25.ハグ
翠の体温、彼女の柔らかさを感じると決意が揺らぐ。
で、でも。俺は君を失いたくはないんだ。
「翠」
「どうしたの?」
俺の肩へ顔を乗せる翠。
フワリと彼女の髪の毛からいい香りが漂ってくる。
「俺としばらく会わない方がいい」
「また、そんなこと言ってえ」
口に出すだけで、ぎゅううっと胸が締め付けられる思いだ。
翠は冗談だとでも思っているのか、いつものような明るい口調で言葉を返してきた。
「いや、真剣なんだ」
「どうして……そんなこと?」
翠の声色が変わる。
怒りや悲しみより、茫然としたと表現すればいいのか。
予想していたことだけど……俺はもう彼女と目を合わせられないくらいの気持ちになってしまって、拳を握りしめ目を瞑る。
「翠だって分かっているだろ? 俺は翠に……消えて欲しくないんだよ!」
「わたしが消えるかもしれない……そんなこと。最初に眠った時から分かっていたよ?」
俺が翠がこのままだと消えてしまうかもしれない。彼女が消えてしまうと確信したのは彼女が二度目に寝た時だ。
その時には既に翠は自分がこのままだと消えてしまうと分かっていた。
ならば何故。君は、俺に、今まで通り、いやそれ以上に、朗らかで親しげに、それに――。
『大好きだよ』なんて言うんだよ!
「このまま俺といると、君はもう……」
「九十九くんは全然、分かってないよ……」
翠は俺の背中から離れ、立ち上がる。つられて俺も立ち上がり、彼女と向かい合う。
彼女は目から大粒の涙をぽろぽろと流し、それを拭おうともせず俺をじっと見つめていた。
「翠」
「九十九くん、どうして……どうして……」
彼女の涙が頬を伝い、そのまま畳みを濡らす。
そんな彼女を前にして尚、俺は立ち尽くしたまま彼女に触れようともしなかった。
「俺はただ、君と……君に」
「もういい! 九十九くんなんか知らないもん!」
翠はかぶりを振り、障子をスルリとすり抜けて外へ出て行ってしまう。
「翠……」
一人残された俺はその場でガクリと腰を落とし、畳に手をつく。
「これで……よかったんだ……」
それなのになぜ、俺の目からとめどなく涙が流れて来るんだ。
いや、これで翠は消えないで済む。
時を開けて、気持ちが落ち着き、俺への思いも薄れる頃……そうだな、冬にでもまた……。
翠の消えていった障子へ目を移すと、彼女とのこれまでの思い出が頭に浮かんで来る。
石碑でも海でも、ただの道でさえ彼女は「楽しい楽しい」と言っていたなあ。俺へは消えることに対する不安など微塵も見せずに、いつも笑顔で。
すぐに眠たくなって、起きて……また眠たくなるかもしれない。今度こそ消えるかもしれないって、俺なら不安で仕方ないよ。
その時俺はガツンとハンマーで頭を叩かれたようにハッとなる。
「違う。違うだろ。俺」
バカだ。俺はなんて愚かなんだ!
翠が不安じゃないわけないだろ。彼女はきっと俺へ泣き言の一つくらい言いたかったはずだ。縋りつきたかったはずだ。
じゃあ、何でしなかったんだ?
俺は自分のことしか考えてなかった。
彼女に消えて欲しくない。その思いはなんて独りよがりで……翠のことをないがしろにした思いだったのか。
やっと分かった。今更だけど。
翠は「今を」次の瞬間に消えてしまったとしても……。
俺と精一杯、好きな思いを伝えたい。
楽しく過ごしたい。
だから、悲しい顔は見せない。
思い出してみろ。彼女の涙を見たのは、さっきのを含めてたった二度だけだ。
一度目はまだ彼女の気持ちは俺には向いていなかった時だった。
「翠。ごめん……」
俺も君へ好きだと伝えたい。もう迷わないから。
君を、君へ、全部、俺の思いを。そして、君の思いを聞きたい。
「翠。すぐに行く! 待っててくれ」
障子に向かってそう呟き、リュックを背負い自室を出る。
◆◆◆
外に出ると、祭りの喧騒はすっかりおさまりシーンと静まり帰っていた。
満月の明かりが道を照らし、俺は迷わず走る。
山の入り口まで駆けた俺は、そのまま休まず山道へ入った。
脇道を進み、石でできた鳥居をくぐる。
「翠!」
左右を見渡しながら、力一杯叫ぶ。
きっとここにいるはず。
確信を持って本堂まで進むと、さい銭箱の前にある段差の上に座る翠が目に入る。
「九十九くん!」
「ごめん。翠。ごめん」
「九十九くん、『ごめんね』じゃなくて」
「だな。翠、待っててくれてありがとう」
「どういたしまして!」
翠は立ち上がると俺の胸に飛び込んでくる。
「そうはいくか」
ひらりと翠の突進を躱す俺。
我ながらなんて軽やかな動きなんだ。
「もうー」
翠の顔が曇る。彼女が消えることを恐れる俺を思い出したのだろう。
だが、違う。
「翠」
「ん?」
彼女の名を呼び、気を引いたところで後ろに回り込みギュッと抱きしめた。
「こうしたかった。俺から君を抱きしめたかった」
「九十九くん。わたしもキミにこうして欲しかったよ?」
「ごめ……いや、俺流の焦らしプレイってやつだよ。ははは。待った方がより一層、気持ちが昂るだろ?」
「九十九くん、それは無理があるよ? なんでも気障っぽくすればいいってもんじゃ」
そのセリフ……どっかで聞いたな。あ、俺が言ったことを真似したんだ。「なんでもえっちって言えばいいってもんじゃない」ってやつを。
「でも、後ろからなんだあ」
翠は不満そうな声を出す。
そう言いつつも彼女は俺の手に自分の手を重ね、首を後ろへ傾け俺の顔を見ようと背伸びする。
しかし、真後ろに立つ俺を見ることは叶わない。
そんな彼女の様子にクスリと小さく笑い声を出し、彼女の肩をつかみくるりと体を回した。
肩から彼女の腰へ腕を動かし、ギュッと力を込める。
一方の翠は頬を染めつつも、俺の背中へ腕を回す。
「翠」
「九十九くん」
息がかかるような距離でお互いに見つめ合う。
「翠、俺は君が大好きだ」
やっと伝えることができた言葉。
伝えたかった言葉。
「九十九くん、わたしもキミが大好きだよ!」
翠の手に力が籠る。
しばらくそのまま抱き合い、翠は俺の胸の顔を埋める。
対する俺は彼女の頭をそっと撫でた。
その時ふと、彼女が顔をあげ俺と目が合う。
潤んだ瞳で見上げる彼女がとてつもなく可愛くて、愛おしくて。
自然と彼女へ顔が近づいて行き、彼女も顎をんっとあげ……。
彼女の額にキスをした。
「え、そこで、おでこなの? 九十九くん」
「指のお返しだ!」
「もうー。九十九くんの意地悪ー」
「あはは」
「えい」
引き寄せられ、翠の唇が俺の唇に触れる。
「……っつ。嬉しい。嬉しいけど、俺からしようと思ってたのに」
「えへへ」
はにかむ翠の口を自分の口で塞ぎ、彼女の背中へ手を回す。
触れるだけのキス。
しかし、口を話すと彼女は耳まで真っ赤になって、ぽおっと俺を真っ直ぐに見つめていた。
「そうだ。翠。花火をやらない? 持ってきたんだよ」
「うん! 覚えていてくれてたんだ」
「俺からやろうっていったんだしな。あの時」
「それでも、ちゃんと用意してくれる九十九くんであった」
「ははは。褒めていいぞ」
「おー、えらいえらい。苦しゅうないぞ」
「それ何か違う」
リュックを降ろし、中から花火セットと子供用の小さなバケツを出す。




