21.おんぶ
え。ええ……。
「翠……」
「どうしたの? 九十九くん」
躊躇せずずんずんと前へ進んで行っているけど、海水が首の辺りまできている。
遊ぶには少し深くないか?
「翠!」
翠の頭がそのまま海の下に沈んで行った。
彼女は泳ごうともせず、足を海底につけたままだったぞ。
このままだと溺れてしまう!
「翠! あばれずじっとしていてくれ! すぐに引っ張り上げるからな」
大きく息を吸い込み、海の中へ潜る。
ちょ! 翠がこっちに笑顔を向けて手を振っているじゃねえかよ。
あ、あれ。口からぶくぶくとした気泡がまるで出ていない。
あ、そうか。
って俺の息が限界だ。
「ぷはあ。翠、浮いてこれる?」
俺の呼びかけへ翠は泳がず、そのまま浮き上がってきて顔を水面に出した。
ちょ、ちょっと不気味だな……これ。
そうだった。彼女は息をしないんだ。
「翠、水面の上に立ってみて」
「うん!」
翠は、すうううっとそのまま浮き上がり水面へ立つ。
いや、「正確には立っているように見える」だな。彼女の足先は僅かだけど水面より上にあるんだ。
でも、水面の上に立つ美少女。
とても絵になるよなあ。
顔をあげ下から見上げるように彼女の姿を眺めていると、彼女はパレワンピースの裾を手で抑えた。
「もう、九十九くん」
「あ、いや。全くそんなつもりはなかった」
「ほんとー?」
「うん。幻想的で綺麗だなあって」
「もう!」
翠は頬に朱色がさし、唇を尖らせる。
「いや、でも。翠」
「誤魔化そうとしてるー」
「……海底を歩くことができるなら、アクアラングなんて使わずに海中を見たい放題だな。素晴らしい」
「あ、そっかあ」
「今まで海の中に入らなかったの?」
「うん。今日が初めてだよ。でも、今まで海の中に行かなくてよかったかも」
「ん?」
「だって、九十九くんと来れたんだもの。二度目より初めての方が海に入ったことへ感動するじゃない!」
ちょっと言葉の意味が捉え辛かった。
が、意味が分かると頬が熱くなる。
初めての方が、二度目より感動が大きく楽しい。初めての体験が一人じゃなくて、俺と一緒だったからよかったってことだよな。
「九十九くん、頬が赤いー。またえっちなことを」
「だから違うって。その発想しかないのかよお」
「冗談だよー」
「く、くうう」
いちいち引っかかる俺も俺だよな。
「ちょっと戻る。翠が自由に海中に潜ることができるんだったら、俺も」
「うんー」
磯遊び用にシュノーケルとゴーグルを持ってきていたんだよ。
これを使えば、海中に俺も潜りやすい。
こう見えて俺、泳ぎは苦手じゃないんだぜ。
◆◆◆
海中で翠と一緒に泳ぐ魚を見たり、岩に張り付く貝を剥がしてとったり……ワカメに引っかかったり……と楽しい時間を過ごす。
ひとしきり遊んだら、砂浜に戻ってお昼を食べ、折りたたみチェアに座り少し休憩をとった。
翠は全然元気なんだけど、俺がもたねえよ。
彼女は体力とか関係ないからな。
「楽しいね。九十九くん」
「うん。とても楽しい」
「キミと海へ石碑へ行けて、わたし……とっても嬉しいよ!」
「なんだよ。急に」
「えへへ。伝えたいことはすぐに伝えるの。恥ずかしいとか思ってたらダメだってね!」
そうだ。
そうだよな。
翠は今を精一杯過ごしている。後悔しないように。いつ消えてもいいように。
いや、そもそも彼女は優との経験から時間制限について重々分かっていた。彼女の素直さ、朗らかさが俺の胸をちくちくと刺激する。
対する俺は……迷い、彼女へ伝えたいことも飲み込み。躊躇していた。
翠のことを俺がどれだけ思っているのか。心の丈を全てぶちまけたい。でも、彼女が消えてしまうのが怖くて言えないでいる。
情けない俺でごめんな。
このまま彼女と仲良くなっても、彼女の眠る時間ができるだけと確信できれば……いや、希望だけで物事を認識すると理解を放棄してしまうことになりかねない。
「……俺も嬉しいよ」
結果、口をついて出た言葉はそれだけだった。
「よかった!」
それでも翠はこぼれるような笑顔を俺へ向ける。
「翠、午後は何しようか?」
「……」
「翠? 翠!」
彼女が急に無表情になって虚空を見つめているではないか。
さああっと血の気が引いた俺は、祈るように彼女の肩を両手で掴みゆさゆさと揺する。
「翠!」
「……九十九くん」
翠の目に光が戻り、俺へ顔を向けた。
「よかった……」
俺は心の底から呟く。このまま消えてしまわなくてよかった。
「ごめんね。少し……眠たいや。少しだけ眠っていいかな」
「寝るなら布団まで……もたないか?」
こんなところで眠ったら、俺がここに居続けるのが難しいじゃないか。
キャンプ道具は……倉庫にあるかもしれないけど……。いきなりここでキャンプなんて始めたら、下手に注目されるかもしれない。
そうなると、翠のことで変な噂がたってしまいかねないからな。
「九十九くんがおんぶしてくれるなら大丈夫かな」
「よっし分かった!」
服を着て、膝を屈めると翠が後ろから俺の首へ腕を絡めてくる。
「翠、もし寝ちゃったら俺の目には見えなくなるのかな?」
「どうなんだろう。分からないや。でも、成仏とかそんな予感はしないよ……大丈夫。ね、九十九くん。ふああ」
あくび混じりに翠はそう言ってのけるが、俺の方は気が気じゃない。
「って、翠。本当に俺の背中に乗っかってる?」
翠の柔らかさと低い体温は感じるんだけど、人を背負っているような重さがないんだ。
「うん、しっかり、九十九くんが好きな密着をしているよ?」
「密着って……否定はしないけど……」
「えへへ。わたしの……ふああ……九十九くんの背中は気持ちいいなあ……」
「言葉が繋がってないぞ。翠。寝ぼけているのか?」
「やっぱりダメかも……ね、眠たいかな……」
「この軽さなら、すぐだ。走る!」
緊急事態だから、翠をおぶったまま自転車に乗ろうかと思ったけど……彼女がしがみついていてくれないと振り落としちゃうからなあ。
いつ寝てしまうか分からない状況では使えない。
そんなわけで、自転車をスルーしてそのまま留蔵の家に向けて走る。
行きは自転車を押して三十分くらいだったから、走れば十五分もかからないだろ。
ただし、俺がずっと走ることができればだけど……。
「え、ええい。走るったら走るんだ」
◆◆◆
――自室。
「翠、よく耐えてくれた。絶対、絶対に起きてくれよ。待ってるから」
「うん……大丈夫だよお。九十九くんは心配性だなあ……」
布団にパレオワンピース姿のまま寝ころんだ翠が、俺へ微笑みかける。
でも、彼女の目はトロンとして今にも眠ってしまいそうだった。
心配で仕方ないけど、ここは彼女の言葉を信じる。
「うん、分かった。おやすみ、翠」
「九十九くん、おやすみ……大好き……」
最後の方はくぐもって何を言っているか分からなかったけど、翠は喋り終わらぬうちに寝息を立てて眠ってしまった。
翠の姿は見えている。この前眠った時も見えていたのかなあ。
あの時さんざん探したけど、彼女を発見できなかった。起きたらどこで寝ていたのか聞いてみるか……神社とは言っていたけど。
もちろん俺はあの時神社を捜索した。それなりに見たつもりだけど、屋根の上とか木の上だったら確認しようがないからなあ。
とりあえず、俺にとって大きな収穫だったのは、翠が見えることだな。
見た所、姿が希薄になった様子もないし。彼女の言葉通り、眠っているだけに違いない。
どれだけの時間、眠るのかは分からないのが辛いところだけど。
寝息も立てない翠の頬をそっと撫で、立ち上がる。
これから砂浜へ行って、自転車や荷物を回収しとかないと。
「おやすみ、翠」
再び彼女へ声をかけ、俺は自室を出た。
余談ではあるが、折りたたみチェアを含めて一回で運ぶのは翠の助けがないと無理があったらしく……途中で何度か落としてしまう。
なので結局、留蔵の家と浜辺を二往復した。




