ。
大歓迎ですよ。
さっきから自分で抑えるのに必死だったんだもの。
鼻息荒くならないように細心の注意を払いながら、目を閉じる。
すると、彼女の髪の毛が頬に触れる感触がして……唇にちょんと何かが触れた。
「どうだった?」
「よくわからなかったよ。同い年の女の子とキスをするなんて初めてでさ」
「……そ、そうだったんだあ」
明らかに目が泳ぐ翠。
ま、まさか。俺をだましたなあ。
「七海さん。ひょっとして、今のはキスじゃなくて……」
「そういうことにしよう。ね? 九十九くん」
「『ね?』じゃ……。七海さんはキスしたことあるの?」
「無いよ?」
「待てええ!」
何だったんだ。今のは。
俺のこのときめきを返してくれ。
「で、でも、指で男の子の唇に触れたのは初めてだよ?」
「……」
翠は、恥ずかしそうに頬を僅かに染める。
ま、まあいいか。赤らめた顔を見たし……。いずれ、ちゃんと。うん。
「怒っちゃった?」
翠は、不安そうに上目遣いで見つめて来る。
手を床につき見上げてくるものだから彼女の髪の毛が首筋にかかり、ドキリとしてしまう。
「怒ってないよ」
頬に熱を感じ、横に顔を向け腕を組む。
「ほんとー? その態度……」
「怒ってないってば」
「うん!」
「そうそう!」
顔を見合わせ笑いあう。
と、その時――。
「おおーい、九十九。電話か? 俺はもう寝るから、冷蔵庫に入ってる物は何でも取っていいからな」
扉の外から留蔵の声が響く。
よ、よかった。留蔵が扉を開けてなくて。
確かに外から聞くと電話をしているようにも思える。まさか幽霊と一緒に部屋でキャッキャしているとは留蔵も考えまい。
「ありがとうございます」
「おう。アイスもあるぞ」
留蔵の足音が遠のいていく。
完全に留蔵の気配が消えたところで、翠が口を開く。
「遅くまでありがとう。九十九くん」
「ううん。また明日会えるかな?」
「うん! 神社のところでもいいかな?」
「了解! 明日は釣り道具を持っていこうかな」
「楽しみ」
翠は立ち上がり、右手を左右に振る。
「じゃあ、ばいばい」
「うん」
踵を返すと翠は忽然と姿を消す。
目の前で消えられると、彼女が幽霊だってのにも納得がいく。
ひょっとしたらエスパーのテレポーテーションなり透明の術なりかと思ったけど、お化けの方がしっくりくるよなあ。
それにしても……俺は自分の唇に触れ頬が緩む。
あ、やべ。さっきのことを思い出すとニヤニヤが止まらねえ。
そんな幸せな気持ちのまま、歯を磨き布団に入る俺なのであった。
明日は川で翠と一緒に釣りをして……海にも行きたいなあ。彼女の水着姿を見てみたい。
なんて考えているとすぐに寝てしまう。