11.おばあさん
さあて、靴と靴下は脱いだ。ズボンの裾はまくった。
行くとするか。
そうなんだ。釣り竿が岩の上から川へドボンしてしまった。
ちょうど手を離した後に風で煽られてだな。コロコロと転がり……。
幸い釣り竿が流されていってしまうほどの流量はなく、深さも膝下辺りだと思われるところに落ちている。
「じゃあ、行ってくる。ここで待っててね」
「うん」
川べりで翠へ向け右手をあげて、一歩踏み出す。
思ったより冷たいなあ。しかし、足から伝わる小石の感触が心地いい。
よおし、順調順調。
あと少しで手が届く。
深さは思ったより深い。膝上くらいまで水が来ていて、せっかくジーンズをたくし上げたのに無駄に終わってしまった。
長ズボンだから、膝辺りまでしか上にあげれなかったんだよなあ。
こんなことなら脱いで川に入れば……いや、それはそれでマズイ。
裾から水がドンドン登ってきて、太ももの付け根あたりまで濡れている。
しかし、それにも構わず俺は釣り竿へ手を伸ばす。
む。少し距離が足らない。ここは更に深くなってんのか。
仕方なく一歩進むと。
足元の大き目の石が動き――。
見事にその場ですっころんでしまった。
「九十九くん!」
翠の驚いた声が耳に入る。
ただでは転ばぬと、転んだついでに釣り竿を掴み起き上る。
続けて、彼女の方を向き少し大きな声で叫ぶ。
「大丈夫だよ。濡れただけ」
「むう。そのままだと風邪を引いちゃうよ」
両手を広げ早く早くと俺を急かす翠。
過剰な心配だよなと考えたけど、彼女の事情を顧みると当然と言えば当然か。
健康。
それこそ、彼女が生きている間ずっと気にかけていたことだし。
そんなわけで、釣りを中断して俺は一旦留蔵の家に帰ることとなった。
翠の物憂げな顔が酷く俺の心に残ったわけだが……。心配させてしまってごめんと心の中だけで誤ることにした。
口に出すと彼女はより一層、気を使うだろうから。
◆◆◆
留蔵の家に戻ると真っ先にシャワーを浴びてから、お昼にした。
服装は浴衣だ。
一着濡れて洗濯機に入れた。一応着替え用のズボンは一着持ってきているけど、残念、まだ干している。
上なら四着あるんだけど、肝心の下がないとどうにもできないしさあ。そもそもジーンズとかそうそう洗うもんでもねえし。
ひょっとしたら使う事があるかもしれないと思って、浴衣を持ってきておいてよかった。
こんな時、いつもならボクサーパンツ一丁にTシャツでも全く構わない。
しかし、自室で翠に会った経験から、彼女がいつここへ来るか分からん。
その時にパンツ丸見えだと恥ずかしいだろ?
せっかくだから、お昼を一緒に翠と食べたかったなあ……でも彼女は食事をしないのかな。
あの場で別れちゃったのが悔やまれる。
別れ際に「また明日ね」と言っていたし……これから神社に戻るのも何だかバツが悪い。
というわけで、自室にある縁側へ出て扇風機を回しながら「あああああ」とお約束のことをやった後、冷蔵庫で冷やしてあったスイカを持ち込む。
ん、ひょっとしたら。
左右を見渡し、誰もいないことを念入りに確認。
「んー、可愛い七海さんをもっと見ておきたかったなあ……」
て呟いてみた。我ながらとんでもなく恥ずかしいが、必要なことなのだ。
もし翠がここにいるのなら、何らかの反応が絶対にあるはず。
そう、これは翠をあぶり出すための秘策……何たる策士なのだ俺は(自画自賛)。
……。
……。
いないか。残念。
どうすっかなあ。
スイカをかじり、一息つく。
留蔵は軽トラックで出かけちゃったみたいだし、お手伝いもできん。
かといってこのまま暇を潰すのも、もったいない。
そうだ。お店に行こう。
釣りは大失敗だったけど……。おばあさんとお話しましょうってお約束したしな!
◆◆◆
港前にある古ぼけたお店へ顔を出す。
店内には相変わらず誰もいない。お客さんがいなくてこのお店は大丈夫なんだろうか? と変なことを考えつつ「すいませーん」と奥へ声をかける。
するとすぐに廊下を進む足音がして、引き戸が開きおばあさんがやって来た。
「あらあら、川釣りに行ったお兄さん」
「こんにちは。行ってきたんですが、悪くはなかったですよ」
にこやかなおばあさんの顔を見るとほっこりとした気持ちになってくる。これは彼女が持つ天性のものなのだろうな。
そう考えると、お店の経営は彼女にとって天職と言えるのではないだろうか。
「いっぱい釣れたのかい?」
「いえ、全くでした……。なかなか難しいです」
「そうかいそうかい。ちょうどおやつにしようと思ってたんだよ。お兄さんもどうだい?」
「え、ありがとうございます。あ、あのこれ」
ここに来る時にこんなこともあろうかと思って、お土産を多めに持ってきておいたのだ。
日持ちのするものから選んだので、中身はせんべいなんだけどね。
「あらあら。ご丁寧にありがとうね。じゃあこれもさっそくいただくとしましょうか」
「はい!」
おばあさんへお土産を手渡す。
彼女はにこにこしたままよっこらしょっと声を出して壁に手をつきながら一歩進み、俺を奥へと促したのだった。
お店の奥は長い廊下になっていて、南側の日当たりのいい場所に縁側があった。
縁側の外は広い庭になっていて、物干し竿に洗濯物がかけられている。
おばあさんは扇風機の電源を入れ「少し待ってておくれ」と言い残しお茶の準備に向かう。
俺はと言えば、浜風に揺れる風鈴の音色へ耳を傾けぼーっと外を眺めていた。いいよなあ。こういうのって。落ち着くう。
「お待たせね」
「いえ」
おばあさんはお盆に暖かいお茶と冷たいお茶を乗せて戻ってきた。
彼女からお盆を預ったら「ありがとうねえ」と言いながら彼女は縁側に腰かけた。
ちょうど間に来るようにお盆を床に置く。
お盆には他にも羊羹と先ほど俺が持ってきたせんべいが乗せられていた。
「冷たいお茶はお兄さんのだよ」
「ありがとうございます」
ふう。お茶を一口飲み、さらに和む俺である。
おばあさんもぼーっと庭を眺めながら暖かいお茶を一すすり、
「こんな若い子とお茶をするなんて久しぶりだねえ」
と言いながらほおうと息を吐く。
「そうなんですか? 確か娘さんがいらっしゃるとか」
「娘はもういい歳だよ。今年は旅行だとかで帰省も冬までお預けだよ」
娘さん、確か一時神社へ通っていたとか言っていたな。確か……。
何もない神社に通う理由が見当たらないんだよなあ。絵でも描きに行っていた? それとも。
ひょっとしたらと思い、俺はおばあさんに尋ねてみることにした。
「おばあさん、娘さんて神社に通っている時期があったとか」
「そうさねえ。末の娘が夏休みの間にねえ」
「へえ、娘さんがいくつくらいの頃なんですか?」
「受験の歳だったんだよ。あの子ったら、受験に大事な夏だと言うのに神社にばかり」
「そうなんですか。確か、島の高校生は寮か何かに」
「よく知っているね。そうなんだよ。うちの子は夏休みの間はこっちに帰って来ててね。年始もそう」
懐かしむようにおばあさんは目を細める。
たぶん、いやきっとおばあさんの娘さんは翠に会ってたんだと思う。
どれくらい前の事なんだろう。
俄然気になって来た俺は、おばあさんに更なる質問を被せる。




